第16話 過保護という名の鉄壁
カイン・アシュフィールド様が、わたくしに公衆の面前で生涯の忠誠を誓った、あの日以来。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインの名声は、もはや制御不能なレベルにまで達していた。
「沈黙の魔女」に始まり、「歩く古代図書館」、「無意識の聖女」、そして今や、「奇跡を起こす騎士の主君」という、何とも大仰で、迷惑千万な称号まで追加されてしまったのだ。
その結果が、これである。
「お嬢様、本日届けられた、皆様からのお手紙でございます」
侍女のアンナが、銀の大盆に山と積まれた手紙を、わたくしの前に差し出す。その量は、もはや公爵家に届けられる公的文書を遥かに凌駕していた。色とりどりの封蝋、高級な羊皮紙、そして、インクに滲む、人々の身勝手な欲望の匂い。
『聖女イザベラ様、どうか不治の病に苦しむ我が子に、祝福を』
『聖女様、どうか借金で首が回らない私めに、金運の奇跡を』
『聖女様、どうか恋敵のあの女に、天罰が下りますように』
(……わたくしは、便利屋でも、呪い代行業者でもございませんのよ)
わたくしは、その手紙の山に一瞥もくれず、アンナに静かに命じた。
「アンナ。それら全て、暖炉の燃料になさいな。最近、少し冷えますから、ちょうどよろしいでしょう」
「お、お嬢様!? よろしいのですか!?」
「ええ、構いませんわ。わたくし、知らない方の人生相談に乗る趣味はございませんの。それに、紙はよく燃えますから」
アンナの引きつった顔を無視し、わたくしは紅茶を一口飲んだ。
けれど、本当の悪夢は、家の外からではなく、内側からやってくるものなのだと、わたくしはすぐに思い知らされることになる。
「リリィ! わたくしの、聖なるリリィ!」
嵐のような勢いで部屋に飛び込んできたのは、母レオノーラだった。その手には、神殿から取り寄せたという、何やら禍々しい紋章が刻まれた、黄金の錠前が握られている。
「お母様、そのような慌てて、いかがなさいましたの?」
「いかが、ではありませんわ! 聞きましたわよ、あなたがまた、奇跡を起こしたと! ああ、なんてこと! これ以上あなたの名声が高まれば、どんな悪党があなたを狙うか……! もう、我慢なりません!」
母は、そう宣言すると、わたくしの部屋の扉に、その黄金の錠前を、ガチャン、と重々しい音を立てて取り付けたのだ。
「これからは、わたくしの許可なく、あなたはこの部屋から一歩も出てはなりません! 食事は全て、我が家の領地で採れた、清浄なものだけを! 万が一に備え、毒見役も、今日から三人に増やします!」
「……お母様」
「窓にも、聖句を刻んだ鉄格子を取り付けさせますわ! 部屋の空気も、魔法のフィルターを通して、常に清浄に保ちますからね! ああ、そうだわ、あなたが寝ている間も、護衛の騎士を二人、枕元に立たせておきましょう! それなら安心ですわ!」
(……これは、もはや鳥籠ですらありませんわね。完璧な、聖なる牢獄ですわ)
わたくしは、返事をすることさえ諦めた。母の、この暴走した愛情の前では、どんな言葉も無力だ。
さらに、追い打ちをかけるように、父アルブレヒトまでが、上機嫌で部屋に入ってきた。
「イザベラ! よくやった! お前の奇跡の噂は、王宮にまで届いている! これぞ、ヴァレンシュタイン家の誉れ! 近々、王家主催の夜会がある。そこでお前の力を、皆に見せつけてやるのだ! お前の存在こそが、我が家の最大の権威となる!」
(……ああ、そうですか。見世物小屋の珍獣になれ、と。わたくし、つくづく、この家の便利な道具ですのね)
父は、わたくしの力を、家の権威を高めるための、最高の政治的カードだとしか思っていない。
母は、わたくしを、壊れやすいガラス細工のように、外界から隔離しようとする。
どちらも、「イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン」という人間そのものなど、見てはいない。
彼らが見ているのは、自分たちの欲望や不安を映し出した、都合の良い「偶像」だけだ。
その夜。
聖なる錠前で閉ざされ、清浄な空気で満たされ、屈強な騎士が二人、枕元で微動だにせず見張っている、完璧に安全な部屋で。
わたくしは、天蓋付きのベッドに横たわりながら、九十九回の人生で、一度も感じたことのない、息苦しさを感じていた。
平穏が、欲しかった。
ただ、誰にも邪魔されず、静かに眠れる時間が、欲しかった。
そのために、目立たぬように、息を潜めてきた。面倒事を、避けてきた。
けれど、その結果が、これだ。
意図しない行動が、周囲の過剰な反応を呼び、更なる面倒事を引き寄せ、わたくしを、この息の詰まるような「安全」という名の牢獄へと、閉じ込めてしまった。
皮肉なものだ。
わたくしは、初めて、はっきりと理解した。
このままでは、駄目だ。
ただ流されているだけでは、わたくしの安眠は、永遠に訪れない。
世界が、わたくしを放っておいてくれないのなら。
――ならば、こちらから、世界を、わたくしの望むように、作り変えるしかない。
わたくしは、暗闇の中で、静かに、瞳を開いた。
その紫の瞳の奥で、冷たい、しかし、確かな決意の炎が、ゆらりと灯る。
「……ああ、頭が痛い。頭痛は、安眠の最大の敵ですわ」
その呟きは、わたくしの百回目の人生が、新たな、そして、最も面倒なステージへと移行したことを告げる、静かな号砲となった。




