第15話 覚醒した忠犬と、王子の嫉妬
王立学園の医務室。消毒液の匂いがツンと鼻をつく、清潔で、静かな空間。
カイン・アシュフィールドは、ゆっくりと意識を覚醒させた。
最初に感じたのは、不思議なほどの、体の軽さだった。
(……痛くない?)
彼は、恐る恐る、背中に手をやった。あの、肉が焼け、骨が砕けるような、凄まじい痛みは、嘘のように消え去っていた。それどころか、まるで生まれて初めて、自分の体を意のままに動かせるようになったかのような、万能感さえある。彼はベッドから起き上がると、軽く拳を握り、腕を振ってみた。空気を切り裂く音が、以前よりも、遥かに鋭い。
「気が付かれましたか、アシュフィールド様」
入ってきた老医師が、まるで信じられないものを見るような目で、カインの全身を検めている。
「奇跡だ……。これは、まさに神の御業としか言いようがない。あなたの背骨は、完全に元通り。いや、それどころか、焼き切れたはずの魔力回路が、以前よりも、遥かに効率的で、強靭なものへと再構築されている……。一体、何が……」
その時、医務室の扉が勢いよく開き、カインの友である騎士見習いが、血相を変えて飛び込んできた。
「カイン! お前、目が覚めたのか! 大変だぞ、学園中が、お前の話で持ちきりだ!」
「……何があったんだ?」
「何って……イザベラ様だよ! イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン様が、お前に奇跡を起こしたんだ! あの、黄金の光……! 俺も見たんだ! まるで、女神様が降臨したみたいだった……!」
イザベラ様。黄金の光。
カインの脳裏に、意識を失う直前の光景が、鮮やかに蘇る。
血だまりの中に、躊躇なく膝をついた彼女の姿。自分に向けられた、あの、複雑な感情を宿した紫の瞳。そして、全てを包み込んだ、温かく、神々しい光の記憶。
あれは、ただの治癒魔法ではなかったのだ。
あの人は、わたくしを救い、そして、作り変えてくださった。この、新しく得た力。この、満ち溢れるような感覚。その全てが、彼女から与えられたものなのだ。
(ああ、そうか。わたくしは、あの時、一度死んだのだ。そして、イザベラ様の手によって、新しく、生まれ変わったのだ)
彼の心の中で、今まで抱いていた「憧れ」や「好意」といった生ぬるい感情は、溶鉱炉のように熱く燃え上がり、より純粋で、より強固な、別のものへと打ち鍛えられていた。
それは、「信仰」と呼ぶに、最も近い感情だった。
彼は、ベッドから飛び降りると、友人の制止も聞かず、医務室を飛び出した。
彼女を探さなければ。この、新しい命を与えてくださった、わたくしの唯一人の主に、感謝と、そして、永遠の忠誠を誓わなければならない。
*
一方、その頃。
わたくしは、ようやく喧騒から逃れ、自室へと続く、人気の少ない西棟の廊下を歩いていた。
(ああ、疲れましたわ。魔力をあんなに使ったのは、何十年ぶりかしら。早く、部屋に帰って、アンナの淹れたカモミールティーを飲んで、ベッドに倒れ込みたい……)
今日の厄介事は、全て終わったはずだった。
そう、思っていた。
「イザベラ様ッ!」
前方から、切羽詰まったような声と共に、赤い影が駆けてくる。
医務室の寝間着のまま、髪を振り乱し、しかし、その瞳だけは、尋常ならざる熱を帯びて、燃え上がっている。
カイン様だった。
「ごきげんよう、アシュフィールド様。もう、お体はよろしいのですか」
わたくしは、内心の疲労を完璧に隠し、当たり障りのない挨拶を返した。
しかし、彼は、わたくしの言葉など聞こえていないかのように、その場に、恭しく、片膝をついた。それは、騎士が、自らの君主に対してのみ捧げる、絶対の臣下の礼だった。
周囲にいた数人の生徒たちが、息を呑んで足を止める。
「イザベラ様! このカイン・アシュフィールドの命、貴女が救ってくださっただけでなく、新しく、鍛え直してくださいました! この命、この魂、この身に宿る力の一片に至るまで、もはや全てが、貴女様のものです!」
彼の、朗々と響き渡る声。
それは、もはや、告白などという生易しいものではない。一方的な、魂の譲渡契約だった。
「どうか、この俺を、貴女様の剣として、お使いください! この剣は、貴女様の道を阻む、全ての障害を打ち砕きましょう! この盾は、貴女様に降りかかる、全ての災いを受け止めましょう! この命尽きるまで、いえ、尽きた後も、永遠に、貴女様にお仕えすることを、ここに誓います!」
(……ああ、ああ、ああ、神様。なぜ、このようなことに……)
わたくしは、天を仰ぎたくなった。
静かに、目立たぬように、問題を処理したはずだった。後腐れなく、安眠できるように。
その結果が、これだ。
学園で最も目立つ男の一人に、最も人目につきやすい場所で、最も大仰な方法で、生涯の忠誠を誓われる。
これ以上の、迷惑行為が、他にあるだろうか。
わたくしは、こめかみを指で押さえながら、できるだけ冷たい声を作った。
「お立ちなさい、アシュフィールド様。あなたは、見当違いをなさっている。わたくしは、ただの気まぐれで、あなたを治療しただけ。それに、そのような大げさな誓いは、わたくしにとって、迷惑以外の何物でもございませんわ」
しかし、わたくしのその「塩対応」は、彼の信仰の炎に、さらに油を注ぐ結果にしかならなかった。
「……なんと、お謙虚な! そして、なんと、お慈悲深い! この俺の、粗野で、まっすぐなだけの忠誠心すら、『迷惑』の一言で、お受け取りくださるとは! ありがとうございます、イザベラ様! そのお言葉、生涯、忘れません!」
(……話が、通じませんわ、この方には)
もはや、何を言っても無駄だと悟ったわたくしは、返事をすることさえ諦め、彼をその場に残したまま、足早に立ち去った。
残されたカインは、わたくしの去った後姿に、いつまでも、恍惚とした表情で、跪き続けていたという。
*
その噂は、瞬く間に、王宮にいるユリウス王子の耳にも届いた。
側近からの報告を聞いた彼は、手にしていた銀のペーパーナイフを、音もなく、大理石の机に深々と突き立てた。
「……奇跡、だと? あの女が、カイン・アシュフィールドに?」
彼の空色の瞳が、氷点下の光を放つ。
「そして、あの犬が、イザベラに、忠誠を誓った……?」
ぎりり、と、歯軋りの音が、静かな執務室に響いた。
嫉妬。侮辱。そして、自らの所有物を、汚されたかのような、黒い怒り。
あの力は、わたくしのものだ。
あの女は、わたくしのものだ。
わたくしの婚約者。わたくしの駒。わたくしの、美しい人形。
それを、あの、身の程知らずの犬が。
「……許さない」
ユリウスは、突き立てたペーパーナイフを、ゆっくりと引き抜いた。
「もはや、生ぬるいやり方では駄目だ。あの女は、思い知らなければならない。誰が、彼女の主であるのかを。誰の、鳥籠の中で鳴くべき、カナリアであるのかを」
彼は、側近に、冷たい声で命じた。
「ヴァレンシュタイン公爵に、伝えろ。『近々、婚約者と共に、二人きりで、ゆっくりと過ごす時間が欲しい』、と」
彼の口元には、もはや、王子らしい優雅な笑みはなかった。
ただ、獲物を追い詰める、捕食者の、冷酷な微笑みだけが、浮かんでいた。




