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ループ100回目の悪役令嬢は、もう平穏に昼寝がしたい  作者: 河合ゆうじ
わたくしの昼寝を邪魔するのはどなた?

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第13話 最初の駒、最初の取引

『グライフスワルト通商ギルド』。

その名は、かつて王都の経済を牛耳るほどの力を誇っていた。しかし、近年、王家が主導する新興ギルドの台頭と、度重なる不運な投資の失敗により、その栄光は過去のものとなっていた。巨大な樫の木で作られたギルドの看板も、今では色褪せ、誇り高き鷲の紋章には、蜘蛛の巣が張っている。


ギルド長の執務室は、その没落ぶりを如実に物語っていた。

壁には、かつての栄華を偲ばせる高価なタペストリーが掛かっているが、その隅は虫に食われている。机の上には、赤インクで修正が重ねられた帳簿の山が、まるで墓標のように積み上げられていた。

ギルド長ヤコブは、脂の抜けた顔で、その帳簿の山を睨みつけていた。太く節くれだった指で、こめかみをぐりぐりと押す。胃のあたりが、もう何ヶ月も、焼け付くように痛んでいた。


「――失礼しますぜ、ギルド長」


扉が、ノックもそこそこに開かれた。現れたのは、情報屋のノア。その飄々とした態度が、今のヤコブにはひどく癇に障った。

「ノアか……。何の用だ。悪いが、今はお前と世間話をするような気分じゃ……」

「まあ、そう言わずに。面白い話を持ってきましたんでね」

ノアは、にやりと笑うと、背後に控えていた人物を、部屋の中へと促した。


現れたのは、一人の小柄な人影だった。

上質な、しかし何の飾りもない、深い藍色の旅装束。顔は、フードを深く被っているため、全く見えない。ただ、フードの奥から覗く口元だけが、年の頃の知れない、形の良いものであることだけが分かった。


「……なんだ、こいつは。また、新しい占い師でも連れてきたのか? 馬鹿を言え。俺はな、神や仏の御託宣より、帳簿の数字しか信じねえんだ」

ヤコブは、吐き捨てるように言った。今、彼が最も必要としているのは、希望的観測ではなく、現実的な金だった。


「ひどい言われようですな。この方は、占い師じゃありませんぜ。いわば、『投資顧問』ですかな」

ノアが面白そうに言うと、フードの人物は、静かに一歩、前へ出た。

そして、性別の判別も難しい、平坦で、感情の乗らない声が、部屋に響いた。


「――ヤコブ・グライフスワルト殿。先月、北の鉱山から仕入れた銀鉱石の輸送隊が、盗賊に襲われたというのは、表向きの話。本当は、品質の悪い鉱石を掴まされた投資の失敗を隠すための、苦し紛れの嘘。その損失額は、金貨にして、およそ五千枚。違いますかな?」


ヤコブの心臓が、大きく跳ねた。

その話は、このギルドでも、ごく一握りの幹部しか知らない、絶対の秘密のはずだった。背中を、冷たい汗が、だらりと流れる。


「なっ……! き、貴様、いったい、何者だ……!?」


フードの人物は、彼の動揺を意にも介さず、淡々と続けた。

「わたくしは、あなたに、いくつかの『未来』をお教えするために参りました。信じるか信じないかは、ご自由に」


ヤコブが何かを言う前に、その平坦な声は、恐ろしい「予言」を紡ぎ始めた。


「まず、一つ目。来月の半ば、南部の広大な小麦地帯で、原因不明の黒穂病が発生します。収穫量は、例年の三分の一以下にまで落ち込むでしょう。王都の小麦価格は、現在の五倍以上にまで高騰します」


「二つ目。三ヶ月後、隣国エルドリアの王女殿下が、婚礼の儀で、我が国の北端でしか採れない『月光絹げっこうぎぬ』をふんだんに使ったドレスをお召しになる。それをきっかけに、エルドリアの貴族の間で、月光絹の熱狂的なブームが起こります。今のうちに買い占めておけば、莫大な利益が見込めるでしょう」


「三つ目。半年後、王家が鳴り物入りで進めている、東方航路への投資。これには、決して手を出してはなりません。処女航海に出た最初の船が、大規模な嵐に見舞われ、積荷もろとも海の底へ消えます。王家は、それを『些細な事故』として隠蔽しますが、その損失は、あなたのギルドが潰れても、到底賄えないほどの額になりますわ」


一つ、また一つと語られる、具体的すぎる未来。

ヤコブは、もはや立っていることさえできず、椅子にへなへなと座り込んだ。呼吸が浅くなり、指先が震える。

こいつは、一体、何なのだ。

予言者? 神の使い? いや、違う。その、あまりに感情のない、全てを知り尽くしたかのような口ぶりは、まるで、未来の出来事を記した「予定表」を、ただ読み上げているかのようだ。


「……わ、分かった。分かったから、もうやめてくれ……! あんたの、言う通りにしよう。金か? 地位か? 何が望みだ!」


ヤコブは、完全に屈服していた。目の前の、顔も見えない小柄な人物が、もはや人間とは思えなかった。それは、抗うことのできない、運命そのもののように感じられた。


フードの人物は、静かに首を横に振った。


「わたくしは、あなたに何かを乞うために来たのではございません。ただ、決定事項を、通達しに参っただけですわ」


その声は、どこまでも冷徹だった。


「これより、グライフスワルト通商ギルドは、わたくしの『手足』となる。わたくしの指示通りに、資金を動かし、商品を売買し、経済を動かしていただきます。その見返りとして、あなたのギルドには、百年ぶりの繁栄を、お約束いたしましょう」

「……なぜ、そこまで……」


「わたくしには、個人的な、いくつかの『計画』がございますの。そのためには、立つ鳥跡を濁さぬ程度の資金と、ある程度の影響力が必要でしてね。何より、わたくし、金銭的なトラブルというのは、ひどく、精神を消耗させられるので、好きではございませんのよ。それは、人の心の平穏を、著しく乱しますから」


平穏。

その言葉だけが、ほんの少しだけ、人間らしい響きを伴って、ヤコブの耳に残った。


「……承知、いたしました」

ヤコブは、乾いた唇で、そう答えるのが精一杯だった。


フードの人物は、満足げに頷くと、ノアと共に、音もなく部屋を出て行った。

一人残された執務室で、ヤコブは、しばらくの間、呆然と天井を見上げていた。

そして、やがて、その表情は、恐怖から、ある種の狂信的な歓喜へと変わっていった。


「……神だ。我は、神と取引をしたのだ……!」


*


ギルドを出た帰り道。ノアが、面白そうに口を開いた。

「いやはや、見事な手腕でしたな、お姫様。まるで、熟練の詐欺師のようでしたぜ」


「心外ですわね。わたくしは、ただ、事実を述べたまで」

わたくしは、フードの奥で、小さくため息をついた。

「これで、当面の活動資金には、困りませんわね。少しは、上質な茶葉でも買えるようになるかしら。それに、もっと寝心地の良い、羽毛の枕も新調したいところですわ」


わたくしの呟きに、ノアは、楽しそうに肩を揺らした。

「国を動かすための軍資金で、枕を買う、と。あなたほど、スケールの大きなことを、小さな目的のために成し遂げる人間を、俺は他に知りませんぜ」


「当たり前ですわ」

わたくしは、きっぱりと言い切った。


「わたくしにとって、この世で最も重要で、最も価値のあるものは、何よりも、上質な『睡眠』なのですから」


その言葉は、夜の闇に、静かに吸い込まれていった。

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