第12話 安眠のための協力者
領地視察から戻って以来、わたくしの日常から「平穏」という言葉は、完全に姿を消した。
わたくしの部屋には、毎日、山のような手紙が届けられる。
『聖女イザベラ様、どうか不治の病に苦しむ我が子に、祝福を』
『聖女様、どうか借金で首が回らない私めに、金運の奇跡を』
『聖女様、どうか恋敵のあの女に、天罰が下りますように』
(……わたくしは、便利屋でも、呪い代行業者でもございませんのよ)
わたくしは、それらの手紙に一切目を通すことなく、侍女のアンナに「全て、暖炉の燃料になさいな」と命じた。アンナは「よろしいのですか!?」と目を丸くしていたが、構うものか。人の願いほど、面倒で、エネルギーを消費させるものはないのだから。
しかし、本当の悪夢は、家族からもたらされた。
父アルブレヒトは、娘が「聖女」としてヴァレンシュタイン家の権威を高めたことに気を良くし、わたくしを様々な貴族の会合に連れ出そうと画策し始めた。
母レオノーラに至っては、「聖なるリリィの体を穢れた空気から守るため」と称し、わたくしの部屋の扉に、神殿から取り寄せたという「聖別された錠前」を取り付ける始末。
(これは、もはや鳥籠ですらありませんわ。聖なる牢獄ですのね)
わたくしは、完全に、身動きが取れなくなっていた。
このままでは、いずれ王家か神殿に、その身と力を、便利な道具として召し上げられるだろう。そうなれば、平穏な昼寝など、夢のまた夢。
これまでの九十九回、わたくしは、ただ流されてきた。運命という名の、抗いようのない濁流に。その結果が、あのうんざりする結末の繰り返しだった。
ならば、百回目のわたくしは。
(……もはや、これまでのような、消極的な姿勢では、わたくしの安眠は守れませんわね)
わたくしは、静かに、そして冷徹に、現状を分析する。
ただ待っているだけでは、面倒事が勝手に押し寄せてくる。ならば、こちらから、面倒事をコントロールするしかない。
そのためには、力が必要だ。わたくし個人の力ではなく、この国を、水面下で動かすための、「駒」という名の力が。
その夜。
わたくしは、アンナに頼んで、こっそりと一枚の伝言を、街の情報屋ギルドに届けさせた。
『西の塔の白梟へ。今宵、月が最も高くなる刻、ヴァレンシュタイン公爵邸の東のバルコニーにて。――I.V.』
月が、冷たい光で庭園を照らす頃。
予告通り、一人の男が、音もなく、わたくしの背後に現れた。
「これはこれは、お姫様。ご指名とは、光栄ですな。して、今宵はどんな退屈しのぎをご所望で?」
情報屋、ノア。彼の銀の瞳は、全てを見透かすように、楽しげに煌めいている。
わたくしは、彼の軽口には答えず、ただ、懐から数枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
そこには、美しいカリグラフィーで、数多の名前が記されている。
「……ほう」
ノアが、羊皮紙を覗き込み、興味深そうに喉を鳴らした。
「ランゲンブルク侯爵。趣味は蝶の収集だが、実は禁制品である『妖精の翅』の違法なブローカー。ハイネンベルク財務卿。清廉潔白で知られるが、裏では愛人の平民の娘に、国庫の金を横流し。フリューゲル男爵夫人は、隣家の騎士と不貞の真っ最中……。これはまた、とんでもないリストですな。まるで、この国の腐敗を煮詰めたような名簿だ」
「彼らは、わたくしの『盾』ですわ」
わたくしは、静かに告げた。
「これから、王家や神殿は、わたくしの力を利用しようと、様々な手で接触してくるでしょう。その全てを、この『盾』たちに防がせるのです」
ノアは、感嘆したように、口笛を吹いた。
「なるほど。彼らの弱みを突き、脅し、あるいは助けることで、お姫様の防波堤にする、と。実に、悪役令嬢らしい、素晴らしい計画だ」
「わたくしは、聖女にも、魔女にもなるつもりはございません。わたくしがなりたいのは、ただの『何者でもない、平穏な昼寝を楽しむ女』、それだけですの」
わたくしは、ノアをまっすぐに見据えた。
「ノア。あなたとの契約を、ここで、改めて結び直しましょう」
「と、言いますと?」
「わたくしは、あなたの駒として動くのではありません。わたくしが、プレイヤーです。あなたには、わたくしの『手足』として、動いていただきますわ。このリストの人間たちと接触し、彼らを完全に、わたくしの支配下に置きなさい。そのための、情報と交渉は、全て、わたくしが提供いたします」
それは、紛れもない、司令官としての命令だった。
わたくしの、その揺るぎない瞳を見て、ノアは、一瞬だけ、その銀の瞳を見開いた。そして、次の瞬間、心の底から楽しそうに、声を立てて笑った。
「くくく……ははは! 面白い! 実に面白い! ええ、ええ、喜んで! あなたという女王様の手足となるのなら、どんな道化でも演じましょうとも!」
こうして、わたくしの、わたくしによる、わたくしのための「安眠確保闘争」の、本当の駒が、盤上に並べられた。
ノアが闇に消えた後、わたくしは、一人、冷たい夜風に当たりながら、夜空を見上げた。
これから始まるのは、きっと、これまでで最も面倒で、最も大規模な、厄介事の連続だろう。
「……ああ、なんと、面倒なことでしょう」
わたくしは、深いため息をついた。
その瞳には、いつものような面倒くさそうな色と、しかし、それだけではない、確かな意志の光が、静かに宿っていた。
「けれど、最高の枕と、極上の寝台を手に入れるためなら……。国の一つや二つ、裏側から、動かして差し上げますわ」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな夜の闇へと、吸い込まれていった。




