第11話 領地視察と、無意識の聖女
わたくしの人生における優先順位は、極めて明確に定められている。
第一に、睡眠。第二に、平穏。第三に、他者との不必要な接触を避けること。
その全てを、根底から覆す悪魔の言葉が存在する。
――「領地視察」だ。
「リリィ、準備はいいかな。今日は、お前にヴァレンシュタイン家の責務というものを見せてやらねばならん」
朝食の席で、父アルブレヒト公爵が、有無を言わさぬ口調でそう宣言した時、わたくしは危うく、完璧な淑女の仮面を床に落とすところだった。
(領地視察ですって? 冗談ではございませんわよね? あの、揺れる馬車に長時間閉じ込められ、埃っぽい道を延々と進み、見ず知らずの領民に愛想笑いを振りまかなければならない、あの地獄の行軍を、このわたくしにしろと?)
わたくしは、内心で激しく抵抗しながらも、顔には「まあ、なんて光栄なことでしょう」という、完璧な微笑みを浮かべた。
「はい、お父様。わたくし、お供させていただきますわ」
このヴァレンシュタイン家において、当主の決定は絶対だ。九十九回の経験上、ここで抵抗しても、無駄なエネルギーを消費するだけである。
わたくしは、せめてもの抵抗として、この苦行の中に、ささやかな希望を見出すことにした。
(……まあ、よろしいでしょう。移動中の馬車の中ならば、存分に眠れるはず。これは、視察という名の、出張うたた寝ですわね)
そう思考を切り替えることで、わたくしは、なんとかこの理不尽な現実を受け入れたのだった。
◇
案の定、馬車での移動は苦痛そのものだった。
整備されていない田舎道は、わたくしの眠りを執拗に妨げる。ガタン、ゴトン、という不快な振動のたびに、意識が覚醒してしまう。
(ああ、もう! この国の土木技術は、百年前から少しも進歩しておりませんのね!)
わたくしが内心で悪態をついていると、ようやく馬車が止まった。どうやら、最初の視察地である、小さな農村に到着したらしい。
「リリィ、降りてきなさい。ここは、近年、日照りに悩まされている村だ。領主として、民の声を直接聞かねばならん」
父に促され、わたくしは仕方なく馬車を降りる。
降り立った瞬間、むわりとした熱風と、乾いた土埃の匂いが、鼻をついた。
目の前に広がるのは、ひび割れた大地と、力なく項垂れる枯れた作物。井戸の周りには、痩せた顔つきの村人たちが、絶望的な表情で集まっている。
(……まあ、ひどい有様ですこと。これでは、土埃で、せっかくのドレスが汚れてしまいますわ)
村長らしき老人が、父の前にひれ伏し、涙ながらに窮状を訴えている。
「公爵様! どうか、お慈悲を! このままでは、我々は皆、干乾びて死んでしまいます!」
「うむ……。井戸をさらに深く掘ってみたのか?」
「はい! ですが、一滴の水も……。もはや、この土地は、神に見捨てられたのでございます!」
父は、難しい顔で腕を組んでいる。わたくしは、その深刻な会話を、馬車の影から、眠たい目であくびを噛み殺しながら眺めていた。
日差しが強い。早く、馬車の中に戻って、眠りの続きを……。
そう思いながら、ぼんやりと、村の周囲の地形に視線をやった。
なだらかな丘、いくつかの岩が転がる斜面、枯れた小川の跡。
九十九回の人生で、わたくしは、地理学や地質学の知識も、嫌というほど頭に叩き込んできた。その、膨大な記憶のデータベースが、目の前の光景と、勝手に照合を始める。
(……妙ですわね)
わたくしは、眠気眼をこすった。
あの丘の形状。岩の配置。枯れた川の流れ方。
過去のループで、似たような地形で、水脈を発見した記憶がある。
(確か、あの、一番大きな岩の、少し東側。あのあたりを、深く掘れば……地下の岩盤にぶつかって、そこから水が、湧き出てくるはず……。ええ、間違いありませんわ。地質構造から考えても、そこに水源があるのは、当然の理屈……)
それは、特に村を救おうなどという、殊勝な考えからではなかった。
ただ、目の前の光景が、教科書の練習問題のように見えただけ。そして、その答えが、あまりにも明白に分かってしまっただけのこと。
わたくしは、誰に聞かせるでもなく、馬車の中で、眠たげに、ぽつりと、そう呟いた。
「あの辺りを掘れば、水くらい、出るのではなくて?」
その、独り言のような呟きを、父アルブレヒト公爵の耳が、聞き逃さなかった。
彼は、娘がまたしても「神託」を口にしたのだと、瞬時に理解した。
「リリィ! 今、何と申した!」
「え? いえ、別に何も……」
「聞いたぞ! あの丘を掘れば、水が出ると申したな!」
父は、わたくしの返事も待たず、村長に向かって、雷のような声で命じた。
「聞いたか! 我が娘、イザベラの神託である! 今すぐ、村の男たちを集め、あの、一番大きな岩の東側を掘るのだ! ヴァレンシュタイン家の名において、私が保証する! そこには、必ず水がある!」
村人たちは、半信半半疑だった。しかし、絶対の権力者である公爵の命令に、逆らうことはできない。彼らは、最後の望みを託すように、鍬や鋤を手に、丘へと向かっていった。
数時間後。
わたくしが、馬車の中で、ようやく心地よい眠りに落ちかけていた、その時。
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
村の方から、地響きのような歓声が上がった。
わたくしは、不快な騒音に、眉をひそめて目を覚ます。
見れば、男たちが掘っていた穴から、勢いよく、清らかな水が、天に向かって噴き出しているではないか。
「水だ! 水が出たぞ!」
「奇跡だ! 神は、我々をお見捨てにはならなかった!」
村人たちは、歓喜の涙を流し、互いに抱き合っている。そして、その熱狂的な視線は、やがて、一人の少女へと注がれた。
馬車から、眠たげな顔で降りてきた、わたくしへと。
次の瞬間、村人たちは、一斉に、わたくしの前にひれ伏した。
「聖女様!」「おお、我らが救い主、聖女イザベラ様!」「ありがとうございます! ありがとうございます!」
感謝と、崇拝と、狂信的なまでの熱。
その、面倒くさい感情の奔流を一身に浴びながら、わたくしは、心の底から、思った。
(聖女ですって? とんでもない。わたくしはただの、睡眠不足の令嬢ですのに)
ああ、これでまた、面倒な称号が増えてしまった。
父は満足げに頷き、母にこの手柄を報告すれば、さらに過保護が加速するだろう。
王家や神殿が、この噂を聞きつけたら……?
考えるだけで、頭が痛い。
頭痛は、安眠の最大の敵だ。
わたくしは、鳴りやまない歓声と感謝の言葉を背に、さっさと馬車の中へと戻った。
そして、侍女のアンナに、一言だけ、こう命じた。
「アンナ。頭痛薬を、いただけますか」
わたくしの、平穏な昼寝への道は、どうやら、まだまだ遠いらしい。




