第10話 ヒロインの献身と、迷惑な友情
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインの人生において、「友情」という言葉は、最も縁遠い単語の一つだった。
九十九回の人生で、わたくしは常に孤立していた。嫉妬され、畏怖され、あるいは利用されることはあっても、誰かと心を通わせるなど、一度たりともなかった。それでよかった。人間関係は、この世で最も面倒で、最もエネルギーを消費する、厄介事の根源なのだから。
だから、この百回目の人生も、当然、そのつもりだった。
――あの、純真無垢な少女が現れるまでは。
「イザベラ様! お待ちしておりましたわ!」
昼休み。わたくしが、いつものように図書館の聖域へと向かおうとした、その時。廊下の角から、ひょこりと顔を出したのは、エミリア・ブラウン嬢だった。彼女は、何か大きな包みを、大切そうに胸に抱えている。
(……出ましたわね。面倒事、その三。純粋な善意という名の、最も対処に困る、無邪気な厄介事が)
わたくしは、内心で深いため息をつきながらも、足を止めた。ここで無視をして、彼女が「何か悪いことをしてしまったのかしら」などと悩み始め、さらに面倒な事態に発展するのは、避けたかったからだ。
「ごきげんようですわ、ブラウン嬢。わたくしに、何か?」
「はい! あの、先日は、本当にありがとうございました! イザベラ様のおかげで、わたくし、助かりましたの!」
彼女は、満面の笑みで、ぺこりと深く頭を下げた。その屈託のなさが、少しだけ眩しい。
「お気になさらないで。わたくしは、ただ、寝覚めが悪くなりそうだっただけですわ」
「いいえ! イザベラ様は、照れていらっしゃるだけですわ! わたくし、知っておりますの。イザベラ様は、本当は、影で人助けをなさる、クールで優しいお姉様だということを!」
(……誰ですの、その少女漫画の登場人物のような方は。少なくとも、わたくしではございませんわよ)
わたくしは、彼女の盛大な勘違いに、もはや反論する気力もなかった。
すると、彼女は、抱えていた包みを、誇らしげにわたくしの前に差し出した。甘く、香ばしい匂いが、ふわりと漂う。
「それで、これは、わたくしからのほんのお礼の気持ちですの! 今朝、一生懸命、焼きましたのよ!」
包みを開くと、中には、少しだけ形のいびつな、しかし、心のこもっていることが一目でわかる、たくさんのクッキーが入っていた。いくつか、端の方が少し焦げているのが、ご愛嬌だ。
「……」
わたくしは、そのクッキーを、ただ、黙って見つめた。
手作りの贈り物。
九十九回の人生で、誰かから、このようなものを貰った記憶は、一度もなかった。
「どうぞ、召し上がってくださいませ!」
エミリアは、きらきらとした瞳で、わたくしを見つめている。
断る、という選択肢が、なぜか、喉の奥でつかえて出てこなかった。
わたくしは、仕方なく、一枚のクッキーを、そっと指でつまみ上げた。そして、躊躇いがちに、それを口元へと運ぶ。
サクリ、とした食感。
素朴なバターの風味と、優しい甘さ。そして、ほんのりとした、焦げの香ばしさ。
決して、公爵家のパティシエが作るような、洗練された味ではない。
けれど。
(……まあ、悪くは、ありませんわね)
その、不器用で、まっすぐな味が、なぜか、凍てついていたはずの心の奥に、じんわりと染み渡るような気がした。
わたくしが黙ってクッキーを食べているのを、エミリアは、嬉しそうに、そして少しだけ不安そうに見守っている。
「あの……お口に、合いましたでしょうか?」
「ええ。まあ、及第点、といったところかしら。もう少し、焼き時間を調整すれば、もっと良くなるでしょうね」
わたくしの口から出たのは、いつものような、素直ではない、少しだけ意地悪な感想だった。
しかし、エミリアは、その言葉に少しも気を悪くした様子はなく、むしろ、ぱあっと顔を輝かせた。
「本当ですか!? では、次は、もっと上手に焼いてまいりますわね!」
(……そういう意味で言ったのでは、ないのですけれど)
この少女には、どうやら、皮肉というものが一切通じないらしい。
ある意味、最強かもしれない。
「それと、イザベラ様! いつもお一人で、大変でしょう? よろしければ、わたくし、いつでもお話相手になりますわよ! 肩もお揉みしますし、お弁当だってお作りしますから!」
「結構ですわ、ブラウン嬢。わたくしは、一人で静かにしているのが、何よりも好きですの」
「まあ、また照れていらっしゃって! 大丈夫ですわ、わたくし、イザベラ様の力になりたいんですから!」
彼女の純粋な善意の猛攻に、わたくしは、もはや白旗を上げるしかなかった。
九十九回経験した、どんな狡猾な政敵よりも、どんな凶悪な暗殺者よりも。
この、善意100%でできている少女の方が、よほど、対処に困ることを、わたくしは、この日、改めて痛感させられたのだった。
それからというもの。
エミリアは、毎日、わたくしの元へやってくるようになった。
図書館でうたた寝をしていれば、そっと膝掛けをかけてくれる。
廊下ですれ違えば、満面の笑みで手を振ってくる。
そして、毎日、少しずつ上達していく、手作りのクッキーを届けてくれる。
その、迷惑で、騒がしくて、そして、ほんの少しだけ、温かい日々。
わたくしは、気づかないフリをしていたけれど、本当は、気づいていた。
彼女がくれる、少し焦げたクッキーの味が、いつの間にか、わたくしの一日の、ささやかな楽しみの一つになっていた、ということを。
それは、わたくしの完璧な安眠計画にとって、極めて由々しき、そして、抗いがたい、甘い侵食だった。




