プロローグ 百回目の朝寝坊
民衆の、憎悪に満ちた怒号が、まるで地鳴りのように鼓膜を揺らす。
投げつけられた石が、額を打ち、じわりと生温かい血が流れる感覚。
そして、首筋に触れる、断頭台の刃の、ひやりとした金属の感触。
(ああ、九十九回目は、断頭台ですのね)
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
見上げた空は、皮肉なほどに青く、澄み渡っていた。
もう、涙も出ない。恐怖も感じない。ただ、馴染み深いルーティンをこなすような、そんな奇妙な感覚だけがあった。
刃が、落ちる。
一瞬の、鋭い痛み。そして、全てが闇に閉ざされ――
次にわたくしが感じたのは、絹のシーツが肌を滑る、柔らかな感触だった。
「……」
目を開けると、そこは見慣れた自室の、豪奢な天蓋付きの寝台の上だった。窓のレースのカーテンの隙間から、朝の柔らかな光が差し込み、遠くで小鳥がさえずる声が聞こえる。
(ああ、また、この朝が来てしまいましたのね)
わたくしは、ゆっくりと身を起こした。鏡に映るのは、完璧な美貌を持つ、見慣れた自分の姿。磨き上げられた白金の髪、アメジストのように紫に澄んだ瞳。誰もが羨む、公爵令嬢としての完璧な器。
そして、わたくしを百回、破滅へと導いた、呪われた器。
最初の十回は、運命に抗おうとした。知識をつけ、剣を握り、あらゆる手を尽くして、破滅の筋書きを書き換えようと足掻いた。
次の二十回は、良き令嬢を演じてみた。婚約者である王子に尽くし、ヒロインと仲良くし、誰からも愛される聖女のように振る舞った。
その次の三十回は、全てを捨てて逃げようとした。国を出て、身分を隠し、静かに暮らそうと試みた。
残りの三十九回は? もう、よく覚えていない。悪女に徹してみたり、狂人を装ってみたり、おそらく、考えうる限りの全ての選択肢を、試したのだろう。
結果は、いつも同じだった。
断頭台、火刑、毒殺、裏切り、幽閉。
死に方こそ違え、わたくしの物語は、いつも、婚約破棄と断罪という、同じ結末へと収束するのだ。
「……もう、疲れましたわ」
鏡の中の、完璧な美貌の人形に、わたくしは、ぽつりと呟いた。
心が、魂が、とっくの昔に摩耗しきって、もう、何も感じなくなってしまった。
希望も、絶望も、喜びも、悲しみも。
何もかもが、どうでもいい。
だから、百回目となる今回は、もう決めたのだ。
もう、足掻かない。
もう、期待しない。
誰かの気を引こうとも、運命に逆らおうともしない。
ただ、空気のように。
水のように。
誰の記憶にも残らず、ただ、静かに、その「最期の時」が来るのを待つ。
ああ、でも。
もし、もしも、一つだけ、許されるのならば。
(せめて、今度こそは……)
わたくしは、窓の外に広がる、美しく手入れされた庭園を見つめた。
(誰にも邪魔されず、木漏れ日の下で、穏やかに、昼寝がしてみたい)
それは、九十九回の絶望の果てにたどり着いた、あまりにも、ささやかで、そして切実な、わたくしのたった一つの願いだった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、扉の向こうから聞こえる。
侍女のアンナの声が、静かに告げた。
「お嬢様、朝でございます」
さあ、舞台の幕が上がる。
百回目の、退屈な茶番劇の、始まりだ。
わたくしは、人生で何度目になるか分からない、深くて、長いため息を、静かに吐き出した。