2.ミア・カーミス男爵令嬢
退場するときのふるまいを見ても、公爵令嬢はちゃんと気配りのできる女だ。つんと澄ましたように見える無表情すら、こんな場では堂々として見える。
(あいつらにそこまでしてやることねぇのに)
また顔を正面に戻したエリザベートは、衛士として扉を守る俺のすぐ横をすり抜けようとした。コツコツと大理石の床を鳴らすヒールの音と、白いドレスの衣擦れの音がすぐ近くにある。
シャンデリアの光が濃いロイヤルブルーのサファイアをあしらったネックレスをきらめかせ、ふわりと清涼感のあるシトラスとフリージアの甘い香りがした。
(あんたはちっとも悪くない。あんたはこの場にいる誰よりも美しい)
声をかけられるような身分じゃないから、衛士の俺は心の中でめっちゃ応援メッセージをつぶやく。するとなぜか氷の令嬢と呼ばれるエリザベートも振り向いて、まっすぐな視線が俺の目とカチリとぶつかる。
(……え?)
その瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
俺と視線を絡ませたまま、目を見開いた彼女はみるみる頬を紅潮させた。それから湖のように澄みきった大きな青い瞳を潤ませると、めちゃめちゃ嬉しそうな微笑みを浮かべる。
なんつーか、人形が〝生きた人間〟になった瞬間だった。
(え、は?なんで俺?)
俺が心の中でつぶやいたことなんて、エリザベートに聞こえるはずもない。けれど彼女はたしかに俺と目が合った。
エリザベートの透き通るような白い肌のなかで、そこだけ鮮やかな紅をさした唇がかすかに動く。なにか言いかけようとして、彼女の顔からまたスッと表情が消えた。
氷の令嬢に戻った彼女はまっすぐに前を向き、言葉を交わすこともなく俺の前を通りすぎていく。
(今の……なんだ?)
うしろ姿を見送る俺の前で大きな扉が閉まると、派手なターンを決めた王太子カップルのせいで、大広間がドッと湧く。
舞踏会はこのまま予定通り進み、夜中までまだ何時間も続くことになる。俺はちょうどやってきた同僚と交代した。
衛士といえども夜会用の制服は装飾が多い。ふだんの王城勤めでは黒の上着にスラックス、そして帽章がついた制帽も黒だ。俺は黒髪だから、わりとしっくり似合っている。
礼装用はそれに金モールの装飾があり、階級章や肩章などもつくからそれなりに豪華だけど重い。通用口をでてひと気のない裏庭にでた俺は、首元を緩めて息をついた。
(カーミス男爵令嬢には悪いが、俺としてはあの『氷の令嬢』が踊るところを見たかったな)
魔導シャンデリアの光を受けた白金の長い髪は、夜空に輝く月のように優美で、冴え冴えとした美貌を引き立てていた。
冷たく澄んだ青い瞳は雪原で出会った狼みたいで、人に懐くことがない孤高さを感じさせる。
(ま、人間だけどよ。そういう意味ではあの姫さん、油断がならない目つきなんだよなぁ)
ラウル殿下も美男子だけど、エリザベートと並べば霞んでしまう。たぶん本能的に自分の負けを悟った殿下は、思いっきりエリザベートを嫌ったのだろう。
「ちっせぇ男だぜ」
背は俺より高いけどな!
『男の価値は背丈では決まらない』
俺の持論、その一だ。ぜってぇ決まらないったら決まらない!
それを証明すべく、俺は日々検証を積み重ねている。だってどんなに努力しても、俺の背はこれ以上伸びねぇもん!
まぁそれはともかく今回の婚約破棄、エリザベートにはまったく責任がない。『氷の公爵令嬢』という評判以外、彼女自身に落ち度はない。
ふだんからニコリともせず愛想はないが、べつに彼女は俺たち城で働く人間にまでニコニコする必要はない。
ただ城の中で唯一、ラウル殿下の機嫌を取ろうとしなかった人物であることに違いはない。それで殿下からは難癖をつけられたんだろうけど。
その点、カーミス男爵令嬢はソツがなかった。
たしかに顔は可愛いけれど、ラウル殿下だって彼女のことを最初は、その他大勢のうちのひとりぐらいにしか思っていなかった。
ラウル殿下は取り巻きに囲まれて、チヤホヤされるのが好きだから、カーミス男爵令嬢はその中にうまく潜りこみ、そっけない殿下にいつも笑顔で話しかけていた。
めちゃめちゃ一生懸命な彼女のアプローチに、殿下も内心では悪い気がしなかったのだろう。
エリザベートに遠慮して、品位ある令嬢たちはラウル殿下に近寄ってこない。けれど男爵令嬢は取り巻きの貴公子たちに交ざって、ぐいぐい彼に近づいた。
彼女にしてみれば正直、愛人枠でも獲得できればそれでよくて、既成事実さえ作ったら、あとは小洒落た離宮でももらって、悠々自適に暮らすのが理想だったと思う。
顔は可愛くとも彼女が身につけている、ドレスやアクセサリーは安物だった。カーミス男爵はおそらく令嬢にじゅうぶんな持参金も用意していない。
金があればもう少し自分の娘に、教養を身につけさせることだってできたはずなのだ。
世間知らずの令嬢が社交界に飛びこみ荒波にもまれて、王太子となる男の愛を獲得したのは大したもんだが、たんにラウル殿下がバカだったとも言える。
カーミス男爵令嬢のアプローチはわりとストレートだったのだ。
「殿下ぁ、お顔の色が優れませんわ。ここは少し風が冷たいですし、お部屋に入りませんか?」
「ああ、そうだな」
彼がうなずくだけで「殿下は私とお部屋で過ごされるそうよ」とまわりを動かした。
ふたりきりではないのから、何らやましいことはない。
けれどふたりがいっしょに過ごす時間は確実に増えていき、いつも自分を持ちあげて優しく気遣う彼女に、ラウル殿下がどんどん惚れこんでいった。
(まぁあの令嬢、メイドや下働き、俺たち衛士に対する態度は、てんでなってないから、妃殿下となっても城で愛されるかはわからんけど)
割を食ったのは婚約者である公爵令嬢エリザベートだ。彼女はラウル殿下の顔色をうかがうことも、彼の機嫌をとるために媚びへつらうこともなかった。
王城に専用の部屋が与えられ、彼女は家族とも離れて侍女とそこに滞在していたが、ラウル殿下と過ごすお茶の時間は限られていた。それ以外の時間は教師がついて、お妃教育を必死に受けさせられていた。
なまじラウル殿下がボンクラだったから、それを支える妃殿下とするために、エリザベートの教育に力が入れられたという話だ。
真面目に課題をこなすエリザベートをよそに、ラウル殿下は取り巻きに囲まれてバカ騒ぎをしては、ミア・カーミス男爵令嬢とイチャイチャし始める。
もともとエリザベートは整った顔立ちの美少女だったが、ラウル殿下の態度があからさまになるにつれ、ますます凍りついたように笑わなくなった。
それが当たり前だと思っていたから、さっき俺に向けられた微笑みが謎すぎる。
(婚約破棄、されたばっかだったのになぁ……)
裏庭で壁にもたれ、さっきの出来事を思い返していると、突然かすかに悲鳴が聞こえた。獣人族である俺の耳がピクリと反応し、しっぽの毛がぶわりと逆立つ。