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17.エリス女官長

【登場人物】

エリザベート ロシュ公爵の長女。婚約破棄されたばかり。

侍女ラナ エリザベートに仕える。戦闘力が高い。

エリス女官長 ロックガルド城の生き字引。厳格な性格。

 どちらにしろ王城にあるエリザベートの部屋は、引き払わなければならない。


 ロシュ公爵家に与えられた部屋は別にあるし、新しく立太子したリオル殿下の婚約者が使うことになる。学園で知り合って婚約したため、お互い相思相愛で関係も良好だという。


 部屋の片づけ自体は女官たちが行うため、自分たちですることは何もない。面会予約をした時間になると、エリザベートはラナを連れてエリス女官長に会いに行った。


 王城の回廊を歩けば、見慣れた中庭の光景が目に入る。今が盛りと花が咲き乱れ、城で暮らし始めたころは、中庭を散策するのも楽しかった。


 お妃教育に疲れて逃げこむ場所ではないと、気づいたのはしばらくたってから。


 物陰から聞こえる密やかなささやき、人目を忍ぶ逢瀬……目撃した場面に動けなくなって、エリザベートは息を潜めて立ち尽くしたこともある。


 さまざまな人が集まる王城は、出会いの場でもあると知った。


 ラナにクロウのことを調べてもらったのは、単純に何が好きか知りたかったのもあるけど、いちばん気になったのは、彼が今交際している相手がいるのかということ。


「同僚たちと一緒に女性と飲むことはあるようですが、特定の交際相手はいないみたいですね」


 それを聞いたときはホッとした。


 わりと早くに婚約が決められていたエリザベートは、ただラウル殿下だけを見るようにと教えられてきた。


 けれど王子のほうはエリザベートといると不機嫌になったし、ミア・カーミス男爵令嬢とはよく話に夢中になり、いつのまにか二人そろって姿が消えていた。


 何かを目撃するのが怖くて、エリザベートは彼らを中庭に探しに行けなかった。


 もしもクロウに恋人がいるとして、彼がロシュ領に滞在すると聞いたら、きっと嫌な思いをする。


(自分がされて嫌だったことを、人にするのは嫌だもの……)


 彼が剣術指南役として公爵領に滞在するのは、最初からひと月と決まっている。衛士の彼を留める気もない。


(たったひと月……おもてなしをするだけ。もしかしたらその間にクロくんの嫌なところを見つけて、うんと嫌いになるかもしれないわ)


 彼が好きな食べ物はモツ煮込み。お菓子は砂糖とシナモンをまぶした揚げ菓子。公爵邸のシェフに頼めば作ってくれるだろうか。


(そういえば『モツ煮込み』ってどんな食べ物かしら……『煮込み』は煮込んだ料理のことだから、『モツ』というものを煮たのよね。動物?それとも野菜かしら……)


 エリザベートが野山を走り回っている『モツ』や羽の生えた『モツ』、畑に植わっている『モツ』を彼女なりに想像していると、女官長との面会場所である執務室に着いた。


(あら……嫌な思い出がよみがえったのに。途中から飛び跳ねる『モツ』や葉っぱのフサフサ生えた『モツ』を想像していたら、どうでもよくなってしまったわ)


 女官長の執務室の前で立ちどまっているエリザベートを、ラナが心配そうに見つめている。公爵令嬢は侍女を安心させるようにニコッと微笑むと、ドアをノックした。


 すぐにエリス女官長が自らドアを開け、彼女たちを招き入れる。


「エリザベート・ロシュ公爵令嬢、このような殺風景な部屋にお通しすることをお許しください。なにぶんこちらは王城の裏方に当たる部門です。煌びやかな表向きの部屋を見慣れているご令嬢には、むさ苦しい場所でございましょう」


「かまいませんわ。押しかけたのは私ですもの」


 女官長は慣れた手つきでお茶の用意をして、エリザベートが座るテーブルへと運んだ。春摘みの茶葉からさわやかな芳香が立ち昇る。


 こくりとひと口飲んで、エリザベートは微笑む。


(カップの温度や湯の温度、茶葉の開き具合も完璧ね。見事なお点前だわ……)


「とてもおいしいですわ」


 エリス女官長はにこりともせず、警戒するような目つきでエリザベートを眺めている。


「私とお話なさりたいとか。どういったご用向きでしょうか」


「個人的なことですの」


 そう言って目を伏せる公爵令嬢は、紅茶のカップを持つ所作も美しく、まるで陶磁器で作られた人形のようだ。


 騒動後すぐに王都の公爵邸に保護された彼女は、襲撃のショックで療養中だが、青い瞳はきらめいて意外と元気そうだ。


(この方が妃殿下になられていたら……)


 エリス女官長は残念に思う。真面目に課題へ取り組むエリザベートは優秀で、そのぶんラウル王子の凡庸さが際立った。


(けれどこのほうがお互いによかったのでしょうね)


 女官長がひとり納得していると、公爵令嬢の唇から紡がれたのは意外な本の題名で。


「先日、図書館で借りて〝ビアンカの嘆き〟という本を読みましたの」


「そういえば図書館には、よくいらしてましたね」


 今度はエリザベートが目を丸くする番だった。彼女が〝メガネちゃん〟だとは、クロウも最初わからなかった。


「私が図書館にいること……ご存知でしたの?」


「もちろんです」


 にこりともせず、エリス女官長はうなずく。


「私……あなたにも助けられていたのですね」


「…………」


 女官長は報告を受けたとき、放っておくよう司書に伝えた。王子の婚約者が城を抜けだすこともなく、所在がハッキリしているなら、図書館にいてくれるほうが彼女としてもありがたい。


 むしろ城を抜けだしてミアに会いに行く、ラウル王子の方が問題だった。


「女官長も〝ビアンカの嘆き〟を読まれたとか。私、涙が止まりませんでした」


「……エリザベート様にそれを教えたのは、クロウ・アカツキですか?」


「はい」


 エリス女官長は深いため息をつく。あの猫型獣人の衛士は気配を消すことが得意なのだ。


「なら仕方ありませんね。図書館でひとり本の整理をしていて、なにげなく読みはじめたら止まらなくなりました」


「私もです。ページをめくる手が止まらなくて、とても切なくて胸が苦しくなるのに、ビアンカがどうするのか先を知りたくて!」


 思わず身を乗りだしたエリザベートに、女官長も力強くうなずく。


「本当に名作ですわ」


「涙をボロボロこぼしながら、ビアンカの嘆きにくらべたら、私の悩みなどささいなことに思えてしまって。そして結末で彼女が見せた強さと、その行動にしびれました。私、ビアンカに勇気をもらったんです」


 先代の国王時代から王城に勤める重鎮、ロックガルド城の生き字引とも呼ばれる厳格な老婦人は、エリザベートに向かって穏やかに目を細めた。


「さようでございましたか……優れた本というものは、必要な時にそれを必要とする者に、そのページを開くと申します。エリザベート様にとっては、ちょうど今がその時だったのでしょう」


「必要な時にそれを必要とする者に、そのページを開く……エリス女官長もそうだったのですか?」


 エリザベートがかみしめるように繰り返すと、うなずいた女官長は静かに言葉を紡ぐ。


「私は……遠い昔、切ない恋を経験しました。とても苦しくて、悲しみの涙が湖を作り、その水底に沈んでいくようでした。〝ビアンカの嘆き〟を読んだ時、その悲しみすらも私が生きてきた証、命の輝きであるとようやく思えたのです」


 エリザベートはまばたきをした。毎日同じように王城で時を刻む女官長にも人生がある。それを今日初めて知った。


「……ビアンカよりも、もっと苦しかったのですか?」


「さあ、どうでしょう」


 小首をかしげて滅多に見せない微笑みを浮かべ、エリス女官長は静かにお茶を飲む。


「時が過ぎれば……すべてが淡雪のごとく消えてしまうとしても、私にとっては大切な思い出です。こうしてお茶を飲みながら語れるのですから」


「そうですね、お茶を飲みながら……エリス女官長、私はロシュ領に帰る前に、これまでお世話になった方をお招きしてお茶会を開き、感謝の気持ちをお伝えしたいと考えています」


「それはようございますね」


 あいづちを打つエリス女官長に、エリザベートは真剣な眼差しを向けた。


「けれどこれまで私は王城でのお茶会を、楽しんだことがありません。私と参加される方々が、心から楽しめるものにしたいのです。エリス女官長のお知恵をお貸し下さい」


「そういうことでしたら……エリザベート様が心を込めて開かれたら、王都で語り継がれるような、素晴らしいお茶会になるでしょう」

次回はお茶会の準備です。クロちゃんも登場。

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