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ママ  作者: QWERT
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第四話 愛

 以来、たびたび佳織は遥香に手を挙げるようになった。頬をひっぱたいたり、跡が残るほどつねったり、頭を叩いたり、それらは次第に勢いを増していった。

 遥香はなすすべもなく、ただやられるままで、反抗したことは一度もなかった。ただ遥香は、表情に欠いた虚ろな瞳を、やるせなく佳織に向けるだけだった。

 しかしそんな瞳を向けるられことも、佳織にとっては憎らしかった。

 もちろん、佳織は自分がいけないことをしている自覚はある。しかしなぜ、こんなにも自分が暴力的になるのか、それがよくわからなかった。

 暴力を振るっているときは、何かのタガが外れて、歯車が暴走して回っているような感覚だった。こんなこと、やめたい、と思っているのに、歯車が回転し、気がつけば手が出ている、という感じだった。

 次第に佳織は感覚がマヒし、打つときの激しさも増していった。勢いで転がる遥香のみぞおちを、ヒステリックを起こしながら何度も踏んづけるほどだった。

 だんだん佳織は、自分が自分ではなくなっていくみたいな感覚に襲われた。そしてそれをすべて遥香のせいにした。それで暴力はエスカレートしていくのだった。


 それでも遥香は耐えた。遥香は絵を描くことで夢の世界に没頭し、ひりひりするような現実から目を逸らすのに精いっぱいだった。

 どっちにしろ、自分にはもう、行く場所はない。私はあの人に為されるがまま。おもちゃのような存在なのだ。そんな自虐的な思いが、遥香の主体性をどんどんむしばんでゆくのだった。


 ある夜、遥香は不思議な夢を見た。

 遥香は海の真ん中にいた。板に乗り、波に揺られて、仰向けになって寝ていた。それは日ざしの心地よい昼間で、遥香は夢のなかでも、うとうとしていた。

 するといきなり海面が盛り上がり、遥香はそれに揺られて落ちそうになった。激しい揺れと水しぶきに耐えるように板にしがみついていると、やがて視界が開け、目の前に大きなクジラが現れた。

 クジラが何か言ったが、遥香にはそれが聞きとれなかった。それでもクジラは懸命に、遥香に何か訴えようとしている。その熱意が伝わってきたので、遥香も懸命に耳を傾ける。

 すると急に、クジラは泣きだした。聞いたこともないような悲しい色の声で泣きだした。

 そしてクジラは口を大きく開けて、海水を呑みはじめた。

 まずい、このままでは自分はクジラに食べられてしまう。必死で海水の流れに逆らおうとしたけれど、努力虚しく、遥香はクジラに呑まれてしまった。

 遥香はクジラの体内で、暖かな光に包まれていた。それは眩しくて、目も開けられないくらいだけれど、不思議と柔らかくて心地よい光だった。遥香はまた、その光に包まれながら、うとうとするのだった。


 勢いよくガラスの割れる音がして、遥香は目を覚ました。

 しかしまだ、夢見心地だった遥香は、依然として暖かい光に包まれているような心地で、また眠りに入ろうとした。

 しかし二度めのガラスの破砕音で、遥香は完全に現実に連れもどされた。

 なんだろう、キッチンの方で音がしたな、と遥香は耳を澄ましたが、沈黙だけが重く立ちこめている。

 遥香は布団から身を起こし、おそるおそるキッチンをのぞき込んだ。

 そこでは佳織が、ぼさぼさの頭を抱え、床にうずくまっていた。床には、お皿が粉々に割れた残骸が散らばっていた。

 遥香はゆっくりと佳織に近づいた。

「来ないで!」

 佳織は激しく叫んだ。

 遥香はまた打たれると思った。

 でも佳織はうずくまったままだった。

 やがて、しくしくと泣く声が、うずくまる佳織の体から聞こえてきた。

 遥香はどうしていいかわからず、その場にしゃがみ込んで、佳織を見つめた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 佳織はしきりに、声にならない声で、そう呟いていた。


 本当はこんなはずではなかったのに、と佳織は何度も自分を責めていた。自分では振るうつもりがなくても、つい遥香に暴力を振るってしまう。佳織はそんな自分が嫌いになる一方だった。

 私は母親失格だ。もともと、そんな器ではなかったのだ。それなのに、この子の境遇を憐れんで、変に義務感に駆られて、この子をもらってしまった。それがいちばん、この子のためになると思っていた。しかし現実は逆だった。誰よりもこの子を苦しめるのが、自分だったなんて。自分がこんなにも恐ろしい悪魔だったなんて。もう嫌だ。やり直したい。自分には、この子を愛する資格なんてなかったのだ。

 そんな思いに駆られ、佳織はもう発狂寸前だった。


「ママ」


 はっとして佳織が顔を上げると、そこには心配そうに見つめる遥香の姿があった。

「ママ」

 たしかに、遥香は佳織にそう呼びかけていた。今まで、一度も喋ったことのない遥香が、喋ったのだ。え、と佳織は自分の耳を疑った。

「ママ」

 たしかに、遥香は喋っていた。しかも、ママ、と。

 そして遥香は、心配そうに佳織の顔をのぞき込み、うずくまる彼女の手を取って、やさしく撫でた。どこか怪我はないかと探すように。

「大丈夫だよ、遥香。ごめんね」

 遥香はかぶりを振った。

 佳織はその場で遥香を抱き寄せた。そしてぎゅっと抱きしめた。

「ごめんね、遥香。もっと早く、こうしてあげればよかったのよ。私が愚かで、ごめんね」

 遥香は、くすぐったいような、不思議な気持ちに包まれていた。

「遥香、これはね、今まで私が注げなかった分の愛情」

 そう言って佳織はきつく遥香を抱き締めた。

「それで次はね、あなたが注がれてこなかった分の、たくさんの、たくさんの愛情よ」

 そして今度は、もっときつく、慈しんで遥香を抱き締めた。

 温かい、と遥香は思った。人って、こんなに温かいんだ、と。

「これからは心を改めるから、本当にごめんね」

 遥香は静かにうなずいた。

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