私にとっての小説。林集一少年の半生。
私は親不孝な子供だったと思います。
父母は離婚して私は母に引き取られました。その後、私は父から送られてきたスーパーファミコンやファミコンで遊びながら育ちました。母は彼氏と私と一緒に週5で飲み歩きました。沖縄と言う土地柄がそんなものだったのです。私は毎晩居酒屋のカウンターで大人と話をする事で育ちました。居酒屋で1人描く架空の世界地図。架空の武器。架空の薬。架空の宝。それらは大人になった今でも残っております。
週5。日付が変わるまで飲むのです。小学校低学年の私は毎日昼飯だけ食べに行くレベルの素行不良児で学校なんぞ行きませんでした。
林集一少年はグレました。低学年ながら飲酒喫煙万引き、タウンページを家々から盗んで火を付けて山を禿山にしたり、まぁまぁダメな人だったかと思います。原因として悪い先輩達とつるんだのが原因でした。
そんな生活も、終わりを迎えます。
母の彼氏の奥さんがマンションを襲撃したのです。ドアノブが外れた家に入ると、まぁ引き出しは全てひっくり返り、家具は逆立ち、バールのような物で壊された財産や開けられた穴の数々、私達は引っ越しせざるを得ませんでした。
転校。私はまるっきり変わってしまった環境に戸惑います。誰しもが良い子なのです。これまで大人や悪い先輩方とのお付き合いしかなかった私にとって、普通の同級生との付き合いはとても新鮮なものでした。
そこで、ゲームが好きなグループが結成され、そのグループは大学生になるまで続きました。
中学生の頃の我が家は麻雀卓が2つ、テレビ3台にスーファミ、ファミコン、プレステやプレステ2、64が複数台あり、昼夜を問わず仲間が集まって遊び呆けておりました。当然学校はサボりがちでした。
私はそこでRPGツクールと出会い作る側の楽しさを知るのです。
そして、高校は夜間高校へ行きました。働きながら4年間学ばせて貰いました。そこでも色々なゲームをしながら、サブカルチャーに触れながら育つのです。
大学を卒業したある日、残念なことに父と母は死にました。
私は親不孝でございました。
どれだけ腐っても私を見捨てなかった父母に、もっと私の活躍する姿を見せたかったと時々思うのです。
さておき、私の創作は他の人が学校に行っている間に延々と1人で考えていた妄想を形に変えると言う作業でした。
ツールを使ってのゲーム作成と言う形でそれは形を作っていきますが、人生のステージで度々襲ってくる危機に何度も中断されエターナルフォースブリザードの憂き目ををって参りました。
そして、脳ミソがファンタジーに浸けられた林集一少年は30歳になりました。
たまたま訪れたなろうで小説を書き始めます。
『勇者のゆりかご』
と言うお話です。エターナルフォースブリザードされてしまった設定だけ残っているゲームの世界に、別の世界からの転生者が現れて、冒険を始めたのです。
毎日が楽しかった。
ですが、その楽しいだけだった創作の時間にある方が訪れて、書くだけで楽しかった私の生活は変わります。
「作法を気にした方がよい。今のままでは少し勿体無い」
そこで、悩みに悩んだあげくに、『勇者のゆりかご』を書き直す事に決めました。「脚本調」の物語が、作法を気にした小説になったのです。
その練習として『ドクズ傭兵事務所』と『日暮心霊心療内科』を書きました。ですが、どちらも最終話まで数千文字と言う所で止まっています。まぁでも年内に仕上げたいとは思います。
そして、また新たな方に出会いました。
その方は「人称を気にした方がよい」と言いました。
初めは何がなんだかわからなかったのですが、『練習小説』と言う練習小説を書き終えまして、やっと「人称」の概念が理解できたのです。そして、『勇者のゆりかご』も非公開にして、人称の修正を始めました。ですが、修正は終わらずに後回しにする事にしました。
それから『偽天使転生』を書き始めました。
小説の作法を守り人称を気にしながら書く小説は私に新しい感覚をもたらしました。そして、楽しさだけでなく人に読んで貰う事の有り難さや、辛さを知りました。
私は、それを受けてとても幸せなのです。
苦しい事もありつつも、小説を書き続けて1年と2ヶ月。何とか自称人並みの小説が書けているのです。
大学入学時に「アルファベットが全部書けない」私が、未だに「掛け算九九を覚えていない」私が、小説を書いているのです。
いえーい。死んだとーちゃんかーちゃん見てるゥ?
息子は頑張っているよ。
そして、ここで宣言します。
私は必ず書籍化小説家になってみせます。
歩けば進歩はあるのだから。