プロローグ
右手にはナイフを握っていた。
俺はあることを試す為それを持っていた。
右手のナイフを左手の前腕に置き、一息つく。ごくりと唾を飲み込む。
ちらりと、ナイフに映る自分の顔が見えた。肩まで伸ばした美しく明るい桃髪、愛くるしい美貌、俺が作成したアバターが、恐怖のあまり顔が強張って、真っ青になっているのが分かる。
怖いのは当然だ。心臓の脈打つ音がこの部屋でこだましているように感じる。しかし、やれば決定的な証拠になる。
「いくぞ……」
俺は、覚悟を決めて、思いきって自分の腕を切り刻んだ!
「があっ!!」
痛い! まるで突き刺されたかのような鋭利な、だが一瞬では終わらない強い痛み! たった一つの傷だけなのに、それだけで広がっていくほどの強烈な痛みが、俺の身体を蹲らせる!
痛みのあまり、伸ばしていた膝がくったりと折れて、俺は這いつくばるように蹲った。
血がぽたぽたと滴り落ちる音が、痛みをさらに加速していくかのようだ。
「クソ痛え……!」
俺が思う『メルゥ』という少女が言うには、あまりにも荒々しい口調だった。あまりの痛さに、右手に持っていたナイフを落としていたことにも気付かず、必死に左腕の傷を抱きかかえるように押さえつけた。
しかし、これではっきりしたことがある。
VRゲームにおけるゲームの世界には共通して起こり得ない現象と感覚がある。それは出血、そして痛み。VRゲーム協会が定めた条約によって制限された表現の一つで、世界中にあるVRゲームは総じてそう言った暴力的な表現は絶対に起こり得ない。
では、何故それが起こるのか? 今までは懸念していたことの一つだったが、これで確定した。
間違いない。この世界は……
「現実だ……」
この世界は、この『ヌイの世界』と言うゲームは、ゲームではなくなっていた。
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今、世界的に大流行しているVRオンラインゲームがある。
グラフィックはさることながら、まるで『第二の人生を歩んでいるかのようだ』と言われるほどの世界観と圧倒的な自由度。そしてその世界に深く関わっているかのように、もしくはまるでそこに生き、生活しているかのに接することができる、奥深い人間性と歴史を持つNPCたち。高度な文明と技術を持つ五大国と、覇権を求めて奥底の闇に生きる組織たち。それらすべてが年月と共に変化し、すべてのプレイヤーの心を掴んでは離さず、飽きさせない。
たとえ一人でも、仲間と一緒でも、尽きることのない波乱と興奮を提供すると言われるこのゲームの名は、『ヌイの世界』。今現在、初動10万人からスタートして、5年と言う歳月を経ても、未だに世界中で500万人ものプレイヤーが存在し、その数は年々上昇し続けていると言われる、『史上最高のVRオンラインゲーム』。
このゲームに俺が泥沼のようにハマり込んだのは今から3年ぐらいのことだろうか。
5年前、急速に進んでいたVRゲーム開発も一段落した頃に、開発資金10億円を持ち出して『ここいらで、今だからこそ作れる史上最高のオンラインゲームを作ろう』と言いだした、今も名の知れない会社があった。その会社主導で、VRゲーム界全体を巻き込んで作ったゲームこそ『ヌイの世界』と言われている。
そのゲームを3年前に知った俺は、引かれるようにそのゲームソフトを購入し、その世界に飛び込んだのを覚えている。その世界観ち、そしてなんでもできる・作れるという自由度に感動しつつも、最初はどんな風に進めればいいのかもわからずにいたが、初心者の育成支援とRvRの為の兵員補充を目的に活動していたギルドに拾われて以降、戦争漬けの毎日を送っていた。技術を学び、経験を積み、ゲームの中で沢山のプレイヤーを倒し、『戦魔術師』という二つ名と共に有名になり、その時点でいつの間にか2年が経過していた事には、俺もその時は驚いた。
RvRという1つのジャンルでさえ、時間すら忘れて2年も経過してしまうほどの奥深さを有していた事に、俺は感動を覚えていたものだ。
そして、これを機に世界を旅してみたいと思った俺は古巣を抜け、新規にキャラクター『メルゥ』を作成し、『ヌイの世界』の中で当てのない旅を続けていた。
この世界を知るために。
この世界を心の底から楽しむために。
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学校から家に帰ると俺はまず少し休養を取り、その後夕飯までの間勉強をする。夕飯を食べ終えた俺は時間を挟んでお風呂に入り、その後すぐにVRゲームの電源を押して、VRの世界に入り深夜12時までぶっ続けで『ヌイの世界』の中で旅をする。
今はそんな生活ばかり送っている。VRゲーム用ヘッドギア発売からどっぷりとハマっていた俺を心配して、両親はゲームは1日1時間か学年10位キープどちらか選ばなければゲームを取りあげると言いだしたこともあったが、そのすべてをゲームに費やす為に、俺は学年10位キープを選んで、見事今の今までそれをキープしている。
今年で俺は高校3年なので、今度は一流大学を受験して受からなければゲームは取り上げると言ってくる頃合いだろうか。まあ中堅レベルの高校でトップ10に入るぐらいは成績は良いので、高望みし過ぎとは思わないが。一応親父御袋でも安心できるレベルの大学に向けて勉強は始めてるので問題はないとは思いつつも、ちょっと時間削って勉強するかと思いながら、俺はヘッドギア型VRゲームハードを被り、電源を入れて、『ヌイの世界』にログインした。
今俺が操作しているキャラクター『メルゥ』は五大国の一つ『聖女と鉄火の国スミス』の北部にある鉱山にいるので、そこから南下して首都を目指そうかと、そう思っている矢先だった。
「……!? ぐぇ、がええばああのりおzんlヴぇさおいvdszくぁwせdrftgyふじこlp!!!!!!!」
突如激しい、まるで五感がねじ曲がり切るような不快感と違和感と激痛が俺を襲った。まるで激流に流されて牛裂きの刑のように身体が四方八方から引っ張られているような感覚と、五感が混ざり合って、見たものが甘く見えたり、触ったものが赤く感じたり、嗅いだものが辛く匂ったり、五感がぐちゃぐちゃに変わり変わる気持ち悪い感覚が、俺の感じる世界をめちゃくちゃにしていった。
そして、ふと脳裏に嫌な考えがよぎる。
過去にこんな記事を見たことがある。VRゲームのログイン時に不具合が生じて、五感機能全てを失って植物状態になってしまった人を取りあげた記事を。
もし、俺にもそんな不具合が発生していたら……。
嘘だろ? 俺ここで人生終了? このゲームに人生捧げるって誓って、その為に勉強だって頑張ってウザい糞教師にも媚び売って、人生設計だってしっかりやって、一生『ヌイの世界』という世界を愛し続けるためにしてきたのに、その結果がこの仕打ちか?
……ふざけるなよ、糞野郎。
(お前を誰よりも愛してるのはこの俺だ、この俺なんだ。宇宙飛行士が宇宙を愛すように、船乗が海を愛するように、俺はお前を愛しているのに)
俺はこんなにもお前を愛しているのに。
『ヌイの世界』を愛しているのに。
ヌイの……せかい――を……―――――
ヌ――――イ……――――
―――――――ッブツ。
そして俺の世界は真っ暗になった。