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月灯りに照らされる坂

作者: ヘイ

春にしてはやけに太陽の光が眩しく、今にも油蟬が共鳴し始めそうな5月上旬。地球温暖化の影響なのか、年々太陽が肌を焼く強さが増している気がする。


(これは僕も陽焼け止めを塗らないと人に心配されるくらい黒くなりそうだ)


アスファルトの上で陽炎が揺れるなか、僕は黒のスーツケースを転がしながら地元へと帰ってきた。地方によって違う「匂い」があるもので、僕はこの落ち着いた抱擁されるような田舎の匂いが嫌いではなかった。


母に身体を委ねた赤児のように、都会の柵から解放されたような気分になる。だが、やはり今日は暑い。


(帰ったらまず冷蔵庫の麦茶を全部飲み干してやろう)


心の中でそう呟くと、自然と脳裏にその情景が映し出される。それだけでも僕の口は湿り気程度に潤った気がした。


閑静な住宅街をひたすら歩くと見えてくるのは思い出深い小さな登り坂である。当時の記憶は感動と絡み合って強烈に脳裏に焼き付いていた。


あれは僕が活気に満ち溢れていた小学校4年生の頃だ。丁度今のこの時期だったと思う。


あの頃、僕の家は所謂貧しい家庭で、皆が既に持っている自転車すら買ってくれなかった。いや、自転車はあったのだが、もう古くてあちこちが傷んでいたのだ。ブレーキをかければ耳を(つんざ)く悲鳴をあげるほどに。


友達の家に遠出をするにも親の車で送り迎えされなければいけないことが何だか至極不快で、僕は早急に自転車を欲していた。


僕は何度も母親に強請るが、当然答えは「家計が苦しいから」の一点張り。

父親に申し出ようとしたが、小学生の僕にとって当時の父親は畏敬の存在で、何かを願い出るなど以ての外であった。着物と貫禄に溢れた姿で書斎で胡座をかく父は仏のようで、何だか近寄り難いのである。


数日間ごね続けた結果、居間の隣の書斎にいた父親に全てが聞こえていたらしく、いきなり襖を開けると


「儂に文句言う勇気もねぇ奴に自転車なんぞ買ってやらんぞ!」


と怒鳴り散らされた。僕は今まで腫れ物に触れるように接してきた父親が遂に怒号をあげたので、涙を流しながら赦しを乞う。威圧感のある仏が鬼に変貌した瞬間だ。その時に感じた全身が粟立つような感覚は今でも憶えている。





僕が大人しくなってから一週間ほど経ったある日の夜、父親が突然僕を書斎に呼び出した。「何か悪い事でもしたかな」と自問自答するがここ一週間、僕は自転車入手の野望が打ち砕かれて気分が泥濘に沈んでいた。悪事に手をかける心持ちではなかった筈だ。書斎に続く廊下が嫌に長く感じられた。呼吸も乱れる。


僕は意を決して慎み深く襖を開け、既に座布団を下にしていた父親の前に正座する。


再び怒号を浴びせられるだろうか、それとも頬を叩かれるだろうか。僕は極度の緊張で背中に冷たいじとっとした汗をかいていた。しかし、父親の重い口から発せられた言葉は、僕の予想を斜め上を行き、着地点すら掴めていなかった。


「車庫を覗いて来い」


開いているのかすらわからないほど目を細め、父親はそう言った。僕は何のことかわからず、本当に「車庫を覗け」と言ったのか疑った。


小心者の僕は父親に聞き返すこともできずに言われるがままサンダルを履いて外に出て、錆で覆われた車庫に向かった。


春先の生暖かい夜の空気が鼻を突き、興奮と緊張の混ざり合ったおかしな気分になる。芝生を踏む音さえも耳に残り、一体車庫に何があるのかという疑問が頭の中を飛び交う。


手探りでスイッチを押すと、裸電球がコンクリートと鉄骨を照らした。手の平に柱の赤錆が付いてしまったが、僕はそれすら忘れてしまうほど驚いた。


淡い灯りに照らされる黒いサスペンション。僕が哀願して止まなかった自転車が影を落として佇んでいた。


僕は思わず息を呑み、震える手でステムからサドルにかけてゆっくりと撫でる。


「6段変速だ...!」


当時最新だった6段変速付きの自転車を持つ者は、同級生からヒーローとして称えられていた。僕は一頻り父親の買ってくれた自転車を鑑賞した後、書斎に戻って父親に礼を言った。父親は何時ものムッとした表情を保っていたが、相槌を打つ時にふと笑みが零れていたような気がした。


後から聞いたのだが、父親は母親に自転車を買ってくれた理由を「小心者のあいつがここまで言うからな。きっと何かあると思ったんだ」と言っていたらしい。


半年前、父親は蜘蛛膜下出血で他界したので、もうその真相は微睡みの彼方にある。



自転車を与えられた夜。僕は激しい動悸で全く眠れなかった。頭の中で羊を数えるも、羊の吐息で目を覚ましてしまうと言った具合だ。煤れた目で部屋の隅を見つめ、僕はある「悪事」を働くことにした。


「自転車に乗ろう」


時刻は深夜を跨いでいるが、今日は月も出ていて道路は群青色に輝いている。


僕はベッドの足にロープを巻き、部屋の窓からそれを垂らした。この状況下で心が雀躍しているのがわかる。


これは幼い僕にとっては大冒険だ。

普段門限も厳しく、礼節を弁えさせる父親の目を掻い潜り、深夜に自転車を乗り回す。考えるだけでもぞくぞくした。


玄関から取ってきた靴を先に落としてロープを伝いながら地面に足を着ける。極力足音を立てず、忍びの如く車庫にある自転車を持ち出した。


家から出てしまえばこっちのものだ。興奮で気づかなかった夜の薫りが僕の身体を包み込む。月の灯りと夜の匂いは麻薬のように僕の気分を高揚させた。


五感全てに意識が集中され、「入居者募集中」と書かれたアパートの幟が軋む音がやたら大きく聞こえる。


まだ自転車には乗らない。

一丁前にサドルを高く設定し、僕は家の近くにある「地獄坂」を目指した。


地獄坂というのは僕が命名したもので、その名の通り物凄く傾斜がある坂である。一度(ひとたび)ボールを落としてしまえば、何十メートル先まで高速で転がっていってしまうのだ。


坂の前まで来ると、僕は額にかいた脂汗を拭い、ペダルを踏み込む。


地面を滑走する音と共にシフトレバーを回し、4...5...6と変速していく。


僕の髪は風に掻き回されて乱れ、タイヤのゴムがアスファルトをひく音だけが脳内にこだまする。


その時、僕は間違いなくヒーローになっていた。高速で走る自転車が一線を描いて坂を下る。


空を見ると今にも手で掴めそうなほど大きな月が僕を照らしていた。


ふと、友達や好きな子のことが脳裏を掠める。彼等は今、布団に入って夢を見ている頃だろう。


僕だけが起きている。僕だけが夜の寂寞を裂きながら自転車を漕いでいる。


日頃の鬱憤や苦悩は風に吹かれて飛んでいき、僕はこのまま何処までも行ける気がした。坂をくだり、うねる道に沿い、日本の端まで...


これが小さな僕の決して忘れることのない夜。


...

......

.........


過去の思い出に浸っていると、あっという間に坂を登り終えてしまう。

息ひとつ切らさなくなったのは、この地獄坂が小さかったのか僕が大きくなったからなのか。


振り返ってみても、どうにも「地獄坂」とは言い難く、小学4年生の僕の世界観に思わず吹き出してしまった。


そこから少し歩みを進めると、赤い途端屋根の我が家が見える。僕は「ただいま」よりも先に車庫に入り、あの時の自転車を探した。


「あらぁ、誰か思ったらあんたか。不審者やと思ったわ」


縁側の引き戸をあげて母親が僕に声をかけた。やはりこの前会った時よりも皺が増えている。


僕は小心者故、心の中で「苦労かけてごめんな」と謝っておいた。


「ただいま」


そう言いながら車庫の奥を探索すると、埃を被った僕の相棒が現れる。社会に揉まれて変わってしまった僕と、あの夜から何も変わらない自転車。





今夜僕は自転車に乗るだろう。


今夜降る坂も月明りに照らされるだろうか。


変わってしまった僕は、あの頃と同じヒーローになれるだろうか...。


サドルを一番高く設定してもまだ足を曲げなければならない。


そんな相棒と、沈殿した夏の匂いがする夜を走るだろう。

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