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コンクールまで時間がないので、
次の日からロペスさんに教えてもらうことになった。
手首の傷はそんなに深くなく、大丈夫だと思う。
ただ、問題なのは静音さんの機嫌だった。
私にロペスさんを取られている……原因はそれではなかった。
静音さんの父、川原院長は、
私を出す代わりに静音さんにも出場させる条件を出したのだった。
さすが親子である。
「出ると約束したけど優勝しろとは言われてないわ。ただ出るだけよ!」
と言って、静音さんは全く練習をする気がなかった。
さすが親子である。
私はロペスさんに聞いてみた。
「静音さんてあまりピアノが好きじゃないみたいですね」
「どうかな。少なくとも彼女は聴かせてあげたい人には演奏するよ」
「今まで大会とか出なかったの?」
「あの性格だからね、興味がないらしい。でも、甘く見ない方がいいよ。コンクールのレベルでは静音さんに勝てる人はまずいないからね」
ロペスさんは軽く私の希望を打ち砕いてくれた。
「私、無謀な挑戦をしてるということね」
「そんなことはないけど、せめて静音さんくらいの演奏はできないとね。ほら、前に言ったろ?」
「もうひとつ上の演奏?」
ロペスさんは笑顔で頷く。
何だか楽しそうに見えた。
「実際に聴いて、感じてみるといい」
そう言って、ロペスさんはこの前静音さんが弾いていた『渡り鳥』を弾き始めた。
私は椅子に座り、目を閉じた。
柔らかい音が湧き水のように弾み、私の体を流れていく。
やさしさと力強さが駆け巡り、次第に気持も高ぶっていった。
私の鼓動も踊り出す。
閉じた瞼に光が見え、大きくなっていく。
その中に……大自然が広がっていた。
木々が生い茂る深い森の奥。さらにその奥に壮大な湖が姿を現す。
そこから見える山脈には雪が積もっている。
私は湖畔に立ち、水面に浮かぶ無数の鳥の群れを眺めていた。
一羽の合図をきっかけに鳥たちは一斉に大空へと羽ばたいた。
どこへ向かうのだろう……そう思うと私も空を飛んでいた。
森を越え、町を越え、海を越え、
また次の聖域を求めて飛び続ける。
確かに見えた。
そこにはない世界を確かに感じていた。
「音楽ってすごい」
初めての衝撃だった。
私が唯一、感動できる音楽で改めて心を奪われてしまったのだ。
「いかがでした?」
ロペスの言葉で、陶酔していた私の意識がハッと我に返る。
気が付くと演奏は終わっていた。
「……」
「どうした?」
「すごい……見えたの。湖とか、鳥とか……。静音さんもこんな演奏が出来るの?」
「まだまだだけど、近いところまでは弾けてるよ。自信無くした?」
「違うの。その逆……嬉しいの」
勝ち負けではなく、純粋に私もこんなピアノが弾きたいと思い、
目の前には教えてくれる先生もいる。
コンクールなんてどうでもよく思えてきた。
そうか……静音さんもこんな気持ちだったんだ。
彼女もピアノが大好きなんだと知った。
ロペスさんに出会えて本当によかったと思った。
「余り時間がないからスパルタでいくよ。かなり厳しいから覚悟するように」
……島津春奈、前言撤回します。
ロペスさんはとても真剣に教えてくれた。
それに応えたくて私も必死だった。
練習が終わりアパートに帰ると、霧人は仕事に出掛けていなかった。
「……二人とも全く逆の生活になったんだ」
テーブルには私の夕食が準備してあり、メモが置いてあった。
「あんまり無理すんなよ。 霧人」
と、一言だけだった。
「口下手な奴め、愛の告白くらい添えろ」
でもその一言で霧人のやさしさは充分伝わってきた。
なんか文通みたいと思い、何を書こうか悩んだ。
一人で食事を済ませ、食器を洗い、
お風呂から上がっても何を書くか決まらない。
白紙のメモ紙に向かって三十分が過ぎた。
眠気がピークに来た時、一言書いてベッドに向かった。
霧人の匂いが残る場所はここだけだった。
私はすぐに眠てしまった。
メモには、
「さみしいよ 春奈」
と、書いてあった。
朝の静けさが目覚ましの音で壊される。
春奈は無理やり身体を起こし、耳障りな電子音を止めた。
うめき声を上げ背伸びをした時、横で眠る霧人に気付いた。
素早くまた布団に潜り込み、霧人に抱き付いた。
霧人が眠そうな声で、
「起きるんじゃなかったのか?」
「もう少しこのまま」
「ったく……」




