8
春奈は霧人と桜並木の丘へ来ていた。
心地よい風が二人の間を通り抜ける。
大桜が近付くにつれ、春奈の鼓動は高鳴っていく。
引き寄せられるように集まる人々は、
ここへ癒されに来ているのだろう。
だが、春奈の気持ちはそれとは違っていた……。
「春奈って、春に生まれたから春奈なの?」
画材を準備しながら霧人が聞く。
春奈は大桜を見上げながら、
「そう、お母さんが付けてくれたの」
「いつ?」
「何?」
「誕生日だよ」
春奈は、霧人を見て、
「……今日だよ」
「うそぉ!帰ったらお祝いしよ。帰りにケーキ買おう。プレゼント何がいい?」
慌てている霧人が、おかしかった。
「そんなの、しなくていいよ。今、とても幸せな誕生日になっているから……」
「え?そうなの。まあ、後のことは帰ってから決めよう」
霧人は昨日の続きを描き始めた。
夢中に絵を描く霧人は、完全に自分の世界に入っているって感じだった。
邪魔をしてしまうようで声を掛けられない。
春奈は黙って絵を描く霧人を横から眺めていた。
それだけでも充分居心地がよかった。
なにげなく丘の下へと目をやる。
今日は静かな病院だった。
「もうひとつ上の演奏をしてみたいと思わないか」
ロペスさんが言った言葉も気になるが、それとは別に聞きたいことがあった。
春奈は腰を上げ、
「私、ちょっと病院に行って来る」
「具合でも悪いの?」
「違うけど、ちょっと用事を思い出したの」
春奈は丘を下り、病院へと向かった。
看護婦さんに見付からないようにコソコソ歩きながら、
春奈はピアノのある部屋の前まで来た。
中を覗くと誰もいなかった。
廊下を歩いて来る看護婦さんに気付き、部屋に隠れるが、
思い切ってロペスさんの病室を聞いてみた。
「ああ、あの外人さんね。308号室よ」
それだけ聞いて、その場を逃げた。
病室の前まで来ると、自分が手ぶらなのに気付き、どうしようか戸惑った。
せっかくここまで来たのだからと思い切ってドアを開けた。
ロペスさんはベッドにいた。
そばに静音さんもいた。
りんごを剥きながら、
「普通、入る前にはノックをするものよ」
……確かに。
二人の空気が読めた為、とても場違いな自分が恥ずかしかった。
しかも、手土産無しのおまけ付き。
すぐに帰るべきなのは分かっていた。
ただ、そのタイミングが分からなかった。
「悪いな、午後は診察なんだ。教えてあげれそうにない」
「あら、まだ教える気だったの?」
「筋はいいんたが、あと少し勉強したらすごく良くなると思うんだ」
「へぇ、それは熱心なことね」
と言いながら、静音さんは私をにらんだ。
静音さんが完璧に怒っているのが分かった。
って言うか、あれは嫉妬だ。
どんどん気まずい空気になっていく。
これって私の所為?
まだ一言も喋ってないのに?
「あの私、ロペスさんに聞きたいことがあって……」
「なんだい」
「ピアノで生活するにはどうしたらいいんですか?先生とかどうしたらなれるのですか?」
静音さんが鼻で笑ったのが分かった。
「そんな甘い世界じゃないわよ」
「やっぱり、ダメですか……」
「静音さん、そんな頭から否定しなくても……。確かに簡単ではないけどね」
「中途半端な希望を与えるよりマシよ。プロのオーディションだって、みんな肩書きがすごいのよ」
「コンクールとかに出てみたら?名前を売ればスポンサーが付くこともある」
「優勝とかすればね」
優しさと冷たさが交互に返って来た。
コンクールもどこかの教室に通ってなければ参加すら出来ないのだろう。
そんなお金もなかった。
結局、今の私には無理ってことだった。
ノックの音がした。
看護婦が入って来る。
「では診察に行きましょうか」
ロペスさんが返事をして病室を出て行くと、静音さんの笑顔は消えていた。
二人っきりになった私はこの場を立ち去る理由を考えていた。
「あなた、筋ジストロフィーってご存知?」
静音さんに先手を打たれてしまった。
「……いいえ」
初めて聞く言葉だった。
「生きたくても神様に制限させられている奴もいるというのに……」
ロペスさんの言葉が蘇る。
静音さんの笑顔が消えた理由が分かった。
「ロペスさんの病名ですか?」
「そうよ。筋肉が少しずつ動かなくなっていくの。最後には心臓を動かす筋肉さえ……。彼の残された人生を満足させてあげたい」
この人、本気なんだと春奈は思った。
私は家を飛び出して失う物はなく、将来もない。
自分では何もせず、理想ばかり考えている。
今が楽しければ、嫌な過去さえ忘れてしまう。
楽しくなければ人生放棄……逃げることばかり。
今は、霧人のやさしさに逃げ込んでいる。
静音さんにやさしく叱られている気がしてきた。
「ねぇ、あなた」
「は、はい」
「二週間後に県のコンクールがあるんだけど出てみない?あなたの気持ちが本気ならね」
「今から登録なんて間に合いませんよ。それに……」
「手続きと費用は私がなんとかしてあげる」
「ホントですか?でもどうして……」
「ただし、条件があるわ。大会の結果がどうであれ、その後はもうあの人に会わないで欲しいの」
はい、来ました。
嫉妬の波が押し寄せているのをひしひしと感じます。
でも私にはロペスさんに恋愛感情はまったくなく、
その時は二つ返事で静音さんの条件を呑んだのだった。
私はこみ上げる喜びを抑えるので必死だった。
病院を出てもまだ笑顔を我慢していた。
どこで発散するか……そんなことは決まっている。
丘を登り切ったら走り出し、霧人目掛けて飛び付いた。
霧人は声を上げ驚き、二人はバランスを崩して地面に転げ、
全身が花びらまみれになった。
「何?ど、どうした。大丈夫?」
私に近寄り心配そうに覗く霧人の顔は近かった。
私にも目標ができたのだ。
霧人の首にしがみ付き、キスをしたかったが、
私たちはまだそこまでの仲ではないだろうから諦めた。
「ふふ、いいことがあったの」
「何だよ。教えてくれないのか?」
「どうしようかな〜」
春奈はニヤ付きながら上半身を起こした。
「俺たちはそこまでの仲なのか?春奈のこと、俺はそんな風に見てなかったんだけどなぁ」
その言葉を聞いて、私は霧人の首にしがみ付きキスをしていた。
霧人の温もりは宇佐野の日差しより暖かかった。
霧人は驚かずに、
「よっぽど、嬉しいことがあったんだな」
「私、ピアノのコンクールに出るの!」
「やっと教えてくれたな。早く言えっつうの。いい誕生日になってよかったな」
春奈から無邪気な笑顔がこぼれる。
それを見て霧人が、
「花びらだらけだから全然かわいくねぇ」
春奈は少し冷めた表情なり、
「いえいえ、あなたには負けるわ」
「うるせぇよ」
大桜の下で二人の笑い声が続いた。
やっぱり私は、今が楽しければいいと思った。




