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桜舞う季節をめぐる物語  作者: 九月 草次
8/24

8

 春奈は霧人と桜並木の丘へ来ていた。

 心地よい風が二人の間を通り抜ける。

 大桜が近付くにつれ、春奈の鼓動は高鳴っていく。

 引き寄せられるように集まる人々は、

ここへ癒されに来ているのだろう。


 だが、春奈の気持ちはそれとは違っていた……。


「春奈って、春に生まれたから春奈なの?」

 画材を準備しながら霧人が聞く。

 春奈は大桜を見上げながら、

「そう、お母さんが付けてくれたの」

「いつ?」

「何?」

「誕生日だよ」

 春奈は、霧人を見て、

「……今日だよ」

「うそぉ!帰ったらお祝いしよ。帰りにケーキ買おう。プレゼント何がいい?」

 慌てている霧人が、おかしかった。

「そんなの、しなくていいよ。今、とても幸せな誕生日になっているから……」

「え?そうなの。まあ、後のことは帰ってから決めよう」

 霧人は昨日の続きを描き始めた。

 夢中に絵を描く霧人は、完全に自分の世界に入っているって感じだった。

 邪魔をしてしまうようで声を掛けられない。

 春奈は黙って絵を描く霧人を横から眺めていた。

 それだけでも充分居心地がよかった。

 なにげなく丘の下へと目をやる。

 今日は静かな病院だった。

「もうひとつ上の演奏をしてみたいと思わないか」

 ロペスさんが言った言葉も気になるが、それとは別に聞きたいことがあった。

 春奈は腰を上げ、

「私、ちょっと病院に行って来る」

「具合でも悪いの?」

「違うけど、ちょっと用事を思い出したの」

 春奈は丘を下り、病院へと向かった。




 看護婦さんに見付からないようにコソコソ歩きながら、

春奈はピアノのある部屋の前まで来た。

 中を覗くと誰もいなかった。

 廊下を歩いて来る看護婦さんに気付き、部屋に隠れるが、

思い切ってロペスさんの病室を聞いてみた。

「ああ、あの外人さんね。308号室よ」

 それだけ聞いて、その場を逃げた。

 病室の前まで来ると、自分が手ぶらなのに気付き、どうしようか戸惑った。 

 せっかくここまで来たのだからと思い切ってドアを開けた。

 ロペスさんはベッドにいた。

 そばに静音さんもいた。

 りんごを剥きながら、

「普通、入る前にはノックをするものよ」

 ……確かに。

 二人の空気が読めた為、とても場違いな自分が恥ずかしかった。

 しかも、手土産無しのおまけ付き。

 すぐに帰るべきなのは分かっていた。

 ただ、そのタイミングが分からなかった。

「悪いな、午後は診察なんだ。教えてあげれそうにない」

「あら、まだ教える気だったの?」

「筋はいいんたが、あと少し勉強したらすごく良くなると思うんだ」

「へぇ、それは熱心なことね」

 と言いながら、静音さんは私をにらんだ。

 静音さんが完璧に怒っているのが分かった。

 って言うか、あれは嫉妬だ。

 どんどん気まずい空気になっていく。

 これって私の所為?

 まだ一言も喋ってないのに?

「あの私、ロペスさんに聞きたいことがあって……」

「なんだい」

「ピアノで生活するにはどうしたらいいんですか?先生とかどうしたらなれるのですか?」

 静音さんが鼻で笑ったのが分かった。

「そんな甘い世界じゃないわよ」

「やっぱり、ダメですか……」

「静音さん、そんな頭から否定しなくても……。確かに簡単ではないけどね」

「中途半端な希望を与えるよりマシよ。プロのオーディションだって、みんな肩書きがすごいのよ」

「コンクールとかに出てみたら?名前を売ればスポンサーが付くこともある」

「優勝とかすればね」

 優しさと冷たさが交互に返って来た。

 コンクールもどこかの教室に通ってなければ参加すら出来ないのだろう。

 そんなお金もなかった。

 結局、今の私には無理ってことだった。


 ノックの音がした。


 看護婦が入って来る。

「では診察に行きましょうか」

 ロペスさんが返事をして病室を出て行くと、静音さんの笑顔は消えていた。

 二人っきりになった私はこの場を立ち去る理由を考えていた。

「あなた、筋ジストロフィーってご存知?」

 静音さんに先手を打たれてしまった。

「……いいえ」

 初めて聞く言葉だった。


「生きたくても神様に制限させられている奴もいるというのに……」

 ロペスさんの言葉が蘇る。


 静音さんの笑顔が消えた理由が分かった。

「ロペスさんの病名ですか?」

「そうよ。筋肉が少しずつ動かなくなっていくの。最後には心臓を動かす筋肉さえ……。彼の残された人生を満足させてあげたい」

 この人、本気なんだと春奈は思った。


 私は家を飛び出して失う物はなく、将来もない。

 自分では何もせず、理想ばかり考えている。

 今が楽しければ、嫌な過去さえ忘れてしまう。

 楽しくなければ人生放棄……逃げることばかり。

 今は、霧人のやさしさに逃げ込んでいる。

 静音さんにやさしく叱られている気がしてきた。


「ねぇ、あなた」

「は、はい」

「二週間後に県のコンクールがあるんだけど出てみない?あなたの気持ちが本気ならね」

「今から登録なんて間に合いませんよ。それに……」

「手続きと費用は私がなんとかしてあげる」

「ホントですか?でもどうして……」

「ただし、条件があるわ。大会の結果がどうであれ、その後はもうあの人に会わないで欲しいの」

 はい、来ました。

 嫉妬の波が押し寄せているのをひしひしと感じます。

 でも私にはロペスさんに恋愛感情はまったくなく、

その時は二つ返事で静音さんの条件を呑んだのだった。

 私はこみ上げる喜びを抑えるので必死だった。

 病院を出てもまだ笑顔を我慢していた。 

 どこで発散するか……そんなことは決まっている。




 丘を登り切ったら走り出し、霧人目掛けて飛び付いた。

 霧人は声を上げ驚き、二人はバランスを崩して地面に転げ、

全身が花びらまみれになった。

「何?ど、どうした。大丈夫?」

 私に近寄り心配そうに覗く霧人の顔は近かった。

 私にも目標ができたのだ。

 霧人の首にしがみ付き、キスをしたかったが、

 私たちはまだそこまでの仲ではないだろうから諦めた。

「ふふ、いいことがあったの」

「何だよ。教えてくれないのか?」

「どうしようかな〜」

 春奈はニヤ付きながら上半身を起こした。

「俺たちはそこまでの仲なのか?春奈のこと、俺はそんな風に見てなかったんだけどなぁ」

 その言葉を聞いて、私は霧人の首にしがみ付きキスをしていた。

 霧人の温もりは宇佐野の日差しより暖かかった。

 霧人は驚かずに、

「よっぽど、嬉しいことがあったんだな」

「私、ピアノのコンクールに出るの!」

「やっと教えてくれたな。早く言えっつうの。いい誕生日になってよかったな」

 春奈から無邪気な笑顔がこぼれる。

 それを見て霧人が、

「花びらだらけだから全然かわいくねぇ」

 春奈は少し冷めた表情なり、

「いえいえ、あなたには負けるわ」

「うるせぇよ」

 大桜の下で二人の笑い声が続いた。

 やっぱり私は、今が楽しければいいと思った。


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