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薄暗い店内には数人の客がいた。
「ちょっと待ってて」
と言って、中年のマスターに挨拶に行く霧人。
「すいません、友達なんですけど、仕事の間ここに居させてもらえませんか?」
「あの子、未成年じゃないのか?」
「お願いしますよ、マスター」
戸惑ながら入り口に立っている春奈のそばへ、
霧人が駆け寄って来る。
「いいってっさ。カウンターにでも座ってなよ。俺ちょっと上着脱いで来るから」
春奈は足の届かない高い椅子に腰掛け、
初めて見る大人の世界に驚いていた。
店の奥に置いてある黒いシーツを掛けたピアノに春奈の目が止まる。
カウンターで飲んでいた中年の男性が春奈に声を掛けてきた。
「お嬢さん、この店初めてか?」
常連客の柴さんだ。その顔はかなり怖かった。
春奈は、恐る恐る頷いて返事をした。
「じゃ、おじさんが一杯おごるよ」
困っている春奈の間にマスターが入って来て、
「ダメだ、柴。この子まだお酒飲めないんだから」
「少しくらい、いいじゃねぇか」
マスターが春奈にジュースを差し出す。
「これでも飲んでなよ」
春奈、ホッとしながらお礼を言う。
「ありがとうございます」
マスターが柴さんを指差しながら、
「君は、あんな大人になったらダメだよ」
透かさず柴さんが口を挟む。
「長く生きればなぁ、誰でも自分が汚れていくことに気付くんや。それを酒で洗って何が悪い!」
柴さんはグラスのお酒をグイッと空けた。
「柴、お前は汚れ過ぎだよ」
「やかましいわ。おい拓、もう一杯くれ」
「店にいる時はマスターと呼べ」
グレーのカッターシャツの袖をめくりながら霧人が奥から出て来て、
マスターに話し掛ける。
「今日は有線を付けてないんですか?」
「なんか調子悪くてな。後で修理に来てくれるそうだ」
「あの……」
二人の話を聞いていた春奈が会話に入ってきた。
「奥にあるピアノ弾いてもいいですか?」
霧人が驚いたように、
「君、ピアノなんか弾けるの?」
マスターが、やさしく答える。
「構わんよ。出来ればジャズなんかがいいんだがね」
「少しなら知ってます」
春奈はジュースを持って席を移る。
霧人が掛けてあるシーツを外し、畳みながら、
「人前でライブだよ。大丈夫なの君?」
「なんとかなるわ」
と、笑顔を返す春奈。
「じゃあ、よろしく」
春奈は雰囲気に合わせて、軟らかいナンバーから弾き始めた。
柴さんの顔がニヤける。
「おお、いいねぇ」
賑やかな店内のざわめきが少しずつ消えていく。
人々の手が止まり、春奈に視線が集まる。
マスターも感心していた。
「霧人、どこで見付けて来たんだ」
「昨日会ったばかりなんですよ。ただの知り合いです」
柴さんが冷やかし半分に口を挟む。
「霧人の彼女なのか?」
「そんなんじゃありませんって……」
だが、霧人はピアノを弾いている春奈に少し惹かれていた。
一曲が終わるとまばらな拍手が鳴る。
全員でたった九人しかいない観客。
それでも春奈は嬉しかった。
今まで、自分の演奏を聴いてもらう為に弾いていた。
でも、今日はお客の為に弾いた。
春奈は恥ずかしそうに軽くお辞儀をした。
それから何曲か弾いたが、
修理の人が来て有線を直して行った。
春奈はカウンターに戻り、
霧人の接客姿をぼんやりと見ていた。
客層が中年のサラリーマンから若者になり、
そして、年配のおじ様たちに変わっていく。
春奈は霧人を感心して見ていた。
どんなお客にでも溶け込むように会話をしていた。
沈黙になりそうな時は、霧人から話題を作る。
「うちの大家さん面白いですよ。もう八十なのにすごく真剣に手相を見ていたんですよ。どれが生命線か分からないくらいシワシワなのに……。まあ、それ以前に今から何を占っているのって感じなんですけどね」
「恋愛運かもな」
と、客が返してくる。
「ハハ、実る前に天国の旦那が迎えに来ますって」
閉店間際になると、
水商売のお姉さんたちが店を占領していた。
「霧人、聞いてよ。彼氏と一週間も連絡取れないの……」
「今頃、囚人番号で呼ばれてんじゃない?」
「なんでよぉ」
その頃、春奈は控え室のソファーでぐっすり眠っていた。
起きた時には霧人の背中におぶさって、
薄明るい街中を歩いていた。
「あ、起きた?この先にコンビニがあるから飲み物でも買うね」
春奈は誰もいなくなった街を見て、
みんなには帰る場所があることを知り、うらやましく思えた。
「ねぇ、昼間のあなたと夜のあなたはどっちが本当のあなたなの?」
霧人は前を向いたまま、無言で歩いていた。
そして、思い返しながら軽い口調で話し始める。
「前の彼女の時にさぁ、別れた理由が他に好きな男が出来たからだって……。人と付き合うってそのくらいのことなんだって思ったよ」
「そんな人ばかりじゃないと思うよ」
春奈の言葉に辛そうに微笑む霧人。
「俺、その人しか見えてなかったからかなり傷付いたよ。自然に……人を信じなくなったね。そしたらさぁ、誰とでも話せるようになったんだ。それが夜の俺かな。いつも仮面を被って仕事している。……泣くことすら忘れたような気がするよ」
「昼間のあなたは?」
「絵を描いている時が一番落ち着くんだ。何もかも忘れて、ただ好きな絵を描いている」
「仮面を外している時の霧人さんね」
霧人は、春奈を地面に降ろした。
「起きたなら自分で歩けよな」
春奈は残念そうに、
「ちぇ、もう少しいけると思ったのに……」
「あーそう。ジュースおごるの止めた」
「あー、ごめんなさーい」
霧人の後を追ってコンビニに入る春奈。
ひとりは、人を信じれない男。
ひとりは、居場所をなくした女。
二人は、互いに生きることに傷付いていた。




