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春奈は階段を下りると足を止めた。
自分の病室に入る父、秀夫と佐知子の姿を見たのだ。
避けるようにその場を離れた。
どこにいても見付かりそうで、気付けば病院の扉を開け、外へと出ていた。
空は曇っていて、パジャマ姿の春奈にはまだ肌寒かった。
上着でも着てくればよかったと振り返ると、病院の裏に桜の丘が見えていた。
春奈は引き寄せられるように丘へと向かって歩き出した。
咲いている菜の花を少し摘み、石段を登って行く。
丘に立った春奈は、広がる世界に今年も心を奪われた。
花びらの絨毯を歩いて行く。
その老木は去年と変わらずたたずんでいた。
春奈は思い返すように近付いて、大桜の幹に触れた。
次第に悲しい表情になっていく。
「そのまま動かないで」
声の方へ振り向く春奈。
青年が春奈の方へ向かって絵を描いていた。
「ごめん、少しだけ動かないで……直ぐ終わるから」
大桜の絵の中に春奈の姿を描く、山瀬霧人。二十二歳。
「よしいいよ。大体の構図はできたから」
春奈は霧人に近寄って、左側に腰を下ろした。
「いつもここで描いてるの?」
「いろんな所で描いてるよ。今はやっぱりこの桜でしょ。俺、山瀬霧人」
「春奈……島津春奈」
霧人は、ボソッと自分の名前をつぶやいた春奈を少し笑って、
また筆を走らせた。
「うまいね。絵描きさんなの?」
「違うよ。趣味かな。描くのが好きなだけ」
描いている絵にポツポツと雨が落ちてくる。
「やばい!」
霧人は急いで道具を片付ける。
雨は勢いを増していった。
春奈は大桜の下へと逃げる。
道具を抱えた霧人も、春奈の横へと走り寄る。
パジャマ姿の春奈が、寒そうに空を見ながら、
「やみそうにないね」
「あ、俺の傘使ってよ。ほら」
断る間もなく手渡され、霧人は走り去ってしまった。
春奈はお言葉に甘え、傘を差して絶句した。
抽象的なアンフォルメル(不定型)の絵が一面にプリントされていた。
「……派手な傘」
今日、春奈は自分に驚いていた。
久しぶりに人と会話をしていたのだ。
学校では私がいなくても、みんな他の誰かと話をしている。
でも、二人っきりだと相手は私だけ。自然と会話をしてしまった。
「しかも、男の人ふたりも……」
私がピアノに興味がなければ、ロペスさんには会えなかった。
私が病院を出て行かなければ、絵描きさんには会えなかった。
春奈は、さっき摘んだ菜の花を大桜の根元へと置いた。
傘を持ったまま、手を合わせる。
静かに顔を上げると、
雨の中、病院へと帰って行った。
病室へ戻ると両親の姿はもうなかった。
後で看護婦さんに、勝手に外出したことを叱られた。
お父さんも佐代子さんも、とても心配していたそうだ。
……どうでもよかった。
「それからね、明日には退院出来るそうよ。よかったわね」
その言葉が一番重かった。
私はあの家で飼われているペットでしかないと思っていた。
次の日、ロペスさんに退院を知らせに会いに行くと、
昨日と同じ場所で読書していた。
春奈は、トコトコ歩きながらピアノの椅子へと座る。
それを見ていたロペスが半笑いで、
「おや、もう傷は治ったのか?」
嫌味な質問がきたので、嫌味っぽく返事をした。
「ま・だ・で・すぅ。今日退院するから、さよならを言いに来ただけですぅ」
言い終わった顔がタコみたいになっていた。
そこへ入って来た静音が春奈を見て、
「あら、昨日より美人になったじゃない」
もう一人嫌味な人が現れた。
静音は二人の間に立ち、腰に手を当てロペスに向かって、
「本当にピアノを教えていたのね。彼女に素質はあったのかしら?」
「教えるまでもなかったよ。君に丁度いいライバルって感じかな」
「あら珍しい。あなたが人を褒めるなんて」
静音は春奈に視線だけ向け、
「あなた、なぜ自殺しようとしたの?」
春奈は、突然の質問に下を向いてしまう。
「みんな噂してるわよ。退院したらまた手首を切るの?あなたがこの世に居ることは、あなたの望みではないものね」
ロペスが物静かに、
「静音さん、それは言い過ぎだと思った僕の考え方がおかしいのかな?」
「ふふ、冗談よ。そろそろ行くわ」
「また買い物かい?」
「ピアノより楽しいわ」
春奈は出て行く静音を見ていた。
二人の会話は春奈が今まで身近で交わしてきた会話とは違って思えた。
何か別の意味が含まれているようで怖かった。
帰り際、いつでもここへ遊びに来てもいいと言ってくれたロペスの言葉に、
春奈はホッとした。
自分に居場所が出来たようで嬉しかった。
そして、退院した。
家までは遠くなかったので、お父さんに歩いて帰ると言っておいた。
またあの家で暮らすのが辛かった。
だが私を泊めてくれる知り合いもいない。
自分の鳥籠へ帰るしかなかった。
春奈はため息を付き、島津家のドアを少し開け、手を止めた。
中から佐知子の声が漏れてきた。
「私は恥ずかしくて買い物にも行けないわよ。あの子は私を困らせて喜んでいるんだわ」
なだめる秀夫だが、佐知子が口を開けば手の付けられないことを知っていた。
「そんなことないさ。春奈はとてもいい子じゃないか」
「あなたにとってはね。私にはあの子との生活がキツイの」
春奈は悩んだ。
……いい子って何?
「なんでもっといい子にしてくれないのかしら」
あなたたちが望むいい子って、どんな子なの?
「春奈は今日帰って来るんだ。頼むからいつも通りに接してくれよ」
「あら、いつも通りにしていたら、あの子また自殺するわよ。あなたからもちゃんと話をして下さいよ」
「ああ、分かったからもう言うな!」
春奈はそっとドアを戻し、その場を去った。




