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桜舞う季節をめぐる物語  作者: 九月 草次
3/24

3

 病室を抜け出した春奈は、漂う音色を追いかけた。

 階段で最上階まで上がり、長い廊下をトコトコ歩く。

 突き当たりの部屋の前で、足を止める。

 ドアの隙間から、ピアノの音がこぼれていた。


 この部屋だ。


 どんな人が弾いているのだろう。

 春奈の好奇心がドアを少し開け、中を覗かせていた。

 髪の長い若い女性だった。

 自分より大人っぽく見えた。

 優雅にグランドピアノを弾いている。

 他には何もない部屋。

 見渡すと窓際にもう一人いた。

 外人の男性だった。

 二十代後半位で、椅子に腰掛けて無表情で本を読んでいる。

 生演奏をBGMに読書する外人……少し憧れてしまう。

 音が止む。

 慌ててドアを閉める春奈。

 顔を上げるロペス・オーセン。二十七歳。

 演奏していた川原静音、二十歳は、腕時計を見て立ち上がり、

ロペスに言った。

「私、もう行くわ」

「どこへ?」

「友達とデパートへ行く約束があるの」

 静音はバックを持って足早に部屋を出て行ってしまった。

 春奈の前を「何、この子」と言うような目でチラッと見て通り過ぎて行く。

 またドアが開き、ロペスが顔を出した。

「まだ練習は終わってないよ」

「その子にでも教えてあげればぁ。じゃあね、ロペス」

 背中越しに手を振って行ってしまう。

「やれやれ、気まぐれなお嬢様だ……」

 ロペスが春奈に気付く。

「ん、君だれ?」

 春奈はオドオドして声も出ない。

 それを見て、ロペスがまた尋ねる。

「外人見るの初めて?」

 春奈、目を丸くしながら、小刻みに三回うなずいた。

「ハハ、おもしろい子だね」

 何か言わなきゃと、やっとの思いで口から搾り出した言葉が、

「日本語……上手ですね」

 自分で何言ってんだろうって感じだった。

「母親が日本人なんだ」

 と笑顔を見せて、ロペスは中へ戻っていった。

 春奈はまたドアを開け、中を覗いた。

 ロペスが椅子に置いていた本を取りながら、

「入ってもいいよ。ここ出入り自由だから。でもピアノ以外、何もない部屋だよ」

 春奈は部屋に入り、ゆっくりとピアノに近付いていく。

「さっき……きれいな音が聞こえたから」

「ああ……静音さんの演奏か。あれは『渡り鳥』という曲だよ。まだまだ練習しないとダメなのに、いつも遊びに行ってしまう」

 春奈は高級なピアノに気持ちが高ぶる。

 伸ばした手が触ってもいいのか、ためらっていた。

 ロペスがページを捲りながら、

「弾きたいなら弾いてもいいよ」

「ほんとに?」

「ああ」

 その言葉を聞いて、やっとピアノに触ることができた。

「ここの川原院長が誰でも好きに使っていいって言ってたからね」

 春奈は椅子を引いて席に着いた。

 猫の絵のパジャマが違和感を引き立てる。

「院長は心の広い人だからね。君の演奏を聴いて、次の日からピアノを隠したりはしないよ」

 春奈は苦笑いしながら、

「……それはよかったわ」

 ゆっくりと鍵盤に指を置いた。

 心の奥底から何かが蘇ってくる。

 一年前に無くしてしまった懐かしい感情。

 私のピアノをいつもそばで聴いてくれたお母さんとの思い出が、春奈を包んでいく。

 春奈の指が動き出す。

 音が、泳ぎ始める。

 ロペスが「ん?」と春奈を見る。

 春奈にとって何百回と弾いた曲を、ただもう一度弾いているだけだった。

 ロペスは本を閉じ、春奈の演奏を見た。

「ほう、グラパスの『踊り子』か……」

 鍵盤の波打つ早さが増していく。

 暴風雨の中にいるように荒々しく、全てを制圧させるかのような力強さ。

 音楽を知らない人には、ただやかましいだけの音にしか聞こえないだろう。

「あっ!」

 春奈の叫び声と共に音が弾けて止む。

 包帯を押さえる春奈のもとへ、ロペスが近付く。

「リストカットか。馬鹿なまねを……」

 春奈は傷を隠すように背を向けた。

「君、ピアノを弾いたことあったんだね」

「……ずっと昔」

「でも、まだまだだ。規則正しく弾いているだけだな」

「もう弾かない」

「では、なぜ今弾いた?」

「懐かしかったから……」

「違うね。自慢したかったんだろ。身内の人ならうまいねと褒めてくれただろうが、相手が悪かったな」

「ちがう!」

「唯一自慢出来るのがピアノしかなかったんだろ?途中で止めて、残った自分には何もなくて、何をやってもうまくいかないだろ?ピアノ以上のものができるまで、その思いからは逃げられないんだぜ」

 ロペスは春奈をまくし立てた。

 彼女には才能がある。

 なのになぜピアノを諦め、死を選んだのか?

 理由などは知らないが、ただ自分と比べてしまい……ロペスは悲しんでいた。

「ピアノなんてどうでもいい。ほら見て、ピアノが好きな人が手首とか切ると思う?」

「さあね。そんなことする奴の気持ちなんか分りたくもないね。世の中には生きたくても神様に制限させられている奴もいるというのに」

 部屋へ白衣を着た中年の男性が入って来た。

「川原院長……」

「おや、娘じゃなかったのか。今日は違う曲が聞こえたから見に来たのだが」

「静音さんなら出掛けられましたよ」

「また逃げたか。君にはいつもすまないな」

「暇ですから、かまいません」

「さっきの演奏はロペス君だったのかね?」

「いえ、あれはこの子が弾いていたんです。かなり基礎はできてるみたいですね」

 春奈は川原にお辞儀する。

「そうか。なかなかうまいね。いつでも使っていいからね」

 川原はそう言って部屋を出て行った。

 ロペスは春奈に話し掛ける。

「なあ君、もうひとつ上の演奏をしてみたいと思わないか?」

「どういうこと?」

「口では説明しにくいな。それにもう直ぐ診察の時間だから病室に戻らないといけない。昼間だったらここにいるから、暇な時に来なよ」

 春奈は照れくさそうに頷いた。

「ただし、傷が治ってからな」

 春奈はアカンベェをして歩き出す。

「君、名前は?」

 春奈はドアの前で足を止め、振り返り、

「島津春奈。ありがとう、ロペスさん」

 そして、部屋を出て行った。


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