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四月。風が大空で遊びだす。
この町の小高い丘にある桜並木は、風たちの通り道だ。
彼らは大量の花びらを巻き上げていく。
そして、この宇佐野の町に桜吹雪が降り注ぐ。
辺りを霞ませるほどの花びらが舞踊り、
幻想的な世界を作り出していた。
桜のトンネルを老夫婦が手を繋いで歩いている。
椅子に座った青年が、絵を描いている。
集う人々の視線の先には、樹齢八百年の大桜が満開の花を咲かせ、
今年もみんなに春の訪れを告げていた。
絵描きの青年のそばに老夫婦が近付く。
「あなた、なかなか上手ね」
お婆さんがキャンパスを覗く。
満開の大桜が枠からはみ出すくらい描かれている。
「でも、何か足りないわ……」
青年は不思議そうに顔を上げ、お婆さんを見た。
隣にいたお爺さんが微かに笑って、言葉を添えた。
「彼女は自分の絵に必ず大好きなものや大切なものを加えるんだよ。気にせんでくれ」
と言って、大桜を見上げた。
「君は……この桜の木の話を聞いたことはあるかね?」
青年は筆を下ろし、首を左右に振って、
「……いいえ」
と、答えた。
「昔、恋人たちが戦争で別れる時、この桜の下で再会を誓ったんだよ。このまま帰らなくても、いつか来世で会おうと……」
青年もゆっくりと大桜を見上げて、
「この桜は目印だったんですね」
お婆さんが、お爺さんの腕を組んで、
「私たちも、ここで出会ったのよ」
と、可愛らしく微笑んで、老夫婦はその場を去って行った。
青年は二人の後姿を見送って、また筆を走らせた。
肌寒い日曜日のお昼前。
春奈はお風呂場にいた。
服を着たまま浴槽を覗き込むようにして、床に座っている。
浴槽の淵に肘を付け、溜まっている水をぼんやりと眺めていた。
リビングでテレビを見ている佐知子の笑い声が耳に届く。
父親は会社の上司とゴルフに出掛けていていない。
今日は、大切な日だった。
春奈は次第に重たくなるまぶたと戦った。
冷たい水面を指で撫でるように回しながら、
小さな笑みを浮かべた。
差し込んでくる木漏れ日が体を暖かく包む。
風がやさしく髪を撫でていく。
春奈は力尽きたように、その場で眠りに付いていった。
そばに置いてあるカミソリが、冷たく光った。
テレビを見ていた佐知子が大笑いをして、
飲んでいたビールがこぼれた。
汚れた服を見て、
「もう最低!」
と言って、立ち上がり洗面所へと向かう。
風呂場の小窓から桜の花びらが、
風に飛ばされ迷い込んで来る。
ヒラヒラと揺れながら、真っ赤に染まった水面に落ち、
寂しく浮かんだ。
春奈は開けてはいけない扉を開け、
入ってはいけない世界へと落ちていった。
佐知子が不機嫌そうに手を洗う。
ふと、浴室の摺りガラス越しの人影に気付く。
ゆっくり扉を開け……春奈の姿が目に入る。
佐知子の狂乱した叫び声が狭い空間に弾けた。
私は去年と同じ何ひとつ面白くない一年を過ごす気はなかった……。
私はお母さんに会いに行くことを選んだ。
水面に浸かる春奈の指先に、
桜の花びらが引き寄せられるように近付き、そっと触れた。
今日は、お母さんの命日だった。
宇佐野の町が夕日に照らされ、
オレンジ色に染まっていく。
家々からまな板を叩く音が聞こえてくる。
台所で煮込み物の火を小さくする菊江。
幼い女の子が走り寄って来る。
「お母さん」
「ん……どうしたの?」
桜の花に糸を通しただけのネックレスを首から提げて、
母に見せながら少女は答えた。
「春奈が作ったの!」
菊江は手を止め、春奈の目線まで腰を落とす。
「そう、とても似合っているわよ」
五歳になったばかりの春奈は、無邪気な笑顔を見せ、
ピアノへと向かって走っていった。
菊江はまた家事へと戻った。
春奈の演奏が流れてくる。
微笑む菊江。
ピアノの上には賞状が飾ってある。
『第十二回 新人ピアノコンクール優勝 浅田 菊江殿』
春奈のそばへ、菊江が手を拭きながらやって来る。
「うまくなったわね」
「当たり前でしょ。春奈、優勝するのよ」
「へぇ、それは楽しみ。大会はいつなの?」
「春奈が大きくなってからよ」
「ふふ、随分ファンを待たせるのね。もし春奈が優勝したら何かプレゼントするわ」
「何々?」
「まだ内緒。がんばってね、我が家のピアニストさん……」
ハッと、目を覚ます春奈。
辺りを見回し、そこが病室だと気付く。
どこからかピアノの演奏が聞こえてくる。
上半身を起こした時、手首に激痛が走った。
「痛っ」
左手首にしてある包帯を、思い返すように眺める。
猫の絵のパジャマを着た春奈は、
スリッパを履き、音を追うように窓へと近付く。
外を見ると桜の花びらが宇佐野の空を舞っていた。
まるでピンクのカーテンのように見え、春奈は微笑む。
思い出したかのように上の階へと視線をやる。
「きれいな音……」
春奈は病室を抜け出した。




