17
霧人はきれいに片付けられた部屋で寝ていた。
チャイムの音が響く。
目を半分開け、寝ぼけ声で返事をする。
気だるく歩きながらドアを開けた。
「どなた?……あれ」
霧人の弟の正人が立っていた。
「兄貴、久しぶり」
「……珍しいな、入れよ」
正人は部屋に入りながら小言を言う。
「親父がたまには連絡しろってさ」
霧人はジュースを入れながら、
「別に話すことなんかないよ。連絡しないのは元気な証拠だろ」
正人は腰を下ろし、部屋の中を見回す。
「だから俺が確認しに来たんじゃないか」
霧人は正人にジュースを渡すと、ベッドに座った。
「お前、ちゃんと高校行ってんのか?」
正人がラックに置いてある写真を手にする。
「ああ……家を継ぐの俺しかいないじゃん。俺だって兄貴みたいに好きなことしたいよ」
「悪いな。……そうか、来年は医学部受験か。がんばれよ」
正人は霧人と春奈の写っている写真を見ながら、
「へぇー、彼女出来たんだ」
「確か、お前と同じ歳だったかな。名前は……」
「この子、知ってる。島津……春奈だ」
そのころ春奈は、
練習が終って、静音と街中を歩いていた。
二人で大通りに面したビルへと入る。
オドオドしている春奈をエレベーターに押し込み、
最上階の五階まで上がった。
廊下の突き当たりの部屋で静音は足を止める。
春奈は落ち着かない様子で辺りを見回しながら、
後を付いて行く。
「静音さん、ここどこなんですか?大丈夫なんですか?」
「怖がらなくていいから、早く来なさい」
静音はバックから鍵を出し、扉を開け中へ入って行く。
「あ、待ってください」
春奈も中を覗き込むように入って行った。
何もない、ただの広い部屋だった。
前にいた企業の物はすべて引払われ、
部屋の壁と床が見渡せれた。
静音は窓に向かって歩きながら、ゆっくりと話し始めた。
「初めてロペスの病気を知った時、彼に聞いたの……」
ある日の川原病院のピアノの部屋……。
窓際の椅子に座っている静音。
その横に立って外を眺めているロペス。
二人でコーヒーを飲んでいた。
静音はカップを両手で持ち、膝へと置いて話し出す。
「ロペス、大勢の人にもっと自分の演奏を聴かせたいとは思わないの?」
ロペスは外を見たまま、一呼吸置いて口を開いた。
「それもいいと思うよ。でも限られた時間をどう生きるかって考えたら、人に教えることにしたんだ。そうすれば僕が死んでからも僕の演奏を聴くことが出来るだろ」
静音は手に持つカップに視線を落とし、
「私はあなたではないのよ。あなたが描く音楽と同じものなんて私には弾けないわ」
「音楽は人の心に届いてこそ本物なんだ。それがたった一人でもね。何百人いても君が聴かせたい人だけに向けて演奏すればいい。それが僕の音楽なんだ」
春奈は黙って静音を見ていた。
静音の右手が窓ガラスに触れ、外を眺める。
「……だから、あの人の教室を作ることにしたの。何ヶ月も不動産を回って探したわ」
「買い物ってこのことだったの?このくらいの部屋ならすぐ見付かりそうなのに……」
「条件に合う所がなかったの」
「条件?」
「こっちへ来て、外を見て……」
窓辺へと近付く春奈の顔が、夕日に赤く染まっていく。
外を眺めて気付いた。
同じく夕日に染まる桜の丘が、そこから一望できた。
「彼、この国へ来て桜を見た時、すごく感動したそうよ。死ぬまでに桜の曲を書くんだって言ってたわ」
「それが『桜舞う季節』だったのね。このことはロペスさんも知ってるの?」
「いいえ。後で話して講師として雇うつもりよ。あの人にはピアノしかないから……」
「ロペスさんのことが本当に好きなのね」
静音、顔を赤くして、
「な、何言ってんの。そんなんじゃないわ。病気が進んでも食べていけるし……」
「じゃ、私が狙っちゃおうかな〜」
「は?あんたなんか相手にされないよ」
私はムキになって言い返す静音さんがとても可愛らしく見えた。
本当は純粋で素直な人なんだと思った。ちょっと好きになったかも……。
「がんばって下さい。応援しますから」
「何言ってるの?春奈さん、あなたもここで教えるのよ」
「え?」
「誰のおかげで優勝できたと思ってるの?あなたがいればいい宣伝になるわ。もう決めたことだから、あなたもがんばってちょうだい」
私の嫌な予感が大当りしました。
恐るべし川原静音。今だ理解に苦しむ性格有り。
先程の「ちょっと好き」を保留にさせて頂きます。
……でも、これって?
「講習料はちゃんと払うわ。あなたの夢だったんでしょ?ピアノの先生になること……」
私は静音さんに抱き付いていた。
静音は困りながらも拒絶せず、次第に微笑んでいった。
西の空は赤く、夕日は丘の向こうに消えていった。
霧人は少し驚いた様子で、
「なんだ、正人と同じ高校だったのか。義理の母親とはうまくいってないみたいだな」
霧人は春奈のことが知りたかった。
今まで本人が何も話さないので、霧人も聞かずにいたのだ。
「父親は愛人作って家を出たんだ。今の母親はその時の愛人だよ。実の母親も交通事故じゃなく、自殺って噂だ。兄貴、この子は止めときなよ。面倒なことになるだけだ」
正人なりに、兄を心配して言ってくれたのは分かった。
だが、霧人には自分が逃げ出した家族の嫌な姿を思い出していた。
「お前たちは麻美の時も、そうやって理由を付けて反対したよな」
「家を出て同棲までして結果どうなったよ?親父の言ったとおり、うまくいかなかっただろ!」
霧人は、正人と目線を合わせず立ち上がって、
「そろそろ仕事の時間だから、お前もう帰れよ」
「家に帰って来いよ。不住しなくていいんだぜ。こんな生活よく続けられるな。金持ちの娘もたくさん知り合えるぜ」
「正人……帰れと言ったんだ」
「最後に一人ぼっちになって悲しむのは兄貴なんだぜ」
正人は、そう吐き捨てて部屋を出て行った。
「お前たちが人の気持ちを理解しようとしないのは、自分が嫌われていることを知りたくないからじゃないのか?」
霧人は、春奈との写真を手に取り、見詰めながらつぶやいた。
「孤独になるのが怖いから、人は寄り添うんだよ」




