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ありのはなし

作者: 海山馬骨

「外から帰ったら手を洗いなさい!」


「散らかしたおもちゃはすぐに片付けなさい!」


「宿題はやったの!?」


「まだ歯を磨いてないの!?」


 司くんはおかあさんが嫌いです。


 いまやろうと思ってたのに!


 ちょっと前からおかあさんは、司くんのすることを先回りしてガミガミ怒ってばかり。


 前はこんなに怒ったりしなかったのになあ。


 ふだんは大好きなおかあさんも、ガミガミしてるときは嫌だなあ、と司くんは思います。


 特に司くんがそう感じるのは、庭で蟻さんを見ているのを邪魔されたときです。


 司くんは蟻さんが大好き。お母さんと同じくらい好きです。


 ちいさな体でえいこらえいこら、自分の何倍も大きなものを運ぶのは、本当にすごいなあと思うのです。

 誰にも命令されないのに、一列になってみんなでひとつの仕事をするのもすごいなあと思うのです。


 それで電気も何もない真っ暗な穴の中に入っていくのも勇気があってすごいなあと思うのです。


 蟻さんが働いているところを見ているだけで、何時間でも居られるくらい司くんは蟻さんが好きなのでした。


 でも、おかあさんはそういう司くんの気持ちがわからないようなのです。


「また蟻なんか見て! 宿題はやったの!」


 いまやろうと思ってたのに!


 蟻さんを見てるときは特に怒るみたい、と司くんは感じます。


 それが司くんは、ほんとうにほんとうに嫌なのです。


「あーあ。学校なんか、もうやだなあ。ガミガミするおかあさんも嫌だなあ。僕も蟻さんになって穴のなかに行きたいなあ」


 今日も蟻さんたちがせっせとご飯を運ぶのを見ながら、司くんはつぶやきます。


 蟻さんになれば、ブルドーザーみたいなすごい力持ちになって、いっぱい食べ物を運んだり、蟻さんたちと一緒になって行進したり、停電の日のように真っ暗な穴の中で仲間とはしゃいだり、楽しいことばっかりだと思いました。


 そのときです。


 司くんが何度めかのため息をついたとき、司くんはいきなり尻餅をつきそうになりました。


 足が地面につきません。


 なんと、司くんの足元に大きな真っ黒な穴が空いているではありませんか。


「わあ」


 と叫ぶ暇もありません。


 司くんはたちまちその穴へまっすぐ吸い込まれてしまいました。


     ※


「あいたたた」


 気がつくと、司くんはどこかの部屋のなかに居るようでした。


 その部屋は、司くんが一度も見たことのないような変な部屋です。


 壁も床も天井も、木とかガラスとか鉄とか絨毯とかではないのです。ぜんぶ土で出来ているようでした。黄色い砂のような色です。


「ここ…どこだろう?」


 こんなに変な場所は見たことがありません。まるで蟻さんの穴みたいだ、と司くんは思いました。


 あまり広い部屋ではありませんが、ここから一本、ちょうど人が通れるくらいの穴がどこかにつながっているようです。


 司くんはちょっと怖いなと思いましたが、勇気を出してその穴の先へ行ってみることにしました。


     ※


 どのくらい歩いたでしょうか。


 司くんがしばらく行くと、どこかからしくしくと泣くような声が聞こえてきます。


 それはとても悲しそうな声で、どんなにつらいことがあったらこんな風になるんだろうと、聞いてるこちらまで泣きそうになるような声でした。


 それ以外には人っこ一人居る感じがしないものですから、だんだんに心細くなってきていた司くんは、その泣き声のほうへ行ってみることにしました。


「女王さまあ」


「わあああん。わあああん」


「うぇぇぇん。うぇぇぇん」


 その部屋は、司くんが最初に居た部屋の何倍も大きな部屋でした。


 天井の高さも広さも、司くんのおうちがまるごと入りそうな大きさです。


 さて、その部屋の中には確かに誰かが居ました。


 それも一人や二人ではありません。10人。20人。いいえ、もっと居るでしょう。


 まるで学校の教室がそこにあるようです。


 ただ、そこに居る人たちは、司くんの学校の仲間とはだいぶ違う様子なのです。


 みんなぼさぼさの黒髪で、服は着ていない裸んぼうです。


 そのぼさぼさ髪のなかから、蟻さんの触覚のようなものが2本出ているのです。


 そしてお尻は赤ちゃんのおむつをもっと大きくして尖らせたような黒いものに包まれています。

 まるで蟻さんが人間になったみたいな姿なのでした。


 背丈は子供の司くんよりもっと小さくて、幼稚園の子くらいです。


 そのちょっと変な子たちが、一箇所にまあるく集まって、みんなワンワン泣いています。


「女王さまあ」


「わあああん。わあああん」


「うぇぇぇん。うぇぇぇん」


「ねえ、どうしてそんなに泣いてるの?」


 司くんは、自分もなんだかちょっと悲しい気持ちになりながら聞きました。


「女王さまが死んじゃったあ」


「わあああん。わあああん」


「うぇぇぇん。うぇぇぇん」


 そう答えたきり、みんなまた泣き出してしまいます。


 司くんは、みんなの真ん中に目を向けました。


 そこには、この蟻さんのような子たちとよく似た姿の、触覚があって髪の長い女の人が横になっていました。


 どこも怪我したり汚れた様子がなくて、よく眠ってるようにしか見えません。


 その女の人の顔をよく見て、司くんはドキンとしました。


 その顔にとても見覚えがあったからです。


 女の人の顔は、司くんそっくりだったのです。


 どういうことだろう? 司くんは、まじまじと女の人の顔を見ました。見れば見るほど、その顔は自分と同じなのです。


 どのくらいそうしていたでしょう?


 いつのまにか、あんなにひっきりなしだった泣き声がピタリと鳴り止んでいます。


 司くんが周りを見渡すと、蟻さんのような子たちが一斉に司くんの顔をじっと見ていました。


「女王さまだ」


「女王さまだ」


「女王さまだ」


 司くんは変だなと思いました。女王さまというのは、女の人の王さまのことのはずです。司くんは男の子なので、女王さまではありません。


「ちがうよ、僕は女王さまじゃないよ」


 司くんは間違われないように、すぐに本当のことを言いましたが、蟻さんのような子たちは司くんの声を聞いていないように、ワッと司くんの足元へ集まってきて、泣き腫らした目をキラキラさせて、司くんを見上げてきました。


「女王さまだ!」


「女王さまだ!」


「かえってきた! 女王さまがかえってきた!」


 また、違うよ。と言おうとした司くんに取り合わず、蟻さんのような子たちは司くんをみんなでかつぎあげてしまいます。


 こんなに小さい子たちなのに、どうしてこんなに力があるんだろう?


 司くんはびっくりしました。


 すっかり持ち上げられてしまっては、暴れることも逃げ出すこともできません。


 司くんは蟻さんのような子たちにかつがれるまま、別の部屋へ運ばれてしまいました。


 そして、ゆっくり丁寧にその部屋の床へ降ろされました。


 そうかと思えば、今度は次々、ふわふわと柔らかいものをかぶせられます。


 そのふわふわしたものは、司くんのおかあさんがお布団をお外で干したときよりもっとふわふわでいい匂いがするのです。


 それを何枚もたくさんかぶせられるものだから、司くんは埋もれてしまいました。


「うっぷ」


 ふわふわをかぶせるのが終わったかと思えば、今度は別の子たちが何かを手に持ってきます。


「女王さま、食べて」


「食べて」


「食べて」


 蟻さんのような子たちがあんまり一生懸命押し付けるので、司くんはついそれをかじってしまいました。


 それは、卵の真ん中より黄色くて、ケーキのスポンジよりふかふかの、とっても甘くて美味しいものでした。


 司くんはこんなに柔らかくてふかふかで美味しいものは食べたことがありません。


「おいしい!」


「へへー」


 蟻さんのような子たちはみんな照れたようにもじもじして、またふわふわの布団みたいなものをかぶせてきました。


「女王さまだいじょうぶ?」


「さむくない?」


「おなかすいた?」


 ふわふわに埋もれながら、ふかふか黄色いのを食べて、司くんはもうお腹いっぱいです。


「もう大丈夫だから、かまわないで!」


 このままだと司くんはふわふわのなかに埋まって出られなくなってしまいます。


 思わず叫んでしまいましたが、だからといって司くんはなにも蟻さんのような子たちを叱りたいわけではありません。


 けれども蟻さんのような子たちはしゅんとしてしまいました。


「ごめんなさい」


「ごめんなさい」


「ごめんなさい」


 かわいそうなくらいしょげかえる蟻さんのような子たちの様子に、司くんのほうで慌てます。


「だいじょうぶだよ、怒ってないよ」


「ほんとうに? えらい?」


「えらい? じゃあ、ちゅーする?」


「ぼくちゅーすき」


 ちゅーってなんのことだろう? と司くんが思っていると、蟻さんのような子たちがいっぺんに群がってきて、司くんは囲まれてしまいました。


 そしてみんな、おでこを司くんのほうに差し出してくるのです。


「ちゅーってなあに?」


「ちゅーするの。女王さまにちゅーされるの、すき」


 蟻さんのような子たちのなかの一人が、唇を尖らせました。


 その唇を見て、ちゅーがなんのことか司くんにもやっとわかりました。


 おかあさんがときどきおとうさんとしてるやつだ!


 もちろん司くんもたまにされます。


 でも司くんから誰かにしたことはありませんでした。


 いきなりしてといわれても、なんだかすごく照れくさいのです。


 蟻さんのような子たちはみんな、目をきらきらさせて、待ち構えています。


 うう、仕方ない。


 司くんはえいやっと勇気を出して、蟻さんのような子たちみんなのおでこにちゅーして回りました。


 蟻さんのような子たちはみんな、司くんにちゅーされるとうっとりしました。


「女王さま、赤ちゃんにもちゅーして」


 司くんが順番でみんなにちゅーしてあげると、今度は先にちゅーの順番が終わった子が、なにかを抱いてきました。


 それは、やっと目がちゃんと開いたというくらい小さな小さな赤ちゃんです。


 やっぱりおでこには触覚が生えています。


 ころころとまあるくて、おまんじゅうみたいにぷよぷよしたお手々とあんよを、ぐうぱあぐうぱあ握ったり開いたりしています。


「だあ、ばあ」


「赤ちゃんだ!」


 司くんは蟻さんのような子に蟻さんのような赤ちゃんを渡されて、おっかなびっくり抱き直します。


 赤ちゃんは司くんの腕のなかに抱かれると、あば、あばと小さなお手々を司くんの顔に伸ばしてきました。


「ちゅーしてあげて」


「うん」


 司くんは赤ちゃんのおでこにもちゅーしてあげます。


 赤ちゃんはきゅうきゅうきゃっきゃととても嬉しそうに笑いました。


     ※


 それから、司くんはみんなと一緒に元の部屋に戻りました。


 本当の女王さまの様子を見ないといけないと思ったからです。


 もし病気だったら、病院に行かないといけません。


 注射は痛くて怖いですが、女王さまというくらいだからへいちゃらのはずです。


 司くんのおかあさんも、どこか痛いところがあったらすぐ病院へ行くから教えるようにと司くんにいつも言っていました。


 さて、いざ女王さまのところへ戻ってみると、女王さまはさっきと同じく眠ったようです。


 ただ、よく見ると、本当に少しも動いていないみたいなのです。


 司くんは眠っていて動かない人でも、胸とかおなかが少しは上下することを知っています。


 これはひょっとして大変なことだぞ、と思いました。


「女王さま、となりのすのありにぶたれたら動かなくなっちゃったの」


「女王さまはへいき? 動かなくならない?」


「女王さま、女王さま」


 蟻さんのような子たちが司くんにしがみついてきます。


 この子たちは僕のことを女王さまって言ってるけど、この横になってる人が本当の女王さまだから、なんだかややこしいなと司くんは思いました。


 司くんはしゃがみこんで、本当の女王さまに触れようとしました。


 テレビなんかで、倒れた人の腕を触ってなにか調べたりすることを知っていたからです。


 ただ、それで何を調べるのか、どうやって調べるのか、詳しいことは知りませんけれど。


 テレビのまねっこをするつもりで、司くんが女王さまの手を取ろうと触ったら、すうっと女王さまの姿が薄れて消えてしまいました。


 司くんはびっくりしました。


 それはなんといったらいいのでしょう。


 お魚を焼く煙が換気扇に吸われていくのより、もっとすうっと、どこへともなく女王さまの姿形が消えてしまったのです。


「女王さま消えちゃった」


「女王さまはここにいるよ」


「そうだよ、女王さまはちゃんといるよ」


 蟻さんのような子たちが口々にいいますが、司くんは呆然としてしまってそれどころではありません。


 だって、それはそうです。


 自分が触った途端に、人が一人、いきなり消えてなくなってしまったんですから!


 まるで司くんのせいで女王さまが消えてしまったみたいです。


 司くんは大変なことをしてしまったという気持ちになって、女王さまが消えてしまった場所をずっと見つめ続けるばかりでした。


     ※


 消えてしまった女王さまはどこにも見つかりませんでした。


 司くんは大変だ、大変だと思っていましたが、そのうちそんな気持ちは薄れてしまいました。


 だって当の蟻さんのような子たちが、まるで気にした様子がないのです。


 司くんという女王さまが居るので、それでいいと思ってるみたいです。


 司くんは、僕は男なんだけどなあ、とちょっとだけ不満です。


 そういうわけで、消えてしまった女王さまは元の女王さまで、司くんは今の女王さまと蟻さんのような子たちは呼んだりするのでした。


 そんなこんなで、女王さまになった司くんがこの不思議な場所に来てからしばらく経ちました。


 ここは、司くんにとってはとっても楽しい場所でした。


 学校の宿題も、後片付けもしなくていいのです。


 司くんにガミガミいう人は誰もいません。


 あのふかふか黄色い食べ物はやっぱり今まで食べたどんなものより美味しいし、ふわふわのベッドはいくらでも寝ていられるくらい気持ちいいのです。


 何より、蟻さんのような子たちを見物するのが司くんは大のお気に入りになりました。


 蟻さんのような子たちは、触覚や真っ黒なお尻ばかりでなく、ふだんやることも司くんが大好きな蟻さんのようなのでした。


 みんなで力を合わせて、どこからかえっちらおっちら食べ物やふわふわを運んできます。


 蟻さんのような子たちはみんな働きもので、自分の体くらいある大きなものを、胸の前で抱っこして上手に運ぶのです。


 そして、この不思議な場所は司くんのおうちとは比べ物にならないほどたくさんの部屋があるのに、蟻さんのような子たちはどの部屋にどんな用事があって行くのか、少しも迷わないようなのでした。


 さらには、今でもこんなに部屋があるというのに、蟻さんのような子たちはもっともっと部屋を増やして広げようとするのです。


 硬そうな壁を手でどんどん剥がしては、どこかへ運んでしまいます。


 司くんがうとうとして、次に目を覚ますと、それでもう新しい部屋ができてるくらいなのです


 蟻さんもこんな風に巣を作るのかな。


 司くんは、自分がまるで蟻さんの仲間になって蟻の巣に居るような気持ちになって、嬉しくて、その壁剥がしを手伝おうとしました。


「だめ」


「だめ」


「だめ」


 すると、蟻さんのような子たちが何人もいっぺんに飛んできて、司くんは一等広くて居心地いい女王さまの部屋に運ばれてしまいました。


 そしてまた、ふわふわをどんどんとかぶせられました。


「女王さまはねてて」


「ねてて」


「ねてて」


 司くんは退屈してしまいます。


     ※


「どうしてそんなに部屋を作るの?」


 今日もせっせと部屋を広げる蟻さんのような子たちに、司くんはなんとなく聞いてみました。


「赤ちゃんのおうちつくるの」


「女王さまがあたらしく赤ちゃんうむから」


「女王さま赤ちゃんうまれそう?」


 そんなことをいわれても、司くんは困ってしまいます。


 だって、司くんに赤ちゃんが産めるわけがありません。


 赤ちゃんは大人にならないと産めないんだって、司くんはおとうさんとおかあさんに教えられてて知っているのです。


 でもそうと知らない蟻さんのよう子たちは、司くんが女王さまなのに赤ちゃんを産まないので、またどこか具合が悪いのかと心配しているようです。


「女王さまだいじょうぶ?」


「さむくない?」


「おなかすいた?」


 そういうとき、蟻さんのような子たちは決まって心配そうな顔になって、山ほどのごはんとふわふわを持ってきて、司くんを埋めてしまうのでした。


「もう足りてるよお」


     ※


 もうどのくらいここにいるでしょう。


 はじめは楽しいことばかりでしたが、蟻さんのような子たちは女王さまがまた死んでしまったら大変と思っていますので、司くんに何もさせてくれません。


 だから、司くんはとても退屈してきました。


 退屈するよりもっとつらいことは、おかあさんにもおとうさんにも会えないことです。


 宿題と先生は嫌いですが、学校の友達に会えないことも悲しいのです。


 周りにはいつも構ってくれる蟻さんのような子たちがたくさんいるのに、司くんはだんだん寂しくてたまらなくなってきました。


「もうかえりたい…」


 ぽつりと司くんが漏らした言葉を、蟻さんのような子たちは聞き逃しませんでした。


 驚きあわてて司くんにすがりついてきます。


「どこに? どこに?」


「だめ」


「いかないで女王さま」


 蟻さんのような子たちはみんな泣き出しそうに顔をしわくちゃにして、一生懸命お願いします。


 けれども、そんな顔を見ていると、司くんはもっともっとおうちに帰ってみんなに会いたくなるのです。


 おかあさんもおとうさんも、いまごろ司くんを心配して探し回っているでしょう。


 その顔はきっと、蟻さんのような子たちよりもっとしわくちゃの泣き顔に決まっているのです。


「かえりたいよお…」


「泣かないで、女王さま」


「泣かないでえ…うぇぇぇん」


「わあああん。わあああん」


 いつしか女王さまの部屋はみんなの泣き声でいっぱいになってしまいました。


 司くんはわんわんと泣きます。それがつらくて、蟻さんのような子たちもわんわんと泣きます。


 部屋のなかが水浸しになってしまうくらい、みんな泣き続けました。


     ※


「女王さまをかえしてあげよう」


「どうやって?」


「どこに?」


 蟻さんのような子たちのうちの一人が言い出したことに、みんな首をかしげました。


 蟻さんのような子たちにしてみれば、司くんは自分たちの女王さまだから、ここに居るのが自然なのです。


 司くんがどこに帰りたがっているのかも、蟻さんのような子たちにはわかりません。


 どうやってそこに行けばいいのかも、蟻さんのような子たちにはわかりません。


「ぼくしってるよ。ごはんをとりにうえにいくでしょう?」


「うん」


「うん」


「女王さまはきっとそこからきたんだよ。だって、おなじにおいがするもの」


「そうだ、おひさまのにおいだ」


「おひさまのいいにおいがする」


 それは蟻さんのような子たちには不思議なことでした。


 ずっとこの穴のなかにいるはずの女王さまから、おひさまのにおいがするわけがないのですから。


 それなのに今の女王さまからは、たしかにおひさまとおなじにおいがするのでした。


 それは、今の女王さまがずっと上のほうから来た証拠のように蟻さんのような子たちは思いました。


「女王さま、いこう」


「いこういこう」


「かえしてあげる」


 泣きつかれるほど泣いたあと、いきなりこんなことをいわれて、司くんはきょとんとします。


「おうちに帰れるの?」


「かえれるよ」


「かえれるよ」


「かえれるよ」


 集まった蟻さんのような子たちは、口々にそういって司くんの手を引き始めました。


 目指すは一筋、日のあたる場所へ。


     ※


 蟻さんのような子たちに連れられて、司くんは一生懸命歩きます。


 でもどんなに重いものを持ってもいくらだって歩ける蟻さんのような子たちと違って、司くんはただの子供ですから、すぐに疲れてしまいます。


 それに、蟻さんのような子たちがなんでもないようにすいすいと歩いてしまう道も、司くんには大変でした。


 狭いし、でこぼこしているし、足元はぼろぼろで、しかもときどき縦にまっすぐ伸びた場所があったりして、司くんの足ではとても歩いて行かれません。


 司くんは木登りなんてしたことがないのです。


「あいたっ」


 それでも頑張って登ろうとはした司くんでしたが、やっぱり滑って落っこちて、おしりを打ってしまいました。


「女王さまだいじょうぶ?」


「あぶない」


「ここはむり」


 そんな通れない場所があるたびに道を変えますが、どの道も司くんにとっては似たようなものでした。


 そのうち、通れるところは全部試してしまいました。


「どうしよう…」


「あたらしくみちをつくろう」


「女王さまのあたらしいみち!」


 蟻さんのような子たちは集まって相談しました。


 女王さまが通れる道がないのなら、通れる道を作ってしまえばいいのです。


 それは、いうだけなら簡単なことですが、本当はとても大変なのです。


 道を作っている間は、ごはんを取ってくることもできないし、何より道を広げる仕事が大変です。


 女王さまは蟻さんのような子たちと違って縦にまっすぐ登ることはできませんから、元からある道を広げるだけではすみません。


 最初から、なるべく通りやすい広い道を作らなくてはいけないのです。


 でも蟻さんのような子たちはやる気です。


 だって大好きな女王さまのためなのですから。


     ※


 本当に大変な工事でした。


 くる日もくる日も、蟻さんのような子たちはせっせせっせと壁を剥がして運びます。


 自分のためなのだからと司くんが手伝おうとしても、だいじょうぶだいじょうぶと断られるだけです。


 蟻さんのような子たちが小さな体でつらい仕事をするのを、司くんは眺めているしかありません。


 何もしなくていい、好きなことだけしてればいいなんて、司くんにとっては夢のような暮らしのはずでした。


 それがちいとも楽しくありません。


 おいしいごはんもふわふわの寝床も、なんだか悪いことをしているような気持ちになるのです。


 そのうち、司くんは恐ろしいことに気がつきました。


 働いてる蟻さんのような子たちは、ほとんどごはんを食べていないのです。


 それもそのはずで、新しくごはんを取ってくるより、司くんのための道を作ることが先なので、食べ物はもともとのたくわえしかないのです。


 その少ないたくわえも、蟻さんのような子たちは赤ちゃんにばかりあげて、自分たちではほとんど食べません。


 司くんは驚きました。


 こんなに働いてるのにごはんも食べないなんて、疲れて死んでしまいます。


 司くんはみんなに、どうにかしてごはんを食べさせようとしました。


 そうすると蟻さんのような子たちは、それを逆に司くんに差し出そうとするのです。


 こうなっては司くんも当たり前のようにごはんなんて食べられません。


 用意されるものに手をつけないで、置いておくようになりました。


 おなかがきゅうきゅうと鳴ってつらいですが、蟻さんのような子たちのつらさを思えば食べたいなんていえません。


 そんな司くんを見て、蟻さんのような子たちは、自分たちもおなかが空いているはずなのに、大慌てでお世話しようとするのです。


「女王さまだいじょうぶ?」


「おなかすかないの?」


「たべて、たべて」


 顔中いっぱいに悲しい気持ちを溢れさせて、手に手に食べ物を持ち寄ってきます。


 司くんが食べるまで安心しないみたいです。


 仕方なく、司くんは食べるしかありませんでした。


「よかった」


「よかった」


「よかった」


 心の底からほっとしたように、蟻さんのような子たちは満開の笑顔になりました。


 そのほっぺはだんだんと痩せてきているようでした。


     ※


 またべつのときはこんなことがありました。


 蟻さんのような子たちが作り続けた道に、いきなりドッと水が入り込んできたのです。


 司くんは知らないことですが、蟻の巣が細くてあちこち曲がりくねっているのは、こんな水を防ぐ意味もあるのです。


 それなのにまっすぐ広い道を作るのは、巣穴のなかにわざわざ水道管を通すようなものです。


 自分たちがしていることが、とても危ないことだと蟻さんのような子たちはよくわかっていました。


 いくら危なくても、女王さまが泣かないことのほうが大事だったのです。


 そんなに泣かせたくなかった女王さまなのに、今はぼろぼろと泣いていました。


「もういい! もういい!」


 それはとてもひどい様子でした。


 工事の最中に水が入り込んだので、仕事をしていた子たちはみんな流されてしまいました。


 泥んこになって、壁に押し付けられて、ぐったりしている子もいます。


 どうにかもっと下に水が行くことは食い止めたので、赤ちゃんたちの部屋はだいじょうぶですが、それ以外の食べ物部屋なんかはみんな台無しになってしまいました。


 水が引いたあとも、足元はぐしょぐしょですし、壁も濡れて掘りづらくなってしまいました。


 掘った壁が手にくっつくので、それを落とすだけでも大変です。


 それでも蟻さんのような子たちは、仕事をやめませんでした。


 倒れたまま起き上がれない子もいます。


 そんな子を抱きしめて、司くんは一生懸命に頼みます。


「もういいから! 帰れなくていいからもうやめて! 僕はずっとここにいるから!」


 おうちに帰りたい自分のわがままで、もしこの子たちが死んでしまうようなことがあれば、そのほうが何倍も悲しいと司くんは思いました。


 どうしてこの子たちはいうことを聞いてくれないんだろう。


 司くんが女王さまだというなら、蟻さんのような子たちは司くんの子供のようなものです。


 子供がおかあさんに何かしてあげたいよりも、おかあさんは子供のことが心配なのです。


 危ないことも、つらいことも、してほしくないのです。


 それが自分のためだなんて、ちっとも嬉しくないと思います。


 司くんは、悲しいのを通り越して、だんだん腹が立ってきました。


 怒鳴って、怒って、こんなことをやめさせないと、という気持ちになります。


 疲れきってぼうっとした目でそんな司くんを見上げ、蟻さんのような子はぼそっといいました。


「女王さま。ちゅーして」


 司くんは戸惑います。


 でも、なんだか、自分がこの子にしてあげられることはそれしかないようにも思えました。

 司くんは蟻さんのような子のおでこにちゅーをしてあげました。


「えへへへへ。まだがんばる」


 司くんの腕のなかから起き上がって、くたくたで、ふらふらなのに、蟻さんのような子がまた働こうとします。


 司くんはその手を引いて止めようとしました。


「だめだってば!」


 司くんが必死に止めるのに、ふらふらの蟻さんのような子は、司くんの手をはずしてそのまま他のみんなと一緒に働きだしました。


「でも、あとすこしだよ」


「あとすこし」


「あとすこし」


 蟻さんのような子たちは、合図のように、あとすこし、あとすこしと言って、壁を掘り進めます。


 あとすこし。


 あとすこし。


 そのうちボコンと、壁がどこかへ突き抜けました。


 暗かった道に、光が差し込みました。


 それは眩しくて眩しくて、痛いくらいに明るい光でした。


「おそとだ!」


「おそとだ!」


「女王さま! おひさまだよ!」


 どこにそんなに、と思うほど元気を取り戻した蟻さんたちが、いっぺんに駆け寄って、司くんをかつぎあげます。


 そして、おみこしのように、司くんはどんどん運ばれます。

 外へ。外へ。


「女王さま、またね!」


     ※


 司くんが目を覚ますと、そこはおうちのなかでした。


 蟻さんのような子たちのおうちではありません。


 おかあさんとおとうさんと司くんのおうちです。


 おなかには毛布がかけられていて、テレビからはなにか音が聞こえています。


 司くんは起き上がって、きょろきょろあたりを見回しました。


 蟻さんのような子たちの姿はどこにもありません。


 こんなにはっきり、あの子たちと触れ合った感触までおぼえているのに。


 司くんは、ジャージャーと何かを炒めるような音が聞こえるキッチンへ足を向けました。


 そこではおかあさんがお料理をしていました。


 司くんはおかあさんの足に抱きつきました。


 それは、蟻さんのような子たちが司くんにしたように。


 みんな夢だったはずなのに、なぜでしょう。


 司くんの目からは涙が溢れて止まりませんでした。


「こおら。お料理してるとき危ないでしょ? もうちょっとしたら出来るから待ってなさい」


「おかあさんごめんなさい」


 宿題も、あとかたづけも、手洗いも、はみがきも、ちゃんとします。


 心の中ではそう思ってるのに、口から出たのはごめんなさいだけでした。


「なあにいきなり? どんな悪いことしたの?」


「おかあさんごめんなさい」


「なによもー」


 おかあさんはちょっと困ったように、でもそのうち鼻歌を歌いながら、司くんのしたいようにさせてくれます。


 司くんはそのまま、声を殺して泣きました。


 たくさんたくさん泣きました。


     ※

     ※

     ※


 しばらく時間がたちました。


 このところ、司くんのおかあさんはごきげんです。


 司くんがとってもいい子になったからです。


 そうするとおかあさんもいつも優しくなりますので、司くんはおかあさんのことが大好きになりました。


 けれども、どうしてでしょう。


 司くんはいまでも、庭で蟻さんたちを眺めるのも大好きなのです。


 とてもいい子になった司くんがヘソを曲げないようにと思ってか、もうおかあさんも蟻さんを見ていても何もいわなくなりました。


 おかあさんは知りませんが、またあの蟻さんのような子たちのおうちに行きたいとまで司くんは思うのです。


 今日も司くんは、庭で蟻さんたちの行列を眺めていました。


 いつもどおりの蟻さんの、いつもどおりの食べ物を運ぶ行列です。


 でも今日はいつもと違うことが起こりました。


 ごはんを運んでいた蟻さんたちが、いっせいに立ち止まって、司くんのほうを向きました。


 そしてみんなで、両手を振りはじめたのです。


 また会えたね、っていうように。


 司くんは目をまんまるにして驚きます。


 蟻さんの世界へは、またすぐに行けるのかもしれませんね。

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