「暗殺者」
彼はつい今し方討ち取ったトロルキングの首を小脇に抱え、森からの帰途に着こうとしていた。
背が高く鍛えこまれた全身を黒い鎧で覆い、黒い兜を被っている。
地道な功績の積み重ねで、その名は今は広く知られるようになった。担いでいる代名詞でもある黒塗りの剣と合わさり、彼は黒剣のオザードと呼ばれていた。
だが、オザードは退屈していた。功績を重ね続け名声を広げる一方、強くなり過ぎた己の身体と、鋭く研ぎ澄まされた明晰な勘というべき思考とが、既に彼を敵無しの状態としたのだ。いや、自分が大陸最強だとは思わなかった。自分より上をいく戦士達を彼は知っている。だが、今更トロルキングの討伐などは彼にとっては朝飯前だった。
剣の血を拭き取りながら、彼は昔を思い出していた。まだまだ黒剣のオザードの名が殆ど知られていない時代に起こった、大陸を二分する闇の一族、ヴァンパイアとの戦争のことをだ。あの時の己はまだまだ未熟だった。だからこそ、戦いに熱くなれた。死と隣り合わせのゾクゾクする感覚が彼は気に入っていた。
しかし最近はそれがない。凶暴な魔物を相手にしても物足りなかった。
「いや」
と、彼は頭を振った。
一つだけ興味のある噂があった。
最近のことだが、冒険者を狙う凄腕の暗殺者がいるらしいとのことだ。かなり名の知れた冒険者もその歯牙に掛かっている。
オザードは心待ちにしていた。己の順番が訪れるのを。
2
町には夜の帳が降りていた。
オザードは満たされぬ己の思いをごまかす様に、毎度の如く浴びる様に酒を飲んだ。しかし、酔えなかった。
居酒屋を後にし、彼は夜も深くなった大通りを行った。そして路地裏へ入った。
高い建物と建物が迫るような細い道だった。そこで彼は快くまで小便をした。
「おう、どうして殺らないんだ?」
そうして用事を済ませると、オザードは壁にかけていた黒剣を取り闇へ問いかけた。
程なくして真上から影が落ちてきた。
その一撃を悠然と避ける。
表面上は静かだが、その一撃には迷いのない殺気が籠っているのを感じた。
月明かりが向かってくる白刃に反射する。鋭い風の音色と共に刃は流れる様に三度ともこちらの喉元を狙うが、オザードは研ぎ澄まされた観察眼と勘で全てを避けて見せた。
相手が攻撃の手を止める。ようやく相手の姿を堂々と見ることができる。こんな戦い方を仕掛けてくる相手ならばその素性が何者かは察しがついた。
黒装束に黒頭巾を被り、口元も布で覆っていた。
殆ど予想通りの姿だった。しかし、彼は自分の気持ちが急激に白けてゆくのを感じていた。
「お前がお騒がせの暗殺者だな?」
オザードはそう声を投げかけたが、相手は佇立したまま何も答えなかった。しかし、相手からは殺気が消えていなかった。
その様を見てオザードはフンと鼻を鳴らした。何ら噂程ではない。まだまだ暗殺者としてはヒヨッコのようだ。
「どうした、打ち込んで来ないのか?」
挑発するようにそう言うと相手は向かってきた。ほぼ目にも止まらぬ動きだけは本物だった。しかし凶刃に宿った殺気が易々とその軌道を予測させる。
オザードは手を伸ばし相手の腕を掴んで締め上げた。
細い腕だった。相手は抵抗し素早く武器を持ち替え、刃を突き立てようとしたので、オザードは相手を放り捨てた。
暗殺者は石畳に倒れそうなところを回転してこちらに向き直った。
「確かに動きは良い。だが、一流には程遠いな。何が悪いか分かるか? そんなに殺る気満々なのが逆に悪いのさ。俺に会えたのがそんなに嬉しいか?」
「……おじいちゃんの仇!」
相手が言った。女の声だとオザードは思った。
相手の姿が消えた。いや、目の前にいた。突き出された刃をオザードは寸前で避け、その腹に膝蹴りを入れた。
暗殺者は呻いて無様に仰向けに倒れた。
その喉元に剣の切っ先を突き付け、相手を見下ろしてオザードは言った。
「そうかい。俺もあっちこっちで暴れてるからな、恨みの一つや二つぐらいは知らないうちに買ってるかもしれねぇな」
このまま暗殺者を捕縛し、冒険者ギルドに届ければ多大な報酬が手に入るだろう。しかし、オザードはそうしなかった。
「今は退け。まだお前は俺を斃せやしない」
暗殺者は肩を震わせ、黒頭巾から覗く憎悪に満ちた眼でこちらを睨みながら、ゆっくりと起き上がり、飛翔した。そして建物の壁を蹴り向かいの屋根へと姿を消していった。
手に残っている細腕の感覚から、オザードはあることを思い出していた。
もう十年前にはなるだろうか。魔物を祖父と慕う少女の前で、その魔物の首を刎ねたのだ。そのことに関して何ら感慨に耽ることはない。ギルドの依頼で止む無く、というわけでもない。
だが、一つだけ思い出したことがあった。激昂したあの時の少女に対して、一度は腕を締め上げて放り捨て、二度目は腹に膝蹴りを喰らわせたところだ。先程も同じことをした。
指に残るどこか懐かしいような感覚が告げる。そうか、あの時の小娘だったか。
殺気の籠った白刃を思い出す。それは純粋な憎悪に覆われていた。
何年、いや、何十年掛かるかはわからない。だが、もう女性となったあの時の少女は、これから先もこの首を取るためだけに、憎しみを燃やし腕を磨いて、そしてまたいつか現れるだろう。そのために他人の命が奪われてゆくことなど関係ない。
オザードにはただその時だけが待ち遠しかった。