正義の時間
キキーー!!!
「きゃあ!」
ここはとある国の繁華街。
人々の喧騒やネオンが時間を忘れさせてくれる場所。
道路では車のクラクションが飛び交い野次が飛ぶ。
静けさとは間反対に位置する、ぼんやりと霞がかかったような世界。
いつものように誰かが泣き、それを誰かが笑う。
人は二種類に分けることができると言うが、騙される側の人間がこの世界では悪いとされるのだろう。
正義とはどこに消えたのか…
「返してください!」
若い女の声が喧騒を割る。
二台の車が道路に停められ、車から出てきた女が、男に何かを訴えている。
どうやら車同士のトラブルのようだ。
「自分から事故をして起きながらそりゃねえよ」
如何にもといったようなスキンヘッドの体格のいい男が、女の腕から取り上げたであろうバッグを掲げている。
「あなたが信号が赤なのに飛び出してきたんじゃないですか…!」
女の必死の訴えも男は無視し、
「あーあ、俺の愛車が凹んでるじゃねえか、この弁償代を貰おうってだけなのに何だその言い草はよー」
そう言いながら男はバッグの中から金品を探し中身をばら撒いた。
その中に厚手の封筒を見つけると、中を確認し下品な笑みを女に向けた。
男の望み通りの物が中にあったのだろう。
「本当はな、身元を割り出して搾り取るとこまで搾り取ってやろうと思ったが、今回はこれで勘弁してやろう。今回はな」
「返してください!それは母が今後手術するための必要費用として使う物です!
それがなければ母は生きることが困難な状況なのです!
ひとり親で長年苦労を強いた母が、体の不調を訴えず働き続けたことが祟ってしまい、もう時間が無いのです!
あと会社の確定申告の漏れもあるのです!」
女の悲痛な叫びにも男は一切表情が変わらない。
最初から男は女の意見などどうでも良いのだ。
不当な慰謝料を要求するための、小遣い感覚での行いなのだろう。
「だったら体を売ってこい」
「えっ…?」
「だったらこの額に見合うだけの金を用意してこい。それができなきゃお前をこのまま返すわけにはいかないな」
「そんな…無茶苦茶な…」
男は喋る暇を与えずまくし立てる。
「できなきゃこれを返すわけにはいかねえな!いいか?明後日までに準備してこい!
なにがなんでも金を作って持ってこい!
母親を死なせたく無いんだろ?ん?」
明日は何か用事でもあるのだろうか。筋の浮いた顔を近づけ、男は女に選択肢を与えようとしない。
一人では無理だと判断した女は、遠巻きに見ていた野次に顔を向け助けを請うた。
「どなたか助けてください…!何でもお礼は致します!」
顔を向けられた人々は、興味が無さそうにその場を去って行く。
会社員は二軒目の店の相談を始め、高校生の集団は電子機器を掲げ写真を撮っている。
若い男性はイヤホンを耳にはめ離れ、バンドマン風の女性は最初から何もなかったかのように鼻歌まじりで通り過ぎてゆく。
女の叫びは人にかき消された。スカートが泥に汚れ、ぐったりと項垂れた女に男の影がかかる。
「お前を助けるのは俺だ。そしてお礼は何でもと言ったな。これで万事解決だ」
封筒を掲げながら男は車の運転席に向かっていく。
女は顔を上げる気力も無く、その場から動こうとしない。
「この世界は弱肉強食だ。弱い奴が悪い。
お前が弱者である以上、何に置いても俺が正しい。
バラモン教でいうバラモンだ」
男はそう言いながら電子機器で誰かと連絡を繋ぐ。
これから遊びにでもいくのだろう。
この街ではありふれた光景、ありふれた日常。
誰かが欠伸をするように誰かを傷つける。
自分が傷つかぬよう、厄介ごとには誰も首を突っ込まない。
多くがそうであるなら、それは多くにとって正しさとしてまかり通ってしまうのだろう。
そんな世界。
「待て」
男が運転席でキーを回そうとする瞬間、声が響いた。
その声は繁華街の喧騒の中であっても、よく通る声だった。
「はぁ?」
エンジンをかけ損ねた男が間抜けな声を上げ、人影を探す。
「誰かが願えば私がいる。誰かが呼べば私が来る」
「あっっ‼︎」
男は声の主を見つけ、驚愕の表情を浮かべる。
男の目線の先は、車の前でもビルの上でも無く、バックミラーにあった。
夜のネオン街の光を静かに吸い込む長髪の髪。
黒のようにも見えるが、鈍い銀のような髪。
妖しく艶やかな瞳が運転席の男を冷たく見据えていた。
何より目を引くのが顔立ちであった。
透き通るような肌に、すっきりとした鼻筋、
淡い色の薄い唇も合間って、中世的で芸術品のような整った造形。
女性で無いと判断できるのがその体格であった。
服の上からでもわかる逞しい胸板、太い幹のような首筋、車内を狭く感じさせる威圧感。
ふてぶてしく後部座席に座ったその態度が男のそれと判断させる。
一瞬運転席の男は見惚れて動くことが出来なかった。
上下はラフなジーンズにTシャツなのに、強い引力が働いたかのように目を離せない程の美しさに出会ったのは、生まれて初めての体験だったのだ。
「お、お前は…一体…」
男が懸命に喉から声を絞り出す。
後部席の男は少し間を置いて、
「ソバシ…。正義の形だ」
瞬間、物凄い轟音とガラスの破片と共に、運転席の男が座席ごとフロントガラスに上から叩きつけられていた。
(何が起こったか分からない皆に説明しよう!)
後部席の男が言葉を言い終えた瞬間、座る両足を座席ごと後ろから首を締め、天井をブチ抜く程の筋力で男を車外に脚で持ち上げ、宙に浮いた状態から信じられない背筋のバネで男をフロントガラスに叩きつけたのだ。
座席の固定を外す程の脚の筋力は、一瞬で男を失神させ、想像を絶する回転により三半規管を麻痺させた。
受け身知らない男は、失神からのフロントガラスへの強打によって、それはもう心身共に再起不能状態だろう。
のちの目撃談によりプロレス界を震撼させるフィニッシュムーブ、「雪崩式フランケンシュタイナーツイスト。座席を添えて」の誕生である。
こちらはまた別のお話で。
座席ごとフロントガラスに叩きつけられた男はピクリとも動かない。
「残念だったな。私がバラモンだ」
そう言うと、一部始終を呆気に取られて見ていた女の前に、ソバシと名乗る男が静かに歩み寄る。
「今日は災難だったな」
よく通る声で男が呟いた。
目線は女をつまらなさそうに見ている。
「あ、あなたは一体…」
女は立ち上がることも出来ず、男を見上げている。
「お前が私を呼んだ。だから現れた。それだけだ」
男は感情のこもらない声でそう言った。
女は意味がわかないと言ったような表情で見上げるだけしか出来なかった。
男はこう続けた。
「世界にはまず祈りがあった。そこに命が生まれ、命は広がった。
広がる命は形を作る。しかしどんな環境であっても、完全なる球は完成しない。惑星のように。
永遠を繰り返しながら、命は球を作ろうとする。完成しないことを知っていても。
私は、そのはみ出た凹凸が球になりたいという願いだ」
そう言って男の輪郭がぼやけていく。
違う、男だけでは無く周りの景色が溶けるように輪郭を崩していく。
景色が溶けるように形を変え、繁華街のネオンがぼんやり広がり始める。
女は、自分の意識が遠のいているんだなと気づいた時には地面に倒れ始めていた。
薄れゆく意識の中で、一つ聞こえた言葉があった。
「精進せぇよ」
その言葉は優しく、どこか懐かしい響きを持っていた。
女は心地よい響きの中で意識を失っていく…
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「はっ…!」
とあるオフィス街の車内で、若い女はハンドルから顔を上げた。
どうやら会社から帰宅しようとして車に乗り込んだ矢先、居眠りをしてしまったようだ。
「もう…」
車内で寝落ちするなんて行儀が悪い。
何より、ハンドルの後が付いた顔をバックミラーで確認し赤面した。
今から繁華街の近くにある病院に、母親の入院の手続きをしなければいけないと気づき、いそいでエンジンをかけた。
オフィス街を抜けて繁華街を横目に、女はいつか見た夢を思い出そうとしていた。
ーこの既視感の微妙なくすぐったさは何だっけー
そんなことを考えながら運転している矢先、車の列が目に入った。
どうやら先は渋滞しているようだ。
今な時に限って…と、女は顔を顰めた。
先ほどの既視感など、もう吹き飛んでいた。
一刻も早く病院で手続きを済ませなければ。それで頭が一杯になっていた。
ノロノロと進むこと十数分、数台のパトカーのサイレンに照らされた、事故を起こしたであろう場所を横切った。
車同士の衝突事故では無く、一台の車で事故を起こしたようだ。
「やぁねぇ、このラッシュ時に事故だなんて」
事故車はフロントガラスが大きく割れており、天井が何処かに吹き飛んでいた。
運転していたであろう人は、もう搬送された後らしく見当たらなかった。
なぜか運転席のシートが、事故車の横に寂しそうに転がっていた。
まるで運転席から座席だけ吹き飛んで、フロントガラスに直撃したような滑稽な絵だった。
運転手は無事だといいけど…
そんなことを考えながら、女は加速を始めた車に後続した。
すると、後部座席に人の気配を感じ、女は意識的にバックミラーを確認した。
誰かに見られていたような気がしたのだ。
ここ最近残業も続き、疲れてしまっているのだろうか。肌も荒れ始めているし…
会社の確定申告の漏れも訂正しなければいけない。
家に帰ったら暖かいお風呂に入ろう。
柔らかいベッドに包まれて深い眠りにつこう。
彼氏はいなくとも、猫に朝を起こしてもらえる毎日の小さな幸せを想像し、頬が緩んだ。
数年後。
女の母親の手術は無事成功し、退院の後に実家に戻り仲良く暮らすことができた。
女は28歳の時、不正を働き続け内部告発により倒産した会社から転職し、転職先の年上の体育会系の彼氏と意気投合し、一年半の交際を経て彼氏のプロポーズを受け入れた。
女は31歳の時に男の子を授かり、両親の愛を一身に受け健やかに育った。
その男の子は成長し、父親譲りの体格の良さと運動神経で、17歳の時にラグビーからプロレスに転身、19歳の若さでプロレス界にその名前を広めた。
そのプロレス界で一躍注目を集め、地位を確固たるものにした技が、ツイストを加えるフランケンシュタイナーであった。
この技は、プロレス界に転身した直後の、酒場で聞いたジョーク混じりの目撃談を参考にして考えたと言われている。
ファイトマネーで、引退した後も一家は末長く幸せにくらしたというめっぽう不確かな噂。
そうして世界は回りつづける。
そこに正義はあったりなかったり。
「キャプテンソバシは眠らない」第一部完
読んでいただいてありがとうございます。
お見苦しい部分が多いのは広い心で堪えてください…
しょうもない話ですが、時間がある時に書かせていただきます。
読者さんにまたどこかでお会いできますように。かしこ