『張順』
漢の大将軍衛青が驃騎将軍霍去病を伴い、北方の脅威であった匈奴を討たんとして雁門を進発したのは元狩三年のことである。衛青に与えられた兵は十万余とも言われ、甲卒の男子は皆徴発され、農村は等しく荒廃していた。
衛青の前軍に配置された部隊の中に、張順という若者がいた。親は既に亡く、自分の生まれすらも覚えていない。幼少の頃から邯鄲の街で小間使い等をして生きながらえ、その日を生きることすら難儀する有様であったので、徴発を待たずして軍に志願し、雁門の砦に配属されて一年ばかりの時が経っていた。雁門周辺には匈奴の部隊が度々現れ、集落を略奪していくので、漢の将軍も部隊を出して匈奴と戦った。張順は槍すらもろくに扱えず、へっぴり腰で匈奴の騎馬隊を迎撃するのであったが、敵の兵が迫ると恐れをなして地面に蹲ってしまうのである。何度戦ってもそのような有様であったので、隊長は張順を馬に乗せ、姿勢を低くして槍を腰に構え、ただ敵の部隊の正面を突っ切って帰ってくるだけの仕事を与えた。張順は死に物狂いで敵中を突っ切り、一度として死んで帰ってくることはなかった。漸く仕事らしい仕事をこなせるようになった張順であったが、未だに一人の敵兵も討ち取っていない自分に不満があった。いつか自分も、匈奴の屈強な兵士を討ち取ってやりたいと、張順は思っていた。
匈奴への進攻に際して、徴発された兵卒が砦に集められ、新たな軍が編成された。張順はその時に、衛青将軍率いる本隊の前軍に配置されたのである。張順は、そこで李苞という男に出会った。李苞は頑健な身体を持ち、馬術に長け、槍を使わせても無双であった。雁門を進発してから、匈奴の小部隊と何度も小競り合いを演じていたのだが、李苞はその度に二、三の首級を持ち帰った。張順と李苞は似ても似つかぬ者であったが、ただ一つ、よく似ているものがあった。張順と李苞は、声がよく似ているのである。部隊長が二人を呼ぶと、二人揃って返事をする。どちらが返事をしているのか判らないと言って、部隊長は二人をからかった。張順と李苞はすぐに打ち解け、仲良くなった。
二人は夜営の火を囲んで、お互いのことを話した。併し、張順はすぐに話すことがなくなってしまったので、李苞の話に耳を傾けることが多くなった。李苞は隴西の北地、渓谷の山村の生まれで、父は亡く、母と二人暮らしであった。裕福ではないものの、李苞は幼い頃より槍術や馬術を独学で身に付けた。奴隷の身分から大将軍へと上り詰めた衛青将軍のように、いつか功を立てて出世し、自分も名のある将軍になりたいと思っていたのである。併し、軍に志願しようとすると、母は反対し頑として譲ろうとしないので、李苞は今まで山村で農業に従事していたのであったが、徴発の令が届くと流石に母も反対することはできないので、これ幸いとして出征して来たのである。李苞は意気軒昂として戦場へと赴き、実力も備わっていた。張順は、李苞の望みが叶うことも、そう遠くないことだと思った。李苞はその他にも、家の前には桃の木があるだの、春先には濃い霧が出るだのと話した。夜営地の空には星が燦々と瞬き、小さな光が脈動して見えた。あの星の光は、いつか太陽ほどの大きさになるのかもしれないと張順は思い、目を閉じて眠りに落ちた。
衛青将軍の大軍は、雁門より北に二百余里の地で匈奴の主力部隊と決戦を行い、包囲作戦が奏功して大いに討ち破った。匈奴の単于は数百騎を伴い西北に遁走したが、漢軍の追撃は激烈を極めた。単于は辛くも幸いにして逃げ仰せることができたのだが、匈奴の被害は甚大であり、漢に再び立ち向かう余力は微塵も残されていなかった。衛青将軍は、かねてからの脅威であった匈奴を討ち破った壮士を引き連れ、揚々として凱旋したのである。だが、その壮士の中に、李苞は含まれていなかった。李苞は単于を追撃する際、単于に今一歩の距離まで迫ったのだが、敵兵の矢を浴びて馬上より投げ出され、屍を大地へと晒したのであった。
戦が終わり、徴役が解かれ、兵は郷里へと帰っていった。張順も軍を辞して、身一つとなって長安の街を出た。張順に郷里と言える場所はなかった。邯鄲の街が郷里と言えば郷里であったが、邯鄲の街にあまり良い印象はなかったので、敢えて帰ろうとは思わなかった。
張順は行くあてもなく、西へと歩を向けた。渭河に行き着いた。渭河に沿って進むと、やがて隴西の地へ出た。張順は、ふと李苞のことを思い出した。李苞が死んだ今、隴西北地の山村には、李苞の母親が残されているはずであった。張順は、山村を目指して歩き出した。
季節は春を迎えており、李苞の言った通り、山村には霧がかかっていた。まだ薄い霧であったので、視界はそれほど遮られてはいかなったが、次第に濃くなっていくだろうと思われた。李苞の家を探すのは容易かった。桃の木は、少し遅咲きとも思われる花を湛えていた。
張順が家の中を覗き込むと、李苞の母親と思われる老人が一人、軒先に座って何かしらの作業をしている姿を見付けた。何をしているのかは解らなかったが、時折手を休めては、再び同じ作業を繰り返していた。ただ、老人は手を休めるのとは無関係に、思い出したように溜め息をついた。張順は、それが息子に対するものではないかと思った。張順は、どうにも居ても立ってもいられず、一計を案じることにした。
霧は濃くなり、視界は遠目が全く利かなくなった。張順は土塀に隠れるようにして、その土塀越しに、老人に声を掛けた。
「おっかあ、おっかあ、俺だ!」
張順が声を出すと、老人は驚いたようであったが、それが聞き覚えのあるものだと分かった途端に、声に喜色を浮かべた。
「この声は李苞なのかい?」
「ああ、俺だ、李苞だ」
「李苞、生きていたのだね、よかった」
老人の声には安堵があった。
「李苞よ、わたしに顔を見せておくれ」
「それはできない」
「どうしてだい?」
「俺は今、衛青将軍様の下で働いているんだ。軍が丁度近くを通りかかったから抜け出して来たんだが、すぐに帰らなければならない」
「それでも顔くらい見せてくれたっていいじゃないか」
「それはできないんだ。もし、おっかあの顔を見てしまったら、俺は軍に帰りたくないと思ってしまうかもしれない」
「李苞……」
老人は泣いているようであった。張順には、それが会えない悲しみとも、息子が生きていてくれた喜びとも、どちらともに思えた。
「おっかあは俺の夢を知っているだろう?」
「ああ、知っているとも。大将軍様のようになりたいんだろう?」
「そうだ、俺は大将軍様のようになるんだ。匈奴との戦で、俺は手柄を立てたんだ。それが大将軍様に認められて、俺も今では二十五人の侍大将だ」
「そうなのかい? そうだとしたら、とても誇らしいことだね」
老人は、心の底から息子の栄誉を称えていた。張順は、虚偽の栄誉が人を喜ばせることを知った。
「俺はもっと手柄を立てたい。手柄を立てて、名のある将軍になるんだ。名のある将軍になったら、おっかあを迎えに行くつもりだ。だから待っていてくれろ。俺が将軍になるまで待っていてくれろ」
「李苞……わたしは止めはしないよ。息子が夢を叶えようとしている時に、止める親がどこにいるのかね? さあ、お行きなさい。行って手柄を立てて、立派な将軍様になるんだよ」
「ああ、ありがとう、おっかあ……俺はもう行くから、おっかあも元気でいてくれろ」
そう言って張順は、土塀を離れ、濃い霧の中を走り去った。周囲は霧が立ち込めていたが、張順の心の内は晴々としていた。一人の敵兵すら討ち取れない男であっても、一人の老人の憂いを取り払うことはできるのだ。併し、一方で、山村を走り抜ける間だけ、張順は匈奴の屈強な兵士を何人も討ち取った一人の若者であった。
隴西の山村を抜けた張順は、何の迷いもなく涼州へと行き、軍に志願した。漢が敦煌西域まで勢力を拡げようかという時代のことである。張順のその後については、誰も知らない。いかなる歴史書にも、張順という一人の兵卒の名前は見当たらないからである。