夢人
手を伸ばして、嗚呼、願う。何かを掴む事を。
手を伸ばして、嗚呼、気付く。何も掴めないのだと。
手を伸ばして、嗚呼、確認する。伸ばした先には虚空しかない事を。
手を伸ばして、嗚呼、気付く。何も掴めないのだと。
手を伸ばして、嗚呼、思い知る。僕の周りには何も無いのだと。
手を伸ばして、嗚呼、気付く。何も掴めないのだと。
僕の世界には何がある?
僕の世界には何も無い?
違う。僕の世界には何かある筈なんだ。
くだらないものであったって、つまらないものであったって、
そこには何かがある筈なんだ。
そう、思い込んでいるだけ?
実際には虚無が広がっているだけ?
そう、そうかもしれない。
でも、
僕は、思う。
完全にそこに〝ある〟と信じる事が出来るのならば、
それは、実際に〝ある〟のと何が違う?
そう、僕にとってそこには確かに何かが〝ある〟んだ。
他人にとっては嘘の存在でも、
何にも無くっても、
僕にとっては確かに〝ある〟んだ。
本当と嘘との違いなんて曖昧だろう?
(本当と嘘との違いなんて僕にはもうわからない。)
嘘でも本当だと思い込めば、それは本当になるんだ。
だから、
僕は、
手を伸ばして、嗚呼、気付く。何も掴めないのだと。
手を伸ばして、嗚呼、描く。何かを掴んでいる自分を。
(手を伸ばして、嗚呼、気付く。何も掴めないのだと。)
手を伸ばして、嗚呼、思い込む。自分は何かを掴んでいるのだと。
(手を伸ばして、嗚呼、)
そして、
手を伸ばして、嗚呼、安心する。何かを掴むことが出来たから。
そうして僕は生きているのだと思い込む。
他の人から見たら嘘の事でも本人が本当だと信じているのならば、それはその人の世界にとっての真実となります。
実際に本当か嘘か、そんな事は関係ありません。問題はその人が本当だと思っているのか嘘だと思っているのかです。
本当だと思えばその人の世界にとっては本当に、嘘だと思えばその人の世界にとっては嘘になるのでしょう。
物事は主観的にしか見る事が出来ない。
私はそう思います。