『七千八百十二億五千万分の一の奇跡』
『七千八百十二億五千万分の一の奇跡』
日々、数字を追う生活ばかりをしていると、何気ない顔をしていつも同じように佇む、そんな月や海の懐の深さに絆されてしまいそうになる。
もともと計算が得意だったわたしは、工学系の大学を出てすぐに、その分野の研究職に就くことができていた。
「女だてらに~」と、よく嫌味も言われてきたけれど、その『女の幸せ』も……、どうやら、もうまもなく手中におさまりそうな予感がひしひし。
わたしは、独特な空気をはらんだ夜の潮風に頬をそっと撫でられ、自身が紅潮していたことに初めて気づかされた。
しばらく沖合を眺めていた彼が、スーツのポケットから、蝶番のついた青紫色の小さな箱を取り出し、ゆっくりとわたしに振り向く。
彼の横顔を、月光が白く照らし出していた。
「──よく言うだろ、二人の出逢いは『六十七億分の一』の奇跡だって。……でも、僕は違うと思う。六十七億分の一のキミと、六十七億分の一の僕が出逢ったんだ。──つまり、僕らの出逢いは『四千四百八十九京分の一』の奇跡だ」
──なるほど。六十七億の二乗、と言いたいらしい。彼は、続ける。
「故に、僕らは既にとてつもないほどの奇跡を引き起こした。……そしてさらに、もう一つ。──僕は天文学的な奇跡をキミに贈りたい」
「……奇跡を、わたしに?」
「サイコロを二回振ると、二回とも『六』が出る確率は、三十六分の一だ。それと同様に、五十音のある特定の一つの音の後に、また別の特定の音を繋げようとすると、その言葉が生まれる確率は二千五百分の一になる」
ようするに、コンピューターがランダムに音を二つピックアップして、何でもいいけれど、例えば『すし』と弾き出される確率が──、という話らしい。
……べつに、お腹が空いてるわけじゃない。
「偶然に期待するとしたら、とてもじゃないが待っていられない、そんな『七千八百十二億五千万分の一』の奇跡。──その言葉を、キミに贈るよ」
つい、と差し出した毛氈の小箱を、彼の指が──そっと開いた。
「*******」
その言葉に、瞬間、潮騒が止んだ。
──やっぱり! やっぱりそこには『アレ』が納まっていた。
ということは……、やはり、これは『ソレ』と捉えて間違いない、ってことか。
「…………ふ、ふふふっ」
「なっ!? なんだよ……笑ってるのか」
いけない、いけない。可笑し過ぎて思わず笑っちゃった。
わたしは「おほん」と胸を張ると、おどけて、こう告げた。
「六十点!」
「……は? ろ、ろろ、ろくじゅってん?」
ぽっか~ん、と大口で、締まらない彼。
うん、やっぱりこっちの方が彼らしい。
「そ! 努力賞、ってところね。──まずね、七千八百十二億五千万分の一って、五十音×七文字で、五十の七乗ってことでしょ? でも『五十音』って五十文字じゃないから。『あ』から『ん』までを数えたとしても四十六文字。──つまり、四十六の七乗で……四千三百五十八億一千七百六十五万七千二百十六。さらにもっと言えば『ば』や『ぱ』の濁音や、小さい『っ』や『ゎ』なんかも合わせると、全部で……八十一音。だから……えっと」
わたしは、アルタイルを数秒間ぼんやり眺めて、答えを導き出す。
「──二十二兆八千七百六十七億九千二百四十五万四千九百六十一!」
「はぁ、なに? にじゅうにちょう……」
実は数字に弱い、そんな彼は何やらぶつぶつ言っているが放っておいて、わたしはぶっきらぼうに手を突き出した。
「ねぇ、……それ、つけてよ」
「えっ!? ──ってことは!」
いやっほぉぉおーい! そう馬鹿みたいにはしゃぐ彼。……こらこら、走り回るな!
「よし! メシ行こう、メシ! なにか食いたいモンある?」
彼の質問に即答するわたし。
「お寿司! 回らないやつ!」
じゃあ、車まで競走だ! ……などと彼が言い出す前に、わたしは彼の右手をぎゅっと握った。
静かに照らす月明かりはわたしの指にも跳ねて、五十八面体のそれは本当に綺麗で、……まるで、まるで月のしずくのようだった──。