第9話『冷たい繭と、初恋の自覚』
本日は連投ですので、ご注意ください。
梅雨入り前の湿った熱気が、校舎全体を包み込んでいる。
図書室の窓は開け放たれているが、入ってくるのは生温かい風ばかりだ。
「……暑い……」
僕はカウンターに突っ伏して、ぐったりとしていた。
額には汗が滲み、制服のシャツが背中に張り付く。
『警告。視覚情報に熱による陽炎状のノイズを確認。本体の翅の動作抵抗も増大しています。不快指数が極めて高い環境であると予測します』
肩に乗ったパピエも、暑さのせいか動きが鈍い。
彼女の眼は、強い日差しは平気でも、陽炎が立つような湿気と熱は、その精密な視界を狂わせてしまうらしい。
「あらあら、ノア君。まいっているわねぇ」
涼しい顔で笑っているのは、当番のミリア先輩だ。
彼女はきっちりと制服を着込み、その上から長袖の白衣まで羽織っているというのに、暑さを微塵も感じさせない爽やかさを保っている。
その手には、愛用のアンティーク調のブリキジョウロが握られていた。
「先輩は涼しそうですね……。その格好で暑くないんですか?」
「ふふ。私には専属の『空調係』がいるから」
ミリア先輩がジョウロをトントンと叩くと、注ぎ口から「ぷるん」とした水色の物体が顔を出した。
スライム状の水精霊、スイだ。
スイはぷるぷると震えながら、周囲の熱気を吸い取り、ひんやりとした冷気を漂わせている。
決して水滴は飛ばさない。
図書室の本を湿気らせないよう、完璧にコントロールされた「乾燥した冷気」だ。
「いいなぁ……。僕も水属性の使い魔と契約すればよかった」
「スイちゃんは気難しいから、私以外には冷たくしてくれないのよ? ……他所の人にするのは物理的に冷たくすることだけ」
スイは僕の方を見て、ベーッと舌を出すように形を変えたあと、ビョーンと体を伸ばして僕の頬を「ペチッ」と叩いた。
「冷たっ!?」
水ではない。まるで氷の塊で叩かれたような衝撃と冷たさだった。
『敵対行動を確認。……しかし、マスターの顔面の熱が引き、呼吸数が正常値に接近しました。感謝すべきか攻撃すべきか、論理が競合しています』
パピエの翅には、氷攻めに遭って身を縮こまらせる顔文字が浮かんでいる。
( >_< )
図書室は平和だが、この暑さだけはどうにもならなかった。
***
そんな茹だるような昼下がり。
書架の奥から、熱っぽい視線が注がれていた。
リナ・キャンディポップだ。
「……ノア君、マジで暑そうだし」
彼女は本棚の影に隠れ、両手であるものを強く握りしめていた。
それは、さっき購買で買ってきたばかりの、よく冷えた果実水のボトルだ。
ボトルの表面には結露が浮かび、リナの指先を濡らしている。
(これ、買ってはみたけど……。やっぱ、いきなり渡すの変かな?)
リナの思考は空回りしていた。
先日は本を取ってあげて、つい先日は薬をあげた。
少しずつ距離は縮まっているはずなのに、次の一歩が踏み出せない。
(迷惑がられたらどうしよう。ぬるくなっちゃう前に渡さなきゃなのに……)
もどかしさが募る。
彼女の胸の中で、「助けたい」という善意が、いつしか深く重い情念へと変質し始めていた。
「ねえモコ……。なんとかなんないの?」
リナが無意識に呟いた、その瞬間。 頭上の蜘蛛――モコが、カッと複数の瞳を光らせた。
主人の強烈な独占欲を受理し、アメジスト色の体毛が逆立つ。
***
「――うう、限界だ。保健室で氷枕を借りてこようかな」
僕がふらりと立ち上がった時だった。
『――緊急警報!!』
ロジが絶叫したのと同時に、視界が真っ暗に染まった。
何かが、爆発的な勢いで僕に巻き付いたのだ。
「えっ!?」
抵抗する間もなかった。
大量の糸が、天井から、床から、四方八方から押し寄せ、僕の体をグルグル巻きにしていく。
その糸は、光を吸い込むように深い紫色をしており、一瞬にして僕の視界を閉ざした。
『マスター!! 捕捉不能! 高密度の繊維がマスターを物理的に遮断しました!』
外でロジが叫んでいるのが聞こえる。
僕は一瞬にして、巨大な紫色の繭の中に閉じ込められてしまったのだ。
「な、なにこれ……!?」
暗闇の中で身構える。
糸で巻かれたということは、次は毒牙が来るのか。それとも消化液か。
僕は恐怖に身を縮めた。
――けれど。
「……あれ?」
痛くない。苦しくもない。それどころか……。
「……すっごく、涼しい」
繭の内側は、ひんやりとした静寂に満たされていた。
この分厚い糸は、外の熱気や騒音、そして光さえも完全にシャットアウトしている。
まるで、深い森の洞窟の奥深くに守られているような、絶対的な安心感と心地よさがあった。
『マスター! 応答してください!』
「パピエ、ロジ!」
僕は繭の中から声を張り上げた。
「大丈夫だ! ……これ、ただの避暑地だよ!」
***
繭の外では、リナが顔面蒼白で立ち尽くしていた。
図書室の中央に、人間大の紫色の塊が鎮座している。
その上には、モコが「どうだ」と言わんばかりに仁王立ちし、威嚇のポーズを取っていた。
『シャアアアッ!』
「ち、違う……! 違うし! あたしは、そんなこと頼んでない!」
リナは半泣きで叫んだ。
手にはまだ、渡せなかったボトルが握りしめられている。
ミリア先輩が、ジョウロにいたスイを鋭い氷の刃に変形させながら近づいてくる。
「あらあら……。モコちゃん、少し愛が重すぎるわ。ノア君を出しなさい」
モコは引かない。
主人の「独り占めしたい」「二人だけの世界に隠したい」という願いを、最も効率的な方法で叶えたのだから。
「やめてモコ! 離してよ!」
リナがモコの脚を掴もうとするが、モコは頑として動かない。
その時、繭の中からノアの声が響いた。
『リナさん、大丈夫だよ! ……モコちゃんを怒らないであげて!』
「え……?」
『この繭、すごく涼しいんだ。……リナさんが「涼しくしてあげたい」って思ってくれたから、モコちゃんが魔法で部屋を作ってくれたんだよね?』
ノアの声は、恐怖に震えてはいなかった。
むしろ、慈しむような響きがあった。
『ありがとう。……静かで、涼しくて、すごく快適だよ。君の優しさは、ちゃんと届いてる』
その言葉を聞いた瞬間。
リナの中で、カチリと何かが嵌まる音がした。
(優しさ……。ううん、違う)
リナは、繭の上に居座る自分の使い魔を見上げた。
あんなに必死に威嚇して、周りを敵だと思って、ただ中の人を守ろうとしている不器用な姿。
それは、リナ自身の心の形そのものだった。
(あたし、ただ役に立ちたかっただけじゃない)
(あたしは、この人のことを、誰にも渡したくないくらい――)
「……好き、なんだ」
口に出した瞬間、視界がクリアになった。
リナは涙を拭い、ボトルを近くの机にドンと置くと、強く地面を踏みしめた。
「……どいて、モコ」
リナの声色が変わり、モコがピクリと反応する。
「それはアンタの仕事じゃない。……あたしが自分でやるから!」
リナは手を伸ばし、モコを抱き上げた。
「勝手に代行してんじゃないわよ! ……あたしの――を、アンタが奪うなーっ!!」
『……!?』
主人が自分の本音を認めた瞬間、使い魔の代行は必要なくなった。
モコの全身から力が抜け、シュンと小さくなる。
同時に、ノアを包んでいた分厚い繭が、サラサラと解け、紫色の霧となって消えていった。
***
「――ふぅ、生き返った……」
繭から解放された僕は、大きく息を吸い込んだ。
体温はすっかり下がり、汗も引いている。
目の前には、モコを抱いて俯いているリナさんがいた。
「……ごめん。モコが、また……」
「ううん。最高に涼しかったよ。魔法の涼み箱みたいだった」
僕が笑うと、リナさんは顔を上げた。
まだ少し目は赤いけれど、その表情は今までで一番晴れやかだった。
「……ノア君」
「ん?」
「これ、あげる」
彼女が机から手に取って差し出したのは、さっき隠し持っていた果実水のボトルだ。
モコのおかげか、ボトルはまだキリッと冷えている。
「……ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ」
僕が受け取ると、冷たい水滴が指先を濡らした。
リナさんは、はにかむように笑った。
「また、明日も来るから」
「うん。待ってるよ」
彼女はモコを頭に乗せて、軽やかな足取りで去っていった。
その後ろ姿は、以前よりも少しだけ自信に満ちているように見えた。
カウンターでは、ミリア先輩がジョウロのスイに向かって微笑んでいる。
「ふふ。……青春ねぇ」
スイも同意するように、ポヨンと跳ねた。
『……理解不能です』
肩の上で、ロジが疑問を呈する。
パピエのサファイア色の瞳には、解析できない事象への戸惑いが浮かんでいる。
『外界を遮断する閉鎖空間を、なぜマスターは心地よいと感じたのですか? 監禁と保護の境界線が定義できません』
パピエも不思議そうに、ちょこんと小首を傾げている。
「それがいいんじゃないか」
僕は冷たい果実水を一口飲んだ。
すべてを明るく照らすだけが正解じゃない。
時には、光さえも届かない静かな場所で、守られる心地よさもあるのだと知った。
「それにしても、騒ぎが先生たちに知れ渡るほど大きくならなくて良かったよ。特に風紀に厳しいあの古文の先生に知られてたら、きっとすごく怒鳴られてただろうね」
くすっと笑いながら、僕は軽口を言う。
もうすっかり、図書室は元の落ち着きを取り戻していた。
初夏の蒸し暑さはまだ続いているけれど、不思議ともう不快ではない。
僕は飲み終えたボトルを置くと、机の上の本たちを手に取った。
先日、リナさんが一緒に探してくれた『古代ルーン文字の資料』たちだ。
課題も終わったことだし、そろそろ返却しよう。
「さて、これも返して帰ろうかな」
僕が席を立とうとした、その時だった。
『――待ってください、マスター。そちらの本の返却は推奨しません』
ロジの鋭い声が僕を止めた。
「え? どうして?」
『先ほどの「闇の繭」による遮断環境からの解放時に「記述の揺らぎ」を観測しました。通常の光量下では埋もれていた、文字の微細な明滅を確認。……ただの印刷ミスではありません』
ロジは、僕が持っていた資料の内の一つである、黒い革表紙の本をジッと見つめている。
『文字の羅列が不規則であり、また文字自体も歪です。これは、古代バベル崩壊時の言語汚染に酷似しています』
「……バベル? なにそれ、ファンタジー小説じゃあるまいし」
僕は苦笑いした。いくら何でも考えすぎだ。
これは学校の図書室にある、ごく普通の資料なのだから。
ただまあ、ロジの言う通り、印刷ミスなのか文字が歪んでおり参考にならなかったため、今回の課題には使わなかった。
「ロジ、御伽噺の読みすぎだよ」
『……否定いたしません。しかし、先日のセドリック個体の件を受け、私は既習教材を再学習しておりました。その結果、あの現象は、共通言語およびバベル崩壊の神話に関連があると推測します。……マスター、そちらの黒い革表紙の本の解析の必要性を認めます。貸出期間の延長を申請してください』
ロジは譲らなかった。
僕はやれやれと肩をすくめ、その古びた本だけは再び鞄にしまった。
ドクン。
心臓の鼓動のような、重く湿った音が、耳元で――いや、頭蓋骨の内部で直接響いた気がした。
「……っ!?」
『マスター?』
「……いや、なんでもない」
僕は頭を振った。
モコちゃんの繭の中にいたために、感覚が過敏になっているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、僕は図書室を後にした。
この本が、やがて始まる「夏の怪談」の入り口になるとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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明日の19時も、図書室でお待ちしております。




