第7話『見えない糸と、気になる同級生』
初夏の風が、図書室のカーテンを重たげに揺らしている。
窓の外からは、運動部の活気ある声と、少し湿り気を帯びた土の匂いが運ばれてくる。
『――本体の翅の動きが僅かに重いです。湿度が上昇し、本の保存環境が低下していると推測されます』
そんなロジのつぶやきを耳にしながら、僕は図書室に入室する。
今日の僕は図書当番ではない。
先日、急用が入ったミリア先輩とシフトを交代したため、今日は非番なのだ。
けれど、パピエの魔力供給のためや、授業で出された課題の資料を探すために、結局こうして図書室に来てしまっている。
「あら、ノア君。いらっしゃい」
カウンターの奥から顔を出したのは、今日の当番であるミリア先輩だ。
亜麻色の髪をふわりと揺らし、白衣の上からでも分かる抜群のプロポーションをした先輩。
すらりと背が高く、その立ち居振る舞いには大人の女性らしい余裕が漂っている。
今日もその目はニコニコと細められており、手にはなぜか園芸用のジョウロが握られている。
「こんにちは、ミリア先輩」
「ふふ、先日はありがとうね。急に当番を代わってもらっちゃって。おかげで温室の月下美人の開花に立ち会えたわ」
「いえ、お役に立ててよかったです。先輩の嬉しそうな顔が見られて何よりですよ」
僕が笑うと、先輩は「いい子ねぇ」と僕の頭を撫でてくれた。
少し気恥ずかしいけれど、悪い気はしない。
僕は咳払いをして、周囲を見渡した。
「……それにしても、また増えましたね」
カウンター周りは、ミリア先輩が持ち込んだ鉢植えで埋め尽くされている。
『歌う月見草』や『発光シダ』、そして時折カサカサと葉を擦り合わせる『おしゃべり苔』。
薬草研究部所属でもある彼女が当番の日、図書室はさながらジャングルと化す。
「ええ。この子たちも、たまには知の光を浴びたいと言っていたしね」
先輩は楽しそうに、苔に水をやっている。
この穏やかな空間が好きだ。
僕は肩に乗せた相棒――サファイア色の蝶、パピエ(ロジ)に話しかけた。
「さて、パピエ、ロジ。例の『古代ルーン文字』の資料を探そうか」
『肯定します。……ただしマスター、あちらの「発光シダ」から飛散する胞子が、本体の視覚情報に干渉しています。早急な撤退を推奨します』
( ˘ω˘ )
パピエの翅には、ロジの文句とは裏腹に、非常にリラックスした顔文字が浮かんでいる。
どうやら居心地は悪くないらしい。
「はいはい、分かったよ」
***
書架の奥へ進むと、先客がいた。
派手な金髪をゆるく巻き、制服を着崩した女子生徒。
僕と同じ2年A組のクラスメイト、リナ・キャンディポップさんだ。
彼女は魔除けのシルバーアクセサリーをジャラジャラと鳴らしながら、本棚の前でため息をついていた。
「……なんで今日はミリア先輩なのよ」
彼女は誰に言うともなく呟いた。
その手には、僕が先週「おすすめコーナー」にひっそりと置いた、マイナーな詩集が握られている。
(あ、あの本……)
彼女が手に取ってくれていることに驚きつつ、僕は声をかけるタイミングを計った。
リナさんは、クラスでも目立つ存在だ。
いつも友人に囲まれて賑やかにしている明るい彼女と、図書委員の僕とでは、住む世界が違うと思っていた。
けれど、今の彼女は少し様子が違った。
どこか寂しげで、手持ち無沙汰に見える。
そして何より目を引いたのは、彼女の頭の上に乗っているそれだ。
バレーボールほどの大きさがある、紫色の蜘蛛。
全身がモフモフした毛に覆われ、8本の脚にはリナさんの趣味なのか、ネイルチップや宝石のついたアンクレットが飾られている。
その蜘蛛は、微動だにせず、まるでぬいぐるみのようにおとなしく鎮座していた。
「……よし。帰ろ」
リナさんが本を棚に戻そうとした、その時。僕の足音が彼女に届いたらしい。
「ひゃっ!?」
彼女は小さく悲鳴を上げ、バッと振り返った。
「あ、あれ……! ノア君!? な、なんでいんの!?」
「やあ、リナさん。奇遇だね。僕はちょっと調べ物をしにきたんだ」
「そ、そう……。あたしは……べ、別に? たまたま通りかかっただけだし! 別にノア君が当番だと思って来たわけじゃないし!」
リナさんは顔を赤くして、早口でまくし立てる。 (当番だと思って来たのかな……?)
不思議に思ったが、追及するのは野暮だろう。
「あ、モコちゃんも元気?」
僕が使い魔の名前を呼んで手を振ると、リナさんは「う、うん……」と気まずそうに視線を泳がせた。
「ごめんねー。ウチのモコ、見た目はアレだけど大人しいから……」
確かに、その蜘蛛――モコちゃんは、ピクリとも動かない。
無表情な複数の瞳が、ジッと虚空を見つめているだけだ。
僕は微笑んで、少し近づこうとした。
『――警告!!』
突如、僕の肩でロジがけたたましい音声を響かせた。
「うわっ、どうしたのロジ!?」
『天敵確認! 捕食性節足動物、12時の方向! マスター、下がってください! 奴は蜘蛛です! 蝶にとっての死神です!』
ロジはパニックを起こして叫んでいるが、パピエの顔文字は「無」だった。
死神を前にしても、彼女自身は全く興味がないようだ。
『あの無機質な複眼を見てください……感情の読み取れない殺戮兵器の目です!』
「失礼だなあ。モコちゃんは何もしてないじゃないか」
実際、モコちゃんは石像のように動いていない。リナさんも困ったように苦笑いしている。
「あはは……ビビりすぎだし。モコはやる気ない系だから大丈夫だって」
***
ロジをなだめつつ、僕は本探しを再開した。
リナさんも「つ、ついでだし、一緒に探してあげる」と言って、近くの棚を眺めている。
「えっと、古代ルーン文字の資料はこのあたりの本棚かな……あ、これとかいいかも」
目をつけた黒い革表紙の本は、棚の最上段にあった。
タイトルの文字も古代ルーン文字のような意匠で書かれていて、良い資料になりそうだ。
僕は背伸びをして手を伸ばす。 ……届かない。あと数センチ指が足りない。
「脚立を持ってこないとダメか……」
僕が一度手を下ろそうとした、その瞬間。
スッ。
「……え?」
僕が触れてもいないのに、棚の本がふわりと浮き上がり、重力を無視してゆっくりと降下してきたのだ。
そして、まるで誰かが手渡してくれたかのように、僕の手の中にスポッと収まった。
「……何、今の」
僕は目をパチクリさせた。
手の中の本を見下ろす。特に変わったところはない。
『……怪奇現象です』
肩の上で、ロジがいつもより少し低い声で呟く。
『物理的干渉の痕跡がありません。ポルターガイスト、あるいは「親切な幽霊」の類と推測されます』
一方、本体のパピエは「ふーん」といった顔文字を浮かべて、浮遊した本を眺めている。
どうやら怪奇現象にも関心はないらしい。
「幽霊……まさかね。あ、こっちの赤い表紙の本も評判がいいって噂の資料だ」
僕は不思議に思いながらも、黒い革表紙の本を小脇に抱え、今度は手元の高さにあった別の本を手に取った。
すると今度は、僕がページをめくろうとする前に、パラッ……と勝手にページがめくれた。
しかも、僕が調べたいと思っていた「第3章」のページでピタリと止まる。
「すごい……! まるで僕の心を読んでいるみたいだ」
「あ、あはは、偶然じゃない?」
横で見ていたリナさんが、なぜか冷や汗をかきながら引きつった笑いを浮かべている。
彼女は小声で、頭上のモコちゃんに向かって何か囁いていた。
しかし、モコちゃんは無表情のまま、微動だにしない。
ただ、右側の第3脚だけが、ピアノ線を弾くように小さく、高速で動いていた。
***
「……なんだろう。今日は図書室の幽霊さんが親切だね」
『以前のセドリック個体の例もあります。マスター、警戒は怠らないように』
「確かに……。そうだね、少し気に留めておくよ」
僕は不思議に思いながらも、一旦は親切な現象に感謝することにした。
歩き出そうとすると、今度は袖口を「クイッ」と引かれる感覚があった。
『警告。微弱な「捕縛攻撃」を検知。何者かがマスターを物理的に引き寄せようとしています』
ロジが警戒するが、その力はとても優しかった。
まるで、「行かないで」と言っているような、あるいは「こっちに来て」と誘っているような。
僕は足を止め、リナさんの方を振り返った。
彼女は僕と目が合うと、バッと顔を背けた。
その耳は、髪の隙間から見えるほど赤くなっている。
(リナさん、顔が赤い……。部屋が暑いのかな?)
「あの、リナさん」
「な、なに!」
「その本、手に取ってくれてありがとう。……それ、僕のおすすめなんだ」
僕は、彼女が手にしていた詩集を指差した。
リナさんはハッとして、本を胸に抱きしめた。
「そ、そうなんだ……。知らなかったし。たまたま表紙が可愛いと思っただけだし」
「そっか。でも、嬉しいよ。その詩集、あまり読む人がいなくて寂しかったから」
僕が笑いかけると、リナさんは一瞬だけ呆気に取られ、それから俯いて小さく呟いた。
「……あたしも。……なんか、寂しそうだったから」
「え?」
「な、なんでもない! とにかく借りてくから!」
リナさんは早足でカウンターへ向かっていった。
その背中を追いかけようとした僕の足元で、また何かがキラリと光った気がした。
『……解析不能。それよりマスター、蝶としての本能が、この空間には目に見えない糸が張り巡らされていると警鐘を鳴らしています』
ロジが不満げな声を上げる。
『それは貴方を害するものではありませんが……貴方を「逃がさない」ように絡みついています』
( ˘ω˘ )
ロジの警告とは裏腹に、パピエは「ま、いっか」とでも言いたげに目を閉じている。
この糸の心地よさを、彼女も感じ取っているのかもしれない。
「逃がさない、か」
僕は自分の袖を見た。
そこには何も見えない。けれど、確かに温かい何かが触れた余韻が残っていた。
カウンターの方では、リナさんがミリア先輩に貸出処理をしてもらっている。
頭上のモコちゃんが、こっそりとこちらを振り返っていた。
無表情な紫色の蜘蛛。 その宝石のような瞳が、少しだけ笑ったように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
図書室の窓から、初夏の風が吹き抜ける。見えない糸は、まだ絡まったままだ。
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明日の19時も、図書室でお待ちしております。




