第5話『忘却の空欄と、忠誠の真名』
夕闇が図書室の隅々まで浸食し、オレンジ色の街灯が窓の外でぼんやりと灯り始めた。
僕の手の中にある紙は、今やびっしりと文字で埋め尽くされている。
けれど、その主の名前だけが、どうしても認識の網をすり抜けていく。
ポチのドッグタグも確認したが、初めは真っ新に見えた裏面に、何らかの記号らしきものが存在することまでは理解できても、やはり意味のある言葉としては読み取れなかった。
「先輩、名前を失うようなことに、何か心当たりはありませんか」
僕が虚空に向かって尋ねると、応えるようにカサリと音がした。
数瞬後、意識の隙間を縫うようにして、気づけば机の上に一冊の古びた本が置かれていた。
「……これは?」
『解析。摩耗の激しい児童書、あるいは手作りの短編集と推測されます。……! マスター、これは「修繕魔法」が途中で放棄された状態にあります』
僕はその本を手に取った。
「修繕魔法」。それは、傷んだ書架の本を保護し、薄れたインクを復元し定着させる、図書委員なら誰もが最初に習う基礎的な魔術だ。
しかし、目の前の本は、ページの端に何も書かれていない真っ白な「栞」が挟まったまま、術式が不自然に中断されていた。
「これは『仮置きの栞』? でも、作業の中断でこの栞を挟むときは、修繕中の文字に対して仮置きで何か記入するはずなんだけど、何も書かれていない?」
僕は仮置きの栞を本から剥がし手に取って確認するが、裏面にも特に何も書かれていない。
すると、また新しい紙が、音もなく机に現れる。 『ポチの魔核刻印を見てくれ』
「使い魔の核を覗くなんて……本来はマナー違反だけど、そんなことを言っている場合じゃないよね。ごめんよ、ポチ」
僕はポチを膝に乗せ、震える手でその胸元に魔力を通した。
他者の使い魔に魔力パスを繋ぐ抵抗感に冷や汗が流れる。
だが、その核に刻まれた役割を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
『セドリックのように在れ』
「……セドリック。セドリック……っ、思い出した! セドリック先輩!」
名前を呼んだ、その瞬間。
視界の端で、空気が陽炎のようにゆらりと屈折した。
窓から差し込む夕闇の残光を吸い込むようにして、そこへ一人の青年が——まるで最初からそこにいたかのように、唐突に姿を現した。
茶色の髪に、少し困ったような笑みを浮かべた図書委員の先輩。
僕がずっと探していた、セドリック先輩がそこにいた。
「ノア……、ようやく気づいてくれたか」
セドリック先輩の声は、遠い底から響くように掠れていた。
実体化したとはいえ、その輪郭はまだ不安定で、窓の外の街灯が彼を透かして見えるほどだ。
「セドリック先輩! 姿が見えます……! でも、一体どうしてこんなことに?」
問いかける僕に、先輩は力なく笑って足元のポチを抱きかかえ撫でた。
その指先が、ポチの体を透かして淡いことに、僕は胸を突かれる。
「ノアのここまでの推理を聞いて、俺もようやく合点がいったよ。……すべては俺の不手際だったのかもしれない」
先輩はポチを抱いて椅子に座り、机の上の古びた本を愛おしそうに、けれど苦しげに見つめた。
「ポチの魔核刻印には、俺の母が手作りしてくれたこの本の主人公のように在れ、と刻んだんだ。だが、経年劣化で主人公の名前は読み取れず、俺の記憶も……もうずいぶん前のことだから、大切な名前を忘れてしまっていた。加えて、この本を作った母も先日亡くなって、世界でその物語を知る者はいなくなってしまったんだ」
先輩が語る言葉の一つひとつが、図書室の冷たい空気の中に溶けていく。
「有名な物語や神話の登場人物なら、多くの人の認知がその存在を支えてくれる。だが、ポチのように、誰も覚えていない登場人物をモデルにした場合、定義は維持できず、その存在はどんどん希薄になっていった。……だから俺は、今日の昼休みの図書当番の間、必死にこの本の修繕をしていたんだ」
そこで言葉を切り、先輩は僕の手にある『仮置きの栞』を悲しげに指差した。
「だが、昼休みだけでは時間が足りなかった。俺は一時的に、欠落した主人公の欄にその栞を挟んだんだが……あろうことか、仮置きの名前として『セドリック』——俺自身の名前を代入してしまったんだよ」
『……致命的な論理エラーです』
ロジの声が、暗い図書室に響く。
『この使い魔は「物語の配役」によって定義されます。しかし、そこに主人自身の名前を代入したことで、使い魔の役割が「主人のように在れ」という再帰ループに陥った。おそらく世界はこの矛盾を解消するために、セドリック個体の名前を消去し、物語内の「記号」として上書きして落ち着いてしまった……。そういうことですね?』
ロジの淡々とした指摘に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。
自分の名前を、ただの「インクの代用品」として扱ってしまっただけ。
世界という巨大な図書館は、彼を一人の人間としてではなく、本の一ページを埋めるための「単語」として扱っていた。
「ああ。皮肉な話だよ。僕の名前が世界から消えるほど、ポチの存在は安定していった。俺は『俺という定義』をポチに食わせてしまったんだ」
「だから、ポチの魔核刻印にだけは『セドリック』の名前が残っていたのですね」
セドリック先輩の姿が、再び薄く透け始める。
さらにはポチの体も、輪郭がぼやけ出していた。
「先輩、まだ先輩の認知とポチの存在が不安定です! 物語の『本来の主人公』の名前を定着させないと、因果は元に戻りません!」
「くそ! まだ修繕魔法は時間がかかるっていうのに……!」
「大丈夫です、先輩。物語の穴埋めは僕の使い魔の得意分野です。パピエ、ロジ! 失われた名前を、今ここで導き出すんだ!」
僕は本に魔力を込め、パピエをページの上に解き放った。
(パピエとロジの力にも条件がある。……書籍を記憶したり、高精度の推測をしたりするには、その本に乗せた僕の魔力を摂取しなければならない)
パピエは、摩耗して消えかかったインクを必死に吸い込み、ロジへと情報を送る。
(`・ω・´)
『――検索開始。……セドリック個体、お母様の出身地と言語体系を。それと、物語のテーマを提示してください』
「母は南方の『聖刻語』圏の出身だ。……騎士が、王への変わらぬ想いを貫く話だった」
『照合完了。南方の聖刻語体系、騎士道文学、および摩耗したインクの残存形状から推論される文字数「7文字」。……導き出される最適解を提示します』
ロジの声が、確信を持って図書室に響く。
『聖刻語において「忠誠」、および「誠実」を意味する言葉――フィデリス(Fidelis)。適合率99%。これが失われた主人公の真名です』
「そうだ、フィデリスだ……! 母さんがよく話してくれた、騎士フィデリスの物語だ!」
セドリック先輩が叫ぶ。
僕は魔力を乗せたペンを手に取り、修繕魔法を完成させるべく、本の空白にその名を刻み込んだ。
インクが吸い込まれ、黄金色の光と共に紙面に「フィデリス」の文字が定着する。
その瞬間、ポチの体が眩い光を放ち、確固たる質量を持って先輩の膝の上で「ワン!」と吠えた。
セドリック先輩の姿も、夕闇の中で鮮明に浮かび上がる。
世界が、正しい定義を取り戻したのだ。
***
「本当に助かったよ、ノア。君が図書委員でいてくれてよかった」
図書室の灯りの下、名前を取り戻したセドリック先輩が、ポチを抱きしめながら深く頭を下げた。
本は無事に修繕され、不自然な『仮置きの栞』はもうどこにもない。
「いいえ。僕も、言葉がどれほど危ういものか、思い知らされました。……名前は、ただの記号じゃないんですね」
『肯定します。定義の曖昧さは、存在の喪失に直結します。マスター、今後は修繕魔法の際、「仮置き」に自身の情報を使用しないよう厳命します』
「はは……。ロジの言う通りだね」
「俺も、この現象が世間で再び起こらないように先生たちと相談してみるよ。あとは、ポチのためにもこの本の今後も考えていかないとな」
「先生方に俄かには信じてもらえない可能性もありますので、お困りの際は僕も呼んでください」
セドリック先輩は苦笑し、晴れやかな顔で窓の外を見た。
恒久的な対処――「名前を忘れないための努力」は、これからの彼の課題だ。
「さあ、パピエ。僕たちも、今日の当番の報告書を書かないとね。……『今日は先輩と二人で、無事に当番を終えた』って、はっきりと書き込もう」
パピエは嬉しそうに僕の肩で翅を震わせた。
( *´꒳`* )b
図書室という知の迷宮には、まだ多くの空白が隠されているのかもしれない。
けれど、僕たちが言葉を集め続ける限り、その空白はいつか鮮やかな物語で埋め尽くされるはずだ。
『それにしても、今回のような現象を引き起こす世界の仕組みについては、再学習しなければなりませんね……』
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