第4話『認識の空白と、剥がされた名前』
目の前の机に置かれた、一枚の白い紙。
僕はそれを指先でなぞってみた。質感はごく普通の紙だ。
けれど、そこには一滴のインクも、一文字の筆跡も残されていない。
「……パピエ、やっぱりこれ、何も書かれていないように見えるよね?」
パピエは紙の上に降り立ち、熱心に触角を動かしている。
( - 1 - ) ?
『肯定します。本体の視覚、および触覚において、色彩の差異(筆跡)は検知されません。……しかし、本体は混乱しています。物理的にそこに置かれたはずなのに、その過程を説明する情報が無なのです』
「……カメレオンの使い魔の仕業、かな。姿を消して、悪戯をしているとか」
僕がふと思いついた仮説を口にすると、ロジは即座に、そして冷徹にそれを棄却した。
『その仮説は論理的ではありません。光学迷彩能力を持つ使い魔は、自身の姿を隠すことは可能ですが、手に持った「外部の物体(紙)」を透明化し、瞬間的に出現させるような事象は不可能です。これは認識阻害魔術の類……ではないかと予想します』
「認識阻害……その可能性はあり得るね」
僕はロジの言葉を反芻しながら、先ほど学園内で聞いた噂を思い出した。
3年C組の空白の席。欠番となった15番。
そして今、僕の目の前で「いないはずの誰か」が椅子を引き、紙を置いた。
「……ねえ、ロジ。僕は、この目の前の人物(?)と、この子犬の主人と、3年生の間で噂されている内容に繋がりがあるんじゃないかと思うんだ」
『しかしそうなりますと、私の記憶する情報では認識阻害魔術により、これほど大規模に人や物からその人物の認識を阻害するような効果をもたらすことはできないようですが』
「それもそうなんだよね……」
ロジの意見は尤もと思いつつ、しかし目の前に何者かがいると思われる状況証拠に対し知覚できないという事実には、やはり認識阻害魔術の関連性は高いと思う。
何かヒントがないか、ともう一度子犬に出会ったところから思い出す。
(今日の図書室は特別閑散としていて、手持無沙汰に図書室を眺めていたら一人ぼっちの子犬の使い魔がいた。放っておけなかったから、申し訳ないと思いつつ図書委員の業務を一時放棄して子犬の主人を探しに行って……あれ?)
ふと浮かび上がった疑問を僕は口にする。
「……なんで、僕は今日一人なんだ?」
『……マスター?』
僕は急いでカウンターへ戻り、引き出しの中から『図書委員シフト表』を取り出した。
「やっぱりおかしい! 新年度が始まって数ヶ月。業務に慣れるまでは、ペアで当番を組むのがこの学園のルールだ。この前、ライアンと当番だったのもそうだった。……なら、どうして僕は今日、一人で受付に座っているんだろう?」
『……検索。当番表の現在の記述を確認します。……!』
ロジの声に、珍しく計算エラーのようなノイズが混じった。
『……不可解です。今日の枠には「ノア・アークライト」の名前のみが記載されています。しかし、その隣……本来「ペアの氏名」が記載されているべき欄に、不自然な、しかし完璧な「余白」が存在します。修正液で消された跡も、魔術的な隠蔽の痕跡もありません。ただ、最初からそこに誰もいなかったかのように、文字の座席だけが空いている』
背筋に、再びあの底冷えする悪寒が走った。
僕は震える手でシフト表を置き、再び窓際の「空席」へと向かった。
そこには、僕たちが連れてきたポチが、寂しそうに椅子を見上げて座っている。
「……そこに、いるんですよね?」
僕は、誰もいないはずの空間に向かって、静かに語りかけた。
「3年C組の……図書委員の、先輩。……ですよね?」
その瞬間、空気が震えた。
パピエが驚いたようにパタパタと舞い上がる。
( * ゜д゜ * ) !
「……あ」
僕が手に持っていた「白紙」に、変化が現れた。
じわじわと、水が滲みるように、真っ白だった紙の上に黒い文字が浮かび上がってきたのだ。
『ノア、気づいてくれ』 『俺だ、■■だ』 『ポチを頼む、俺はここに――』
びっしりと書き込まれた、悲痛な叫びのような文字。
しかし、その最も重要な場所。
名乗っているはずの「名前」の部分だけが、まるでノイズがかかったように、どうしても読み取ることができない。
「やっぱりそこにいるんですね……! 先輩、どうしてこんなことに……」
僕は焦って周囲を見回すが、やはり姿は見えない。
誰かに相談しようにも、「見えない先輩がそこにいる」なんて言ったところで、精神を病んだと思われるのが関の山だ。
この現象にもう少し説明ができなければ。
『マスター。なぜ、先ほどまで白紙だった紙が、今「読める」ようになったのか。そのロジックを解明すべきです』
ロジの指摘に、僕は思考を巡らせた。
なぜ、今になって文字が現れた?
さっきまでは、パピエの視覚をもってしても「無」だったはずなのに。
(認識阻害……認識……)
突拍子もない考えだが、僕はあるひとつの仮説を立てる。
「……哲学の本に、こんな一節があったのを思い出した。『人は言葉によって定義されることで、初めて物事を認知できる』」
『どういう意味ですか、マスター』
「例えば、椅子と机。どちらも板に四本の脚がついた家具だ。もし『椅子』や『机』という言葉がこの世になかったら、僕たちはその二つを区別して認知することさえ難しいかもしれない。言葉という『型』が、曖昧な世界に輪郭を与えるんだ」
僕は、浮かび上がった文字を見つめた。
「さっきまで文字が読めなかったのは、僕が先輩のことを『完全に忘れていた』からだ。でも、三年生の噂を聞き、ペア当番の矛盾に気づき……あなたが『図書委員の先輩である』と僕が認識した。だから、認知の輪郭が少しだけ戻ったんだ」
『……なるほど。情報の「再定義」による、認知の復元ですか。しかし、依然として「名前」の箇所だけが読めないのはなぜですか?』
「……陰謀論めいた荒唐無稽な理屈かもしれないけど、それは、先輩が名前そのものを、世界から奪われているからなんじゃないかな」
僕は確信に近い推測をした。
ポチのドッグタグ、三年生の噂、シフト表の空欄、そしてこの紙。
すべての中心にある「名前」という核が、何らかの理由でこの世界から剥離している。
「さっき言った哲学の逆の現象が起きているんだ。元々名前があった者から突然名前が失われたことにより、誰からも観測されない。……先輩は、今、この世界の空白になってしまっているんだと思う」
パピエが、僕の言葉を肯定するように、切なげな光を放った。
窓の外では、夕闇がゆっくりと図書室を飲み込もうとしている。
僕たちは、この巨大な「空白」を、どうやって埋めればいいのだろうか。
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明日の19時も、図書室でお待ちしております。




