第26話『和解のインクと、春を呼ぶ羽音』
本日は連投ですので、ご注意ください。
「……それで? 南側の壁に重大な構造欠陥が見つかったとは、どういうことだ」
放課後の図書室。
呼び出しに応じたモルトン先生が、不機嫌そうに現れた。
ほとんどの生徒はもう帰宅しており、広い室内には静寂が満ちている。
(……最近の僕たちは、よく遅くまで残っているな)
ふと、そんなことをおかしく思いながら、僕は思考を戻して先生の質問に答えた。
「言葉通りの意味ですよ、先生」
僕は南側の壁の前に立ち、先生を迎えた。
「この壁は、ある『支柱』だけでギリギリ保たれていたんです。でも、今日、その支柱がここに来たことで……崩壊しようとしています」
「支柱? 何を訳の分からないことを……」
先生が怪訝な顔で近づいてくる。
その時、僕の背後の暗がりから、一人の男性が静かに歩み出た。
「久しぶりだな、モルトン」
モルトン先生の足が止まった。
目が見開かれ、唇がわななく。
手持無沙汰に持ち歩かれていた出席簿が、床に滑り落ちた。
「……アーサー? なぜ、お前が……」
「お前の生徒たちが呼んでくれたんだ。……30年越しの忘れ物を取りにな」
アーサーさんが穏やかに微笑む。
しかし、先生の顔色は蒼白だった。
彼は後ずさりし、踵を返して逃げようとした。
「……帰れ」
絞り出すような声だった。
「私には、お前に会う資格などない! 私はお前たちの物語を……夢を、この手で握り潰した男だ!」
過去の罪悪感が、彼をその場に留まることさえ許さないのだ。
「逃げないでください、先生!」
僕は先生の退路を塞ぐように立ちはだかった。
「言葉にするのが怖いなら……僕の相棒に『復元』させます」
「復元だと……?」
「先生が30年間、言葉にできずに隠し続けてきた『本当の心』です」
僕は肩に乗っていたパピエに合図を送った。
リナさんが鞄から、「30年前の日誌」とこれまでに集めた「物語の断片」、そしてアーサーさんが持参した「最後の手紙」を取り出し、それらに僕が魔力を通す。
今まで、パピエは文章の穴埋めを行っていた。
「……でも今の君なら、きっと『風景の穴埋め』もできるよね。パピエ、お願い!」
パピエが空中で回転し、紙片の中心に飛び込んだ。
彼女は嬉しそうに触角を震わせ、30年分のインクと想いが染み込んだ紙束に抱きつく。
『いただきます』
涼やかなロジの声が響き、瞬間、パピエの身体から眩い光が溢れ出した。
彼女が舞い、空中に浮かんだ鱗粉が複雑に絡み合って巨大な立体映像を織り上げていく。
それは、30年前のある夜の光景だった。
***
『……捨てるもんか』
映像の中、若き日のモルトン先生が泣いていた。
薄暗い図書室で、彼は学校側から廃棄を命じられた文集の山を前に、必死に作業をしていた。
『今は無理でも……いつか、時代が変わった時に。誰かがここから、君たちの言葉を見つけ出してくれるはずだ』
それは冷徹な処分などではなかった。
検閲の嵐が過ぎ去るまで親友たちの言葉を匿う、孤独な守護の儀式だった。
そして、映像の最後。
若き日の先生は、一通の封筒に原稿を入れ、震える手で封をした。
『アーサー。お前だけは……外へ行け。こんな石壁の中で、枯れていい才能じゃないんだ』
***
光が収束し、パピエが僕の肩に戻ってくる。
図書室には、痛いほどの静寂が満ちていた。
「……そうか」
アーサーさんが、濡れた瞳で先生を見つめる。
「お前はずっと一人で……僕たちの居場所を守ってくれていたんだな」
「……違う」
モルトン先生は、子供のように首を振った。
顔を覆う手から、雫がこぼれ落ちている。
「私は弱かった。一緒に戦うこともできず、ただ隠すことしか……」
「十分だ。お前は最高の『王様』だよ」
アーサーさんは一歩近づき、先生の肩を強く叩いた。
「モルトン。『沈黙の王と、一羽の蝉』……読んだよ。最高だった」
「……よせ」
「特にラストシーン。あれはずるいよ。……『一番のファンより』だなんて。あんなものを読まされて、泣かないわけがないだろう」
その一言が、決定打だった。
モルトン先生の喉から、嗚咽が漏れた。
30年間、厳格な教師の仮面の下で張り詰めていた糸が、プツリと切れたのだ。
二人が30年の時を超えて固く抱き合う。
その姿にパピエの鱗粉が重なり、僕たちの目には、ただの不器用な二人の少年が映って見えた。
しばらくして、先生はゆっくりと顔を上げた。
まだ目は赤かったが、そこにはもう迷いはなかった。
「……アークライト、キャンディポップ」
先生が僕たちの名前を呼ぶ。
「ありがとう。君たちが、私が隠した時間を……臆病な私の本音を見つけ出してくれたおかげだ」
「先生……」
「だが、これ以上生徒に任せておくわけにはいかないな」
先生は、南側の壁に向き直った。
その背中は威厳ある教師のそれだった。
「30年前、私は無力な生徒だった。だから、この場所を石壁に変えて封じることしか選べなかった。……だが今は違う」
先生が静かに右手を掲げる。
その指先に、柔らかな、しかし芯の通った青い魔力が灯る。
それはまるで、万年筆から溢れるインクのような輝きだった。
「今は、この学園の教師だ。生徒の自由な創作を守り、場所を提供する義務がある」
先生は、冷たい石壁にそっと掌を当てた。
「綴られよ、失われたページ。……『解題』」
先生の言葉と共に、青いインクのような魔力が波紋となって壁全体に広がった。
すると、どうだろう。
重く冷たい石壁が、一枚、また一枚と、透き通った「紙」へと変化していく。
堅牢だった石材が、無数の光るページとなって、はらりと空中に舞い上がった。
それは破壊ではなく、物語への還りだった。
封印という名の表紙が開かれ、中に隠されていた真実が解き放たれる。
舞い散る光のページの中で、先生の姿は、物語を導く指揮者のように見えた。
光が霧散した先。
そこには、30年前のままの――埃を被っているが、懐かしい木の温もりを残した棚が、静かに佇んでいた。
「……アーサー」
先生が親友に振り返り、ニヤリと笑った。
「掃除を手伝え。……明日一番で学園長に申請書を叩きつけて、ここを『公式』な自由創作棚として復活させるぞ。当時挙がっていた問題点も、今ならいい解決策を思いつくはずだ」
「ははっ、そいつはいい! 喜んで手伝うよ、委員長!」
二人の笑い声が、埃っぽい空気を吹き飛ばしていく。
「……おかえりなさい、自由な物語たち」
僕が呟くと、パピエが嬉しそうに棚へと飛んでいき、青白い鱗粉を撒いた。
***
数日後。
復活した「自由創作棚」の前は、多くの生徒で賑わっていた。
30年前の文集の復刻版に加え、現在の生徒たちが書いた新しいガリ版刷りの小冊子や、手書きの詩集が早くも並び始めている。
「見て、ノア君! あの一冊!」
リナさんが、棚の一番目立つ場所を指差した。
そこには、真新しい装丁の本が置かれていた。
タイトル:『沈黙の王と、一羽の蝉 完全版』 著者名:M & A
先生とアーサーさんが、30年かけて完成させた共著だ。
あとがきには、二人の直筆でこう記されているという。
『すべての、語られなかった物語たちへ捧ぐ』と。
「おい、アークライト。いつまで油を売っている」
カウンターの方から、聞き慣れた厳しい声が飛んできた。
モルトン先生だ。相変わらず眉間に皺を寄せている。
「す、すみません! すぐに戻ります!」
僕たちが慌てて返事をすると、先生はふいっと顔を背けた。
その横顔はまだ少し照れくさそうだったが、胸ポケットには、アーサーさんの店で買ったと思われる真新しい万年筆が、誇らしげに輝いていた。
窓の外では、雪解け水が滴り落ち、地面に春の訪れを告げている。
図書室の南側に差し込む陽光は、インクのように温かかった。
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明日の19時も、図書室でお待ちしております。




