第2話『純白の記憶と、最初の定義』
放課後の図書室に、紙が擦れる乾いた音だけが響いている。
僕はカウンターの奥で、分厚いハードカバーの本を開き、そのページに掌をかざして静かに魔力を注ぎ込んでいた。
「……現在、第4章『帝国統計年鑑・穀物生産量の推移』を転写中。全320ページ中、262ページ目のインク摂取を完了。進捗率81.8パーセントと算出します」
僕の肩に止まったサファイア色の蝶――パピエは、僕の魔力が浸透して青白く発光する「文字」の上を、掃除機のように吸い込んでいる。
インクに乗った魔力と共に、そこに記された情報そのものを「食べて」いるのだ。
『――受領。情報照合完了。……次を。次の糧を要求します』
涼やかに響くロジの声は、いつも以上に淡泊だ。
これは彼女のメンテナンスも兼ねている。
膨大な物語ばかり読ませていると、彼女の思考回路が不安定になるため、定期的にこうした確定された事実を食べさせて、思考の整理を行う必要がある。
「……相変わらず、変なもん食わせてんなあ」
その様子を見ていたライアンが、心底げんなりした顔で顔をしかめた。
「お前さ、使い魔のメシってのは、主人のパスから直接魔力を流し込むもんだろ? たまの贅沢にしたって、高純度の魔石をやるとかさ。なんでわざわざ本を経由させて、インクに乗った部分を食わせるなんて面倒なことやってるんだよ」
「ふふ。これがパピエにとっては一番の御馳走なんだよ」
僕は次の一行に魔力を込めながら答える。
通常、使い魔は主人の魔力だけで満足する。
だがパピエは、ただの魔力では満足しない。
「情報」という味付けがされた魔力を彼女は好む。
「物好きだな、お前も。……それにノア、使い魔ってのは『魔核刻印』で決まるもんだろ。なんで虫型の使い魔に、人語を介する珍しい人格があるんだ」
ライアンは自分の相棒――巨大なヘラクレスオオカブトの背中を、コンコンと無造作に叩いた。
「最初に『魔核』を用意して、『お前は盾だ』とか『荷運びだ』って役割を焼き付ける。そうやって刻まれた役割と魔核に基づき、使い魔の姿と魂が形作られる」
彼の言葉は、この世界の魔導士にとっての常識だ。
魔核とそれに刻まれた役割、あとは付け加えて言えば主人の魔力によって、使い魔の性質が決まるとされている。
「虫型の使い魔は、一般的には低知能だろ……どんな役割を焼き付けたら、そんなガリ勉みたいな食事をしたり、会話のできる、しかも別人格なんてよく分かんねえ機能を持つようになったりする?」
ライアンは不思議そうにパピエを覗き込んだ。「お前、いったいどんな魔改造をしたんだよ」
「魔改造なんてしてないよ。……別に隠してないし、少し昔話をしてみようか」
僕は作業の手は止めないまま、懐かしむように目を細めた。
「ライアン、僕は以前見たことがあるんだ。この子の『中身』をね」
「中身?」
「ああ。初めては2年前、魔核刻印の時だ。……あれは、恐ろしいほど真っ白だった」
***
2年前。
まだ僕がこの学園の生徒ではなく、入学試験を控えた受験生だった頃の話だ。
当時の僕は、焦っていた。
魔導学園の入学条件には「使い魔の所持」が義務付けられている。
周囲のエリート受験生たちは、親に買ってもらった高価な『刻印済み魔核』を持ち、最初から優秀な使い魔を連れていた。
でも、凡人で裕福ではない僕には、そんな余裕はなかった。
僕が持っていたのは、近所の林の不法投棄場所で拾った、傷だらけで不揃いな「白い魔核」だけ。
おそらく誰かが、刻印に失敗して捨てたものだろう。
僕はそれに賭けるしかなかった。
『……君の役割は「友達」。僕の話し相手になって』
僕は震える手で魔核刻印を試みた。 戦う力なんてなくていい。
ただ、この孤独な受験生活の傍らにいてくれるだけでいい。
そう願って魔力を込めた瞬間――僕の意識は魔核の中に引きずり込まれた。
そこで見たのは、無限に広がる「白」だった。
壁もなければ、天井もない。果てのない純白の空間。
僕が刻み込もうとした「友達」という役割は、その巨大すぎる虚無の中にポツンと落ち、波紋さえ残さずに霧散してしまった。
『……っ!?』
僕は恐怖して手を離した。
普通の刻印じゃ無理だ。
どんな命令も、あの無限の白の前では塵に等しい。
(失敗か……どうしよう)
だが、呆然とする僕の前で、石は一頭のサファイア色の蝶――パピエへと変化し、ひらりと舞い上がった。
パピエは言葉も話さず、特別な力も見せなかった。
ただの、綺麗な蝶々。やっぱり、僕には優秀な使い魔なんて手に入らないんだ。
僕は落胆し、それでも「傍にいてくれるだけでいい」と自分に言い聞かせ、机に向かった。
それからの日々は、合格に向けて地獄のような受験勉強をした。
才能がない僕は、人の何倍も時間をかけて知識を詰め込むしかない。
そこで僕は、学生の定番アイテムを使った『穴埋め勉強』を繰り返した。
重要な単語を『魔法暗記用インク』で塗りつぶし、その本に魔力を通して『透視色ガラス』をかざすと答えが透けて見える、というものだ。
『……魔法陣の定数は……えっと、3.1415……』
魔力を使いすぎて頭が痛い。視界が滲む。
孤独で、辛くて、押しつぶされそうだったある日。
ふと、教科書の上にパピエが舞い降りた。
『……パピエ?』
彼女は、僕が魔力を流しているページの上を、ゆっくりと歩いた。
すると、インクに乗った僕の魔力が、ふわりと光の粒子になって、彼女の翅に吸い込まれていったのだ。
彼女は、僕の魔力を食べていた。
僕が必死に勉強するために流した魔力を。
『……お腹、空いてたの?』
パピエは触角を嬉しそうに揺らした。
その無邪気な仕草を見た瞬間、張り詰めていた僕の糸が、ふっと緩んだ。
僕の魔力を、この子は美味しそうに食べてくれる。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、肩の力が抜けたんだ。
『ふふ……そっか。じゃあ、一緒に勉強しようか』
それから、僕たちは二人三脚になった。
僕が参考書に魔力を込め、パピエがそれを食べる。
僕にとっては勉強、彼女にとっては食事。
孤独だった机の上は、いつしか「二人だけの食卓」に変わっていた。
変化が起きたのは、気晴らしに『冒険小説』を読ませた時だ。
いつも無機質な参考書ばかり食べていたパピエが、物語のインクを吸った瞬間、翅を激しく震わせて「もっと」とねだったのだ。
『……君、物語が好きなの?』
僕は感動した。この子は、物語の「情緒」が分かるんだって。
そして、受験直前の冬。決定的な瞬間が訪れた。
僕は高熱を出して、フラフラになりながら机に向かっていた。
『あと少し……この公式を覚えれば……』
「落ちるわけにはいかない」という執念だけで、僕は魔力を練り続けていた。
視界が暗転し、床に崩れ落ちそうになった、その時。
僕の意識が、ふっとパピエと繋がった。
限界を超えた魔力のパスが、強制的に彼女の「中身」を僕に見せたのだ。
『……あ……』
僕は息を呑んだ。
かつては虚無だったはずの「真っ白な空間」が、今は猛烈な「文字の嵐」で埋め尽くされていたからだ。
『昔々、あるところに ■■ と ■■■ が住んでいました』 『火属性の魔法における ■■ は、触媒の純度に比例して ■■■ する』
無数の文章が、空中に生成されては消えていく。
文章の所々が、黒く塗りつぶされている。
そして、その空欄に対し、目にも止まらぬ速さで、様々な単語が当てはめられては消えていく。
『お爺さん』『お婆さん』――適合率99%。採用。 『威力』『増大』――適合率98%。採用。
それは、僕が毎日毎日、必死に繰り返していた「穴埋め問題」そのものだった。
彼女はただ食べていたんじゃない。
僕の真似をして、僕が与えた何冊もの本の知識を使って、何億回もの試行錯誤を繰り返していたんだ。
そしてきっと、あの時物語を好んだのは、予測の難しい手ごたえのある問題を欲していたからなんだと思い至った。
その嵐の中心で、彼女は「答え」を探していた。
今のこの状況――「主人が壊れそうだ」という問題を解決するための、たった一つの正解を。
嵐が収束する。無数の単語が一つに繋がり、意味を成す。
氷のように冷徹な声が響いた。
『――非効率です、マスター』
『え……?』
『マスターの呼吸数増加、および末端の震えを確認。学習済み医学情報「過労の初期徴候」と100%合致。生体活動の限界値を突破していると推論します。これ以上の学習プロセスは、合格という目的達成に対しマイナスに作用します』
それは、初めて聞く彼女の声だった。
パピエは、僕から流れてくる「焦り」を分析し、参考書の「医学知識」を総動員して、僕を止めるための言葉を構築したのだ。
『直ちに休息を実行してください。却下は認めません』
それが、ロゴスの生まれた日。
僕の体を守るために、彼女が初めて心ではなく論理を選んだ日だ。
***
「……へぇ。それがルーツってわけか」
話を聞き終えたライアンは、呆れたように、けれど少し感心したように息を吐いた。
「つまり、こいつの人格は、お前が受験で無理しねぇように作られた管理術式みたいなもんか」
「そういうことになるね。……でもそんな単純なものではなくて、僕はロジには心があるって思うんだ。彼女が食べていたのは、単なるインクじゃない。僕の焦りや劣等感、そして物語への愛が染み込んだ……僕の青春そのものだったんだ」
僕は指先のパピエを見つめる。
彼女は今も、僕の魔力を静かに吸い続けている。
あの時見た文字の嵐は、今では数えきれないほどの言葉と、僕たちの思い出で、より鮮やかに色づいているはずだ。
「僕は何冊もの本に魔力を込めて、パピエに食べさせた。彼女はその情報を使って、何億回もの『穴埋め問題』を繰り返した。……その結果が、今の彼女たちさ」
『――肯定します。マスターの魔力には常に必死さという雑味が混入していました』
メンテナンスを一時休止したパピエの翅から、涼やかな声が響いた。
ロジの声は、どこか誇らしげだ。
『私の人格は、言語情報の統計的集積物に過ぎません。あの時の発言も、マスターの生命維持を最優先するための、危機回避の出力結果です。ゆえに、そこに心を見出そうとする必要はありません』
「……なんか、すげぇ夢のない話になっちまったな」
ライアンは苦笑し、憐れむようにパピエを見た。
「結局、中身は空っぽの魔導算盤ってことかよ」
「いいや、違うね」
僕は即座に否定した。
ロジが「心はない」と結論づけた計算式を、僕は「心がある」と再定義する。
「魔導算盤が勝手に計算を始めるはずがないだろう? 彼女がその言葉を選んだ動機だけは、計算の結果じゃない」
僕は2年前の、あの熱に浮かされた夜を思い出しながら、パピエに微笑みかけた。
「君は、僕に生きていてほしかったんだろ? ……その初期衝動を、人は愛と呼ぶんだ。中身が数式でも構わないよ。その数式を書き始めた理由が愛なら、それはもう心と同じだ」
図書室に、沈黙が落ちた。
西日が差し込み、舞い上がる埃が黄金色に輝いている。
ロジはしばらく沈黙していた。
内部で猛烈な勢いで検索と計算が行われているのが分かる。
僕の非論理的な言葉に対する、最適な「解」を探しているのだ。
やがて、彼女は一つの言葉を選び出した。
『……定義不能な概念です。ですが、マスターのその発言に対する、統計的に最も適切な返答を出力します』
パピエの翅が、柔らかく発光した。
( *´ω`*)
『――「ありがとう」、マスター・ノア』
「どういたしまして、ロジ」
「……けっ。熱いねぇ、ご両人」
ライアンが茶化すように鼻を鳴らした。
パピエはひらりと舞い上がり、僕の頭上に着地した。
僕たちの奇妙な読書会は、まだ始まったばかりだ。
あの時初めて見た「底なしの白」には恐れを抱いたけれど、いつか彼女の真っ白なページが、本物の心よりも鮮やかな言葉で埋め尽くされるその日まで、僕はページをめくり続けるつもりだ。
***
西日が長く伸びる図書室。
少年たちの穏やかな時間を、物陰から密かに見つめる影があった。
書架の奥、暗がりに潜んでいた彼女は制服の胸元をギュッと握りしめ、頬を朱に染めて、呆然とノアの背中を見つめていた。
「綺麗……」
彼女の呟きは、誰にも届かず静寂に溶ける。
その頭上には、バレーボールほどの大きさの紫色の蜘蛛が、無表情で鎮座していた。
蜘蛛の複眼が、楽しげに舞うサファイア色の蝶を、ジッと捉えている。
それは捕食者が獲物を見る目か、それとも……。
少女と蜘蛛は、しばらくその場から動けずにいた。
これから始まる騒がしい季節の予感を、まだ誰も知らないまま。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし面白いと感じていただけましたら、【評価】や【ブックマーク】をお願いします。
明日の19時も、図書室でお待ちしております。




