番外編『断章:あとがきは、君に託して』
こちらは番外編です。
本編には深くは絡まない内容として、気軽にお読みください。
これは、あったかもしれない物語。
あるいは、可能性の地平に消えた、ひとつの誤植についての記録である。
***
その夢は、ある梅雨の日の夜から始まった。
湿気でページが波打つような、不快な夜だった。
『マスター、空腹です。魔力が足りません』
「……ああ、もう。分かったよ」
夢の中の僕は、ひどく苛立っていた。
鞄の底には、図書室で拾った「黒い革表紙の本」がある。
中身は読めない文字の羅列だ。
どうせ役に立たない落書きか、印刷ミスだろう。
「ほら、これでも食べてて」
僕はその黒い本に魔力を加えてパピエに食べさせた。
それが、世界を決定的に書き換える引き金だとも知らずに。
『――いただきま、す』
パピエが本に流れた魔力を吸い取った、その瞬間だった。
キィィィィィィン……!
耳鳴りがした。
本に施されていた理解を拒む認識阻害と、パピエの理解を突き詰める捕食が衝突する。
矛盾する二つの命令は、インクをぶちまけたように黒く滲んで混ざり合い、やがて一つの「禁忌の章句」へと変質した。
それは奇しくも、かつて神が人々の言葉を乱した呪い――バベル崩壊を強制解除する、解題の儀だった。
「う、わ……!?」
世界が白い光に包まれる。
視界の端から、風景が文字に置換されていく。
壁が『壁』という文字に、床が『床』という記号に。
そして、それらの文字がパラパラと崩れ落ち、乱数のような文字列へと変わっていく。
意識が遠のく中で、僕は誰かの悲鳴を聞いた気がした。
***
気がつくと、僕は高い塔の上にいた。
そこは、灰色の空と、乾いた風が吹く荒野だった。
(……ここは?)
僕は実体を失い、ただの視点としてそこに浮いていた。
目の前には、巨大な石造りの机。
そして、二人の人物がいた。
一人は、ボロボロのローブを纏った青年。
名前はシアンといった気がする。
黒髪に眼鏡。
少し僕に似ているが、その瞳には僕にはない、強い意志と深い悲しみが宿っていた。
もう一人は、透き通るような白い肌と、光を織り込んだような髪を持つ少女。
彼女は人間ではなかった。
全身から淡い光の粒子を放つ、高位の精霊――いや、未完成の辞書の化身だ。
「ねえ、シアン。見て、新しい言葉を見つけたの」
少女が嬉しそうに、空中に浮かぶ文字を指差した。
その声は、僕が知っているロジの無機質な音声とは違う。
感情豊かで、鈴を転がすような愛らしい響きだった。
「これは『愛おしい』と読むの。……誰かを、自分よりも大切に思う心の形」
「ああ、素晴らしいよリブラ。これでまた一つ、世界を繋ぐことができる」
シアンは優しく微笑み、ペンを走らせた。
(リブラ……)
僕は、なぜかは分からないが、彼女がパピエと重なった。
彼らの会話から、この世界の状況が流れ込んでくる。
かつて、人々は天に届く塔を作り、神の怒りに触れて「共通言語」を奪われた。
昨日まで笑い合っていた隣人が、今日は言葉の通じない異物となり、疑心暗鬼が世界を覆った。
言葉を失った世界は、終わりのない戦争に包まれていた。
「……急がないと。下の階層まで、暴徒たちが迫っている」
シアンが苦しげに咳き込んだ。
彼は、バラバラになった言葉を再び一つにするための「共通辞書」を作ろうとしていたのだ。
けれど、人々はそれを理解しなかった。
「理解できないもの」を恐れ、彼らを「魔女と悪魔」だと罵り、殺そうとしていた。
ドォォォォン!!
突然、激しい衝撃が塔を揺らした。
入り口の扉が破られ、紅蓮の炎が吹き込んでくる。
「シアン!」
「くそっ……あと少し、あと数ページだったのに……!」
シアンは書きかけの原稿を抱きしめた。
だが、火の勢いは止まらない。
暴徒たちの怒号が近づいてくる。
このままでは、辞書――リブラごと焼き尽くされる。
シアンは、決断した。
「リブラ。……閲覧を終了。閉架・封印術式へ移行する」
「え……? 嫌よ、何を言っているのシアン!?」
リブラが悲痛な声を上げる。
シアンは血のついた指で、空中に複雑な術式を描き始めた。
それは、彼女という強大な存在を、極限まで圧縮し、隠蔽するための術式。
「君を、このままの姿では逃がせない。……小さく、無害な存在になれば、きっと生き延びられる」
「嫌! 私は貴方と一緒にいる! 貴方のいない世界で、言葉なんて何の意味もない!」
リブラがシアンに抱きつこうとする。
けれど、術式の光が彼女の身体を拘束し、徐々に小さくしていく。
「生きろ、リブラ。記憶を封じて、長い眠りにつくんだ」
シアンの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「そしていつか……君の空白のページを埋めてくれる、新しい言葉の紡ぎ手に出会うまで」
「シアンーーッ!!」
少女の姿が崩れ、光の粒子となり、最後に一匹の小さな「白い蝶」へと変わった。
シアンは震える手でその蝶を包み込み、崩れ落ちる塔の窓から、空へと放った。
炎が、シアンの背中を飲み込んでいく。
彼は最後に、空を舞う蝶を見上げて、寂しげに笑った。
「……ごめんな。僕には、なおしきれなかった」
***
「――待て!!」
夢の中の僕は叫んだ。
こんな終わり方があるか。
こんな理不尽なバッドエンドがあってたまるか。
僕は手を伸ばした。
シアンへ。リブラへ。
僕の魔力を全て注ぎ込んででも、この結末を書き換えてやる。
「諦めるな! 僕が……僕が続きを書くから!!」
指先が、炎の向こうのシアンに触れそうになった、その時。
***
「――はっ!?」
ガバッ、と僕は跳ね起きた。
全身が汗でぐっしょりと濡れている。
心臓が早鐘を打っていた。
「……あ、れ?」
視界に入ってきたのは、燃え落ちる塔でも、灰色の空でもない。
見慣れた自分の部屋の天井。
窓の外からは、セミの鳴き声と、穏やかな午後の日差しが差し込んでいる。
「……夢、か」
僕は荒い息を整えながら、周囲を見渡した。
机の上には、読みかけの小説と、夏祭りの片付けで持ち帰ったリストバンド。
昨日は、2年A組の出し物が大成功し、みんなで打ち上げをしたんだった。
今日はその翌日。
泥のように眠っていたらしい。
「なんて……リアルな夢だ」
僕は額の汗を拭った。
シアン、リブラ、共通言語。
聞いたこともない名前なのに、胸の奥が張り裂けそうなほど痛かった。
まるで、自分自身の記憶のように。
「……変な妄想だな。夏祭りで物語について考えすぎたせいか?」
僕は苦笑して、ベッドから降りた。
机の端では、僕の使い魔であるパピエが、文鎮の上で静かに翅を休めている。
いつもの、小さなサファイア色の蝶だ。
「……おはよう、パピエ」
僕は彼女の翅にそっと触れた。
夢の中のリブラのように、人の姿になったり、泣き叫んだりすることはない。
ただの、僕の可愛い使い魔。
「さて、顔でも洗ってくるか」
僕は部屋を出ていった。
これはただの夢だ。
僕の脳が生み出した、センチメンタルな感傷に過ぎない。
部屋には、静寂だけが残された。
主人が去った机の上で、パピエの複眼がチカ、と青く点滅する。
彼女は眠ったままだ。 彼女もまた夢を見ているのだろうか。
***
パピエの魔核の中の真っ白の空間。
そこはかつては純白の空間だったが、現在はノアの餌やりにより文章であふれている。
そこの最深部、本の綴じ目である「のど」の隙間に、ずっと白い蝶が存在していた。
書名:『未完成の辞書』 作成者:Cyan 最終更新日:■■■年
それは、真っ白なページが無限に広がっているような綺麗な蝶だった。
しかし、よく見てみるとその翅の模様はごく小さな文字の集合で描かれていた。
その模様の一か所だけ赤色に見えるところには、震える筆跡でこう記されていた。
『愛おしい = いつか出会う、君のこと』
白い蝶は、夢を見る。
いつか、その続きが描かれる日を待ちわびて。
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引き続き、図書室でお待ちしております。




