第1話『言葉の重みと、軽やかな羽音』
今日の放課後の図書室は、奇跡的なほど人が来ない。
受付カウンター当番の僕は、ここ一時間、貸出カードに判子を一度も押していなかった。
西日が射し込み、舞い上がる埃さえも黄金の粒子に見える、穏やかな時間。
手持ち無沙汰になった僕は、カウンターの中で一冊の本を広げた。
それは今月の課題図書に指定されている、背表紙の薄い物語だ。
「……誰も来ないし、この時間をパピエのご飯に充てようか。――こうして、王女は三つの鍵を湖に投げ込んだ。それは永遠の別れであり、新たな旅立ちの誓いでもあったんだ」
僕が本に魔力を通しながら静かに朗読すると、開かれた本から文字がふわりと浮き上がる。
インクの黒い羅列は、空中で青白い光の粒子へと変換され、僕の肩に止まっている一頭の蝶へと吸い込まれていく。
透き通るようなサファイア色の翅を持つ、僕の使い魔――パピエだ。
パピエは触角を嬉しそうに震わせ、光の粒子を鱗粉のように翅に纏わせている。
その左の翅に、淡い光で文字が浮かび上がった。
( *´ω`*)
「ふふ、ご機嫌だねパピエ。このラストシーン、切なくて僕も好きなんだ」
僕が指先で小さな頭を撫でようとした、その時だ。
パピエの愛らしい反応とは裏腹に、氷のように涼やかな女性の声が割り込んできた。
『――非効率です、マスター・ノア』
僕は撫でようとした指をぴたりと止めた。
「……ロジ。せめて最後まで読ませてくれないかな」
『却下します。そもそも現在は「図書委員」の活動時間内です。来館者がゼロとはいえ、カウンターでの朗読行為は職務専念義務の観点から推奨されません』
「固いことを言わないでよ。僕はちゃんと受付に座ってるだろ? 返却本の片付けに出たきり戻ってこない相方よりは、よっぽど真面目だと思うけど」
僕は視線を、書架が並ぶ閲覧室の奥へと向けた。
今日のもう一人の当番、ライアンのことだ。
「返却された本を棚に戻してくる」と言ってワゴンを押していったきり、もう30分も戻ってこない。
『……確かに。ライアン個体の作業効率は、ナマケモノの使い魔と比較しても有意に低いです。ですがマスター、貴方の学習方法も問題です』
ロジ――ロゴスは話題を戻し、いつもの説教を始めた。
その声色は、出来の悪い弟を諭す姉のように冷静で、容赦がない。
『音声による読み聞かせを用いた知識の定着効率は、劣悪の一言に尽きます。マスターとその本と本体で魔力パスを直結して「直接転写」を行えば、そのような薄い冊子など、瞬きする間に完了します。貴方の行為は、伝説の大賢者に小石を並べて計算させているに等しい』
僕の使い魔には、二つの意識がある。
一つは、蝶としての本能に従う純真な「パピエ」。
もう一つは、僕が膨大な書物を読み込ませることで構築された、高度な疑似人格「ロゴス」。
僕は親しみを込めて彼女を「ロジ」と呼んでいるが、彼女自身はそれを非合理的な短縮形だと認識しているらしい。
「分かってないな、ロジ。本というのは、ただ情報を脳に焼き付ければいいってもんじゃないんだ。物語の情緒、行間にあるためらい、そういった心の部分も含めてパピエに教えたいんだよ」
僕はむっとして言い返すが、彼女は即座に冷ややかな回答を返す。
『理解不能です。情報は正確な定義と論理式で構成されるべきであり、「情緒」などというノイズは術式構築の阻害要因になります』
「……はいはい、わかったよ」
議論しても平行線だ。僕はため息をつきつつ、最後の一行までを読み上げた。
本を閉じると、ずっしりとした余韻が胸に残る。
薄い冊子だが、中身の詰まった悲劇だった。
「さて、読み終わったし、元の棚に戻してくるよ」
僕は椅子から立ち上がり、課題図書の棚がある閲覧室の奥へと歩き出した。
***
書架の角を曲がった瞬間、僕は足を止めた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「……どうしたの、これ」
目の前にあるのは、『魔導工学全書』や『帝国歴史年表』といった、分厚く巨大な図鑑が収められている「大型本」のコーナーだ。
しかし、その棚の前の床には、数冊の本が無惨にも散乱していた。
『……不可解ですね。床に散乱していることもそうですが、これらの分類基準が特定できないことも不可解です』
ロジの指摘で気づく。
僕が駆け寄って確認すると、床に落ちているのは、厚さ1センチにも満たない詩集や短編小説ばかり。
本来ここにあるべき分厚い図鑑とは、似ても似つかない種類の本だ。
「おかしいな……。これらの本は『文学コーナー』にあるはずだ。どうして『大型本コーナー』の床に散らばっているんだ?」
『マスター、棚のフチをご覧ください』
ロジが何かに気づいたようで、僕も指摘された棚に注目する。
そこは、大型本の隙間に、無理やり何かを押し込もうとしたような鋭い「爪痕」が残されていた。
『形状から、これは「ヘラクレスオオカブト型使い魔」の前足によるものかと推測されます』
「カブトムシ? ライアンの使い魔か」
『肯定します。……警告。マスター、警戒レベルを引き上げてください』
ロジの声色が、ふっと低くなった。
『主人の統制を失った個体に見られる無秩序行動と、現況の類似性を指摘。ライアン個体に何らかのトラブルが発生している可能性を算出します』
「え……それって」
『ライアンが何者かに襲撃され、意識を失っている可能性があります。あるいは、未知の魔獣による捕食、もしくは突発的な魔法事故。至急、周辺の索敵を』
背筋が冷たくなる。
確かに、あの戦闘狂で使い魔自慢のライアンが、自分の使い魔をこんな風に放っておくなんて普通じゃない。まさか、本当に事件が?
「パピエ、上から見てきてくれ!」
僕は指示を出しつつ、散乱した本の周りを慎重に観察した。
もし争いがあったのなら、何かの痕跡があるはずだ。
しかし――。
「……いや、待てよ」
『どうしましたか、マスター』
「見てくれ、この本。……破れてない」
床に落ちている本は、確かに散乱しているが、ページは折れていないし、カバーも汚れていない。
それに、よく見ると「大型本」の棚の隙間に、一冊だけ薄い詩集が綺麗に差し込まれているのが見えた。
「襲われたり、パニックになったりして暴れたんじゃない。この使い魔は、本を棚に入れようとしていたんだ」
『……解析修正。確かに、暴走個体特有の破壊痕跡が見当たりません。これは「収納行動の失敗」と定義すべき現象です』
ロジが推論を修正する。
最悪の事態は免れたようだ。僕は安堵の息を吐く。
だが、謎は残る。
「じゃあ、なんで『入れようとした』んだ? ここは大型本コーナーの棚だぞ。しかも、運んできたのは……」
僕は散らばった本のタイトルを拾い上げながら確認した。
『王女の別れ』――愛する人と引き裂かれる悲劇。
『雨の日の葬列』――身寄りのない老人の孤独な最期。
『没落貴族の独白』――栄光を失った男の苦悩。
「……どれもこれも、ひどく悲しい話ばかりだ」
僕は眉をひそめた。
サイズはバラバラ、作者もバラバラ。共通しているのは「暗い雰囲気」だけ。
カブトムシが文学的な好みで本を選ぶはずがない。
だとすれば、これはライアンの指示だろうか?
彼が何か悩み事でもあって、こういう本を集めた?
いや、だとしてもなぜ図鑑の棚に?
「……暗い? いや、違うな」
僕の中で、ある言葉が浮かび上がった。
もしその言葉を、この不器用な使い魔が文字通りに受け取ってしまったとしたら?
「そういうことか……。大丈夫、それなら本人に確認しますか」
僕は散乱した本を拾い集め、さらに奥にある「哲学・思想コーナー」の死角へと向かった。
予想通り、そこには犯人たちがいた。
本日の図書委員当番の相方であるライアンが、机に突っ伏して豪快に寝息を立てている。
襲われた形跡など微塵もない、平和な寝顔だ。
そしてその横で、彼の使い魔であるヘラクレスオオカブトのヘラが、オロオロと動き回っていた。
ヘラは返却用のブックワゴンから一冊の本を器用に抜き出すと、それを抱えて大型本コーナーの方へ歩こうとし、しかし途中で何か迷ったように立ち止まっている。
彼が持っているその本は、『絶望論 ~出口なき迷宮~』という、ペラペラの薄い本だった。
「……はあ。やっぱり君は」
僕は呆れながら、優しくライアンの肩を叩いた。
「起きろ、ライアン。仕事中だよ」
「んがっ!? ……あ? なんだ、ノアかよ……」
ライアンは気だるげに欠伸を噛み殺し、背伸びをした。
戦闘向きの魔力の持ち主だが、細かな作業が嫌いで、隙があれば図書委員の仕事をサボりがちだ。
「なんだよ、ちゃんとやってるって。ほら、そこの返却ワゴンの本、あっちの棚に戻しとけって俺の使い魔に命令したし」
彼は顎で使い魔をしゃくった。
確かに、カブトムシの使い魔は、命令通りに本を運ぼうとしている――ように見える。
「全部じゃないだろう? それにあっちの床に転がってたぞ」
「ああん? 知らねーよ。俺はただ……あー、そうそう。『このワゴン、重い本ばっかでダルいから、とりあえず重いやつから先にあそこの棚に片付けてくれ』って言ったんだ」
その一言を聞いた瞬間、僕の手元にある「薄い悲劇の本」と、ライアンの言葉が完全に繋がった。
同時に、ロジの声が鳴り響く。
『――検索終了。状況の論理的整合を確認しました』
「……やっぱりね、重い本って指示だったか」
『肯定します、言語定義の不一致です。「重い」という命令に対し、この使い魔は低知能ゆえに、周囲の会話――「この話は重いなあ」といった感想――を参照し、感情的な重量を物理的重量と誤認して優先処理を実行したのです』
ライアンは「物理的に重い図鑑」を片付けさせたかった。
しかし、カブトムシは「内容が重い小説」を選んで、言われた通り「大型本の棚」に突っ込もうとしたのだ。
だが、薄い本を巨大な爪で掴み、隙間のない図鑑の間にねじ込むのは、彼には難易度が高すぎた。
結果、うまく収納できずに床に散乱させてしまったのだろう。
「コイツ、全然使えねーな。まだ終わってねぇのかよ」
ライアンは不満げに舌打ちをして、使い魔を小突こうと手を上げた。
僕はその手を、パシッと掴んで止めた。
「叩くなよ。彼は君の命令に忠実だっただけだ」
僕は怯えるカブトムシの硬い背中を、そっと撫でてやった。
「君は優秀だね。物語の『心』が分かるなんて、うちのパピエと同じくらい賢いよ」
そう言うと、僕の肩に止まっていたパピエが、拗ねたように触角を伏せた。
( ˘•ω•˘ )
「あはは、ごめんごめん。もちろんパピエが一番だよ」
僕は苦笑しながら、ライアンに向き直った。
そして、ワゴンから一冊の本を選んで、彼の胸に押し付けた。
「ほら、ライアン。サボってた罰として、残りの片付けは君がやるんだ」
「げっ、マジかよ。……おい、これめっちゃ分厚いじゃねーか!」
彼が受け取ったのは『大空の冒険者』という、レンガのように重いハードカバーだ。
「重いだろう? でもね、仕事を終えてからそれを読んでみるといい。――読めば心が羽のように軽くなる、最高の冒険譚だから」
「……けっ。優等生ぶって、うめぇこと言ったつもりかよ」
ライアンは悪態をつきながらも、その本を放り投げたりはしなかった。
彼が観念して重い本を持ち上げると、カブトムシの使い魔も嬉しそうにそれに続いた。
静けさを取り戻した図書室に、西日が長く伸びている。
『……検索完了。推奨図書の重量は850グラム。物理的には労働負荷を増大させる非効率な選択ですが、教育的効果を考慮すれば「正解」と判定します』
ロジの減らず口に、僕は小さく笑った。
パピエが得意げに翅を広げ、夕日を受けてきらりと光った。
( *´꒳`*)b
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明日の19時も、図書室でお待ちしております。




