第2話 資格勉強はお隣さんとともに
近い中間試験の勉強でもするのかと思ったが、雫後輩がテーブルに広げたのはノートだけだった。疑問符を浮かべつつ、麦茶をお盆ごと脇に置く。テーブルは一杯で、置き場所がなかった。
「やろうか」
「いや、『やろうか』じゃないが」
シャーペンを握ってノートの上を走らせる。
お花のマークを書いてかわいいね……じゃないんだよ、ほんと。
「見ての通り資格勉強中なんだよ、俺は」
息を吐いてクッションに腰を落とす。
忙しいときに親戚の子が遊びに来たのに似てるかもしれない。でも、親戚とは違って雫後輩はお隣さんで、分別がつく女子高生だ。
「わかってるよ」
俺の気持ちなんて了承済みで、ペンをくるりと回す。
「わたしも一緒に勉強しようかなって、お花の」
「中間試験の勉強じゃなくて?」
「そっちは平気。授業受けてるから」
近く行われる学校の風物詩である中間試験。
高校生なら誰もが『テスト嫌だなー』と負の感情を抱いているはずだが、そんな様子もなく平然と『授業受けてるから』と言えるこの子が羨ましい。
麦茶の輝きにも似たくりっとした瞳が俺を映す。
「華先輩もそうでしょ? 資格の勉強してるし」
「……兎は2匹追えないんだよ」
「つまり諦めたと」
雫後輩の瞼が半分落ちた。
俺だって試験勉強くらいはするべきかなーと思うんだが、あっちもこっちもと手を出してこなせるほど器用じゃない。本当は人間って、マルチタスクができない生き物なんだよ。
「将来を優先した結果だから」
「あとでやろうか」
予定が決まってしまった。
嫌とも言えず、誤魔化す道を模索していると、「それより、いまはこれ」と雫後輩が広げっぱなしだったフラワーデザインの参考書をとんとんっと指で叩く。
「やろうって……いや、やってるけど。雫後輩がやる意味ないだろ」
「あるよ。知ってたら、華先輩の役に立つでしょ?」
「立たないだろ。開いた店で働くわけじゃないんだから」
「働くかもよ?」
喉が詰まる。
見れば、口元を綻ばせていた。ふざけているのかなんなのか。
追い返してもいいが、なんかそれも意地を張っているようで子どもっぽい。雫後輩が資格の勉強をするのは勝手だし、好きにさせてもいいだろう。俺の部屋である意味はともかく。
もう1度立って、棚から本を1冊引っ張り出す。
それを雫後輩の前に置く。
「これは?」
「フラワーデザイン入門の本。試験受けるかはともかく、最初ならこっち」
説明すると、確かにそうかと渡した入門書をぺらぺら眺めだす。
と、なぜか途中で動きが固まった。ぷるぷると肩が震えだして、なんだ? と目を細めていると、開いたページをこっちに向けられて「あ」と顔の熱が上がる。
「華先輩もこんな落書きするんだね?」
説明の余白に、流行りのうさぎキャラが雑に描かれていた。
うろ覚えで細部が適当な正に落書き。誰が描いたんだと言われれば、当然俺で、集中力が切れて遊んでいたのを思い出す。そして、それを見られてしまったのを恥じた。
震える手を差し出す。
「……か、返してくれ」
「あ、走り出した」
「ぺらぺらしないでっ!」
ページ端のぺらぺら漫画さえバレてしまった。
「かわいいよ?」
「論点はそこじゃない」
かわいかろうがなんだろうが、適当に描いた落書きなんて見られたくなかった。適当じゃなければいいというわけでもないが。
どうして去年の俺はこんなキャーキャー奇声を上げるだけのうさぎを描いてしまったんだ。疲れていたからだ。あと、なんだかんだかわいいから。
「なんかやる気出てきた」
「俺は下がったぞ」
やる気って比例するものだったっけ?
悲しい方程式に頭が落ちる。目の前には書きかけのノートがあって、早く続きをやれと促されている気分になった。
そうして、突然の来訪に中断した勉強だったが、そのあとは意外にも捗った。
お喋りに興じることもなく、黙々とペンの走る音とページを捲る音だけが鼓膜を震わせる。さっきまで試験前に遊び呆けている友人に切れて、うだうだしていたと思えないくらいには集中していた。
勉強会なんて能率が下がると思っていたけど、ちゃんとすると効果があるのかもな。
「テクスチャーって」
「あー、このページ。質感。花びらの柔らかさとか葉っぱの柔らかさとか」
「ありがと」
人に教えると自分の復習にもなるというが、それも本当らしい。
基本的なことを忘れていて、雫後輩に質問されて思い出すなんてことも多かった。思った以上に実りのある時間で、「華先輩」と呼ばれるまで時間を忘れていたほどだ。
「なんか質問?」
「じゃなくて、今日バイトあるよね?」
「あー……る」
ヘッドボードの時計を見ると12時を回っていた。
バイトの出勤は13時。間に合いはするが、出かける準備を考えるとお昼を食べる時間があるかどうか。意識した途端、忘れていた空腹が思い出したように訴えてくる。
申し訳なさそうに雫後輩のほんのり眉尻が下がる。
「ごめん、気づかなくて」
「俺が悪いだろ、これ」
謝る必要はないと伝えるが、元気がない花のように首が垂れている。
突然来たからとかそんなことを思ってのかな。そんなことはないが。
しっかりと否定してあげたいところだが、何分時間がない。さっくり着替えて、昼食は通勤途中で適当に食べようと決める。
「急であれだけど、着替えて出るから」
「わかった」
帰ってくれというのは言葉にしなくても伝わったようだ。
状況的に考えればそりゃそうだと思いつつ、雫後輩を見送ろうとしたがどうしてかクッションに座ったまま動こうとしない。
ふざけてる時間はないんだけどとジト目を向けると、なぜか手を出された。
「鍵、貸して」
「……なんで?」
この状況で鍵を渡す意味がわからない。
ますます俺の視界が細くなっていくが、雫後輩は手を引っ込めようとはしなかった。
「掃除とか洗濯とかしておくから」
「だからなんで?」
「時間は大切でしょ?」
そうだけど。
このよくわからない押し問答が1番無駄だと理解しているだろうか。
あれか、これも応援とか手伝いというやつか。
時折頂くご飯なら『ちょっと作りすぎちゃったから』というお隣からのお裾分けと納得もできるが、家事までされたらもはやなんなのか。
代行の仕事かそれとも彼女か。
苦悩していると、ちょいちょいと時計を指さされる。
「遅刻するよ?」
「うげっ」
いまから準備すれば間に合う時刻から、速歩きじゃないと厳しい時刻になっている。昼飯の時間も確保するとなるともはや限界ギリギリだった。
とにかく着替えねばと、その場で服を脱ごうとして、まだ雫後輩がいるんだったと思いとどまる。
彼女はニコニコと手を差し出したまま座して動かない。
「か・ぎ」
「~~っ、大人しくしてろよ!?」
「はーい」
間延びした返事を信じていいのか。
判断に迷いながらも脱衣所で着替えて、踵を潰すように靴を履く。
「いってらっしゃい」
ひとり暮らしの自分の部屋から、笑顔で見送られる。
そこには確かな違和感があって。
でも、その違和感を押しのけるようにして、こそばゆい嬉しさもあった。
 






