第3話 相合い傘で男が肩を濡らす理由
早く帰ろうと意気込んだのに、さっそく雨の壁にぶつかってしまった。
昇降口の軒下で、やむ気配のない空を眺める。
「華先輩、傘は?」
遅れてきた雫後輩に尋ねられる。
空の手を開いては閉じたが、なにもなかった。
「忘れた」
「折りたたみも?」
「なんで朝から降っててくれなかったかなぁ」
答えず、空を仰ぐ。
灰色の雲は朝と変わらないが、朝とは違い、しくしく泣くように涙を零している。空の表情の違いが、俺を足止めしていた。そして、隣に並ぶ後輩に呆れた顔をさせている。
「天気予報観てないの? 今日は午後から雨降るって言ってたのに」
そういって、雫後輩は鞄から折りたたみ傘を取り出す。
雨の下でパッと一輪の白い花が咲く。
シンプルなデザインで、裏地は黒い。最近は日傘兼用のも多いとニュースの特集で言っていたから、それかもしれない。
「ちゃんと準備できる偉い子なんだね、君は」
「普段から入れっぱなしなだけ」
「余計な荷物入れたくない」
「雨に濡れても?」
横目に見られて、ため息を吐く。
もう少し普段から準備をするべきかもしれない。
「コンビニでも寄るか走って帰るか」
「もっといい手があるでしょ?」
「この状況で入れる保険があるんですか?」
「はい、保険」
と、雫後輩は言って傘を傾けてきた。
……。
「貸したら雫後輩が濡れるだろ?」
「一緒に入ろうという提案だよ」
「……だよな」
わかってはいたけど、わかってないフリをした。
それは咄嗟の抵抗であった。付き合っているわけではないのに、周囲が“付き合っている”と扱う現状に臆したのだ。
「誤解が深まりそうで嫌……とか?」
「心でも読めるの?」
「読めないけど」
なんとなくねー、と雫後輩は傘をくるくると回す。
ピタッととめる。
そして、苦笑を向けてくる。
「一緒の傘で帰ったとして……なにか変わる?」
「変わんない」
「なら、濡れるよりはいいよ」
そう言って、俺を傘の中に入れる。
もう1つ躊躇った理由があるんだけど。
「ん? なに?」
斜め下から琥珀の瞳が見上げてくる。
肩が触れ合う距離で、やけに近くに感じる。雨音が大きいのに、微かな吐息すら耳が拾ってしまう。
折りたたみ傘。それも女性用だ。
サイズはコンビニで買えるビニール傘よりも一回り小さく、濡れないようにするとどうしたって身を寄せることになる。昔からの王道というか、恋愛物でいまでも時折こうした相合い傘を目にするのは、こうした自然に近づけるからかもしれない。
……どうしていま、恋愛物を比喩に上げたのか。
己の迂闊さで余計に雫後輩との狭すぎる距離を意識しながら、「なんでもない」と顔を背ける。意識なんてしてない。そんな澄まし顔を作っているつもりだが、ちゃんとできるだろうか。
「じゃ、行こうか」
「いや、傘」
「あるけど?」
雫後輩が傘を一振り。
俺もあるのは知ってるけど、そうじゃない。
「俺が持つから」
「ほほぉう?」
なぜか雫後輩の目が細まる。
「男らしさ?」
「身長差」
俺より小さいから、一緒に入ろうとすると彼女の腕が伸びてしまう。そんな疲れそうな体勢でアパートまで送ってもらうのは申し訳ない。
なにより、白い腕が横にあるのは気にかかる。
「なら、お願いしようかな」
はい、とあっさり渡される。
こういうところ、遠慮しないのはありがたい。雨で早く帰りたいのに、いえいえわたしがいえいえ俺がなんて押し問答なんでしたくないから。
受け取った小さな傘。
少し掲げると、傘の下にいるのに雫後輩に雨がかかってしまう。なので、少し彼女の方に傾ける。左肩が濡れてしまうが、相傘をさせてもらってる俺を優先するわけにはいかない。
こんなところで肩を濡らす男の気持ちを知るとは思わなかった。
ふと、なにかに気づいたように雫後輩が顔を上げたが、すぐに視線を前に戻す。
気づいた?
どうだろう。訊けば自白で、訊かなければ心に少し靄が残る。
ぴしゃり、ぴしゃりと足を地面に落とすたびに水が跳ねる。
雨だからか、アパートへの帰り道は人が少ない。帰りの学生がいないのは、図書委員で残っていたからだろうか。それとも、どこかで雨宿りでもしているのか。
「華先輩は、雨は好き?」
不意に問われて、雫後輩の横顔を見る。と、目が合った。
思わぬ衝突に面食らい、すぐに逃げてしまう。どうにも、いつも以上に意識してしまう。時折、裾を掠める音が鼓膜をくすぐる。近づいた距離だけ、心の壁を大きくしているみたいだ。
「雨、雨ねぇ」
逃げたと思われないよう、空を見るように傘の裏地を仰ぐ。
どっちでも、と言ったらそういうことじゃないって言いそうだよな。少し考えて、「好き、かな」と答える。へーっと、雫後輩が感心したような声を上げた。
「ちょっと意外かな。どうして?」
「理由の9割はなんとなくだけど、残りの1割は……水やりの手間が減るから、かな」
通り過ぎる電柱の根本を見ると、たんぽぽが咲いていた。
雨に打たれているせいか、微かに頭を下げている。けど、そんな中でも目に色をつけるような華やかな黄色は健在だった。
「雨上がり、濡れた花もいいものだしな」
「詩的だね」
雫後輩は目を細めて、目尻に笑いが浮かぶ。
「そんなんじゃないやい」
ちょっと恥ずかしくなって首をそっぽに向ける。
格好つけるつもりはなく、ただ思ったままを言ったのだが、なにも考えていなかったせいで余計なことを口走った。眠いからだ、と胸中で言い訳をする。
「わたしもそうかな」
「詩的?」
「違うから」
湿気のせいか、じとっとした目を向けられる。
「雨が好きな理由」
遠くを見るように前を見て、手を伸ばす。
手のひらを上に向ける。ぽつぽつと雫後輩の手に雨粒が溜まっていく。
「水やりの手間が減るって話。わたしは畑だったけどね」
「家庭菜園だっけ」
いつかの植物園で話したような気がする。
雫後輩は俺が覚えていたのが嬉しかったように「そう」と無邪気に笑って頷く。
「ベランダでトマトでも育てようかな。華先輩にごちそうしてあげる」
「…………」
嬉しいでしょ? とばかりに笑顔で見上げてくるが、俺はすーっと目を逸らした。
「…………、トマト、嫌い」
「子どもっぽい」
笑われて、恥ずかしくなる。
種を植える前に、早くもトマトの熟れたようだった。
◆◆◆
雫後輩と一緒に帰った翌日。
朝は霧のような雨が降っていたが、午後になると昨日からの悪天候が嘘だったように快晴となった。夕方になってバイト先の花屋に着く頃には雲一つなくなっていて、台風一過にも似た空模様になっている。
「お疲れ様でーす」
「さまでーす」
俺と雫後輩が揃って雑な挨拶をしてバックヤードに入ると、店長がノートパソコンから顔を上げる。その眉間は微かに皺が寄っていた。
「お疲れ様です。最初の挨拶くらいはちゃんとしませんか? 一応、お仕事なので」
「俺はしましたよ」
「ごめんなさい」
雫後輩が素直に謝る。
店長が立ち上がって、よしよしと彼女の頭を撫でた。『で、あなたは?』とばかりに、横目で見られる。当てつけだろうか。ちゃんとしたのに。世の中は不条理に満ちている。
「店長、お疲れ様です」
「よろしい。まぁ、それはどうでもいいんですけど」
「ちょっと」
あっさり返す手のひらに、弄ばれた感が否めない。それとも、ストレス発散か。
なんであれ、理不尽だ。
不満で顔のパーツが中央に寄るのを感じていると、店長はそんな俺など無視して「そうだ」と奥に引っ込んでしまう。そのままごそごそと物音がして、『なんだろう?』と雫後輩と目を見合わせる。
少しして、これこれと店長は服飾店のロゴが入った紙袋を持ってきた。
「はい、どうぞ」
「……店長とは服を貰う関係じゃないんですが」
「もう、なにいってるんですか。この前、私の家に忘れていったパンツですよ」
「いやいやいや」
なに照れ照れして頬を染めてるんだこの店長。
「へー」
「誤解誤解」
「わかってる」
雫後輩が苦みのある微笑みを浮かべる。
「店長の冗談だよね……ですよね?」
「もちろぉんでぇす」
店長がスマホみたいにガクブルしだす。
普通に笑っていただけに見えたが、店長は雫後輩の瞳になにを見たのだろうか。
「おかしな空気になっちゃいましたけど」
誰のせいだ。
「改めて、受け取ってください。この前言っていた参考書です」
「最初からそう言ってくださいよ。ありがとうございます」
呆れながら紙袋を受け取ると、雫後輩がひょっこり中身を覗こうと首を伸ばしてくる。
「本……?」
「あぁうん」
「なんの?」
今度はこっちを向く。
あんまり広めるようなものでもないんだけど、こうして目の前でやり取りしたせいで気になるだろう。店長には挨拶より先に気遣いを覚えてほしいなと思いつつ、説明も面倒なので借りた参考書を1冊取り出す。
むむっと雫後輩が目を細める。
「フラワーデザインの教科書?」
いわゆる資格勉強というものだ。
◆第7章_fin◆
__To be continued.






