第1話 お隣さんで後輩で
桜舞う入学の季節……には少し早い3月下旬。
春というには肌寒い空気で、雨が降ろうものなら外に出るのも雨脚とともに億劫になっていく。
「冷蔵庫は……空」
時刻はお昼前。
だというのに、冷蔵庫には2Lの水のペットボトルしか入っていなかった。それも半分を切っている。
調味料すらないのは、高校生のひとり暮らしなら当然と言ってもいいが、ほぼ空なのは俺とて問題だと思う。
なにも食べるものがない。
意識した途端、お腹がきゅるーっと悲しく鳴いた。窓を叩く雨も相まって、哀愁ばかり募る。
「朝もコーヒーだけだったからな」
誤魔化すにも限界があった。
しょうがないと冷蔵庫の扉を閉める。
備え付けのクローゼットから薄手のコートを引っ張り出して、靴を履いて玄関を出る。
コンビニはアパートのすぐ近く。
歩いて2分程度。
それでも、雨の中だと長いんだよなーっと嘆きながら、家の鍵を閉める。
向きを変えて、アパートの廊下を歩こうとしたら、隣室の部屋、その横で困り果てたという顔そのものの女性が立っていた。
ふわりと大きめのブラウスに、長いスカートを着こなす少女。横顔を見ただけで美人とわかるくらいに整っていて、長い黒髪の隙間から覗くピアスが大人っぽさを演出していた。
同年代か、少し上か。
そんな美人さんが壁を見つめてうんうん唸っているのだから、挙動不審を通り越して不審者でしかない。
こんな見た目で泥棒とかじゃないよな?
そんなことを思うくらいには怪しく、訝しみながらそろっと後ろを通り過ぎようとしたけど、「困った」とか「どうすれば」とか聞こえてきて、善意と面倒の葛藤で眉間にシワが寄る。
放置するのが一番面倒がない……けど。
「すみません」
「ひゃっ」
声をかけた瞬間、小さく悲鳴を上げられてしまった。
こっちを向いた琥珀の瞳が丸くなっている。
身構えるように後退りされて、やっぱり声をかけるんじゃなかったかもと後悔が頭をもたげる。
警戒心をあらわにした女性に、どっちが怪しいのやらと辟易しつつ、手に持っていた鍵を彼女の目の高さで揺らしてみせる。
「そこの家のものなんですけど、どうかしましたか?」
「え、あ、お隣、……さん?」
頷くと、強張っていた力を抜くように肩がわずかに下がる。隣人だからといって、まるっきり警戒心を解くのはどうかと思うが、今はいい。
「困ってるみたいだったので声をかけたんですけど、余計なお世話なら行きます」
ひらひらと手を振ると、どうしたものかと悩むように彼女の目が泳ぐ。
その瞳が俺に戻ってくると、女性の顔は困惑と遠慮が混じったような表情になった。
「今日、引っ越してきたんですけど、部屋の水が出なくて」
「あー」
なるほど。
道理で廊下でおどおどしているわけだ。
長い黒髪を梳くように撫で、落ち着かなさそうなお隣さんに「ちょっと見せてもらってもいいですか?」と水道のメーターボックスを指差す。
遠慮するように、お隣さんはそこそこある胸の前で小さく両手を上げた。けど、困っているのは間違いなく、最終的には降参するように華奢な手が垂れた。
「お願いします」
「じゃ、ちょっとだけ」
ボックスを開けて、水道の栓を探す。
隣室で、当たり前だけど作りは一緒だからすぐに見つけられた。
栓を捻って、ボックスをパタンっと閉め直す。
「水出るか、確認してもらえます?」
「え、これだけ?」
「これだけ」
もっと大掛かりな作業でもすると思ってたのか、きょとんっとしている。なにやら素っぽい声が漏れた。
お隣さんは玄関扉を大きく開けると、ドタバタと足音を立てながら消える。扉が閉まり切る間際、もう1度大きく扉が限界まで開いて、彼女が戻ってきた。
その顔はこれでもかと輝いて、結果がどうだったのかと訊く必要もない。
「水出た!」
「でしょうね」
安堵と喜びに満ちた笑顔がやけに幼気に見える。
やっぱり学生なのかなとお隣さんの年齢を想像しつつ、屈伸運動の要領で立ち上がる。
「助かったよ。引っ越していきなり水が出なくて、管理会社に連絡しても、外の栓? を回してみてって言われるだけだったから」
「正しい案内ですけど、知らないとなに言ってるかわからないですよね」
かくいう俺も、引っ越し当初に同じことをしている。
管理会社に連絡するところまでまったく同じ流れだった。俺の場合はネットで調べてどうにかしたが、新しい家って水が出ないのが普通なんだろうか? それともこのアパートだけ?
どうでもいい謎を考えつつ、「じゃ」と手を上げて去ろうとすると、お隣さんが「待って!」と手を伸ばしてくる。
「……ください」
「いまさらどっちでもいいですけど」
興奮で抜けた礼儀を取り戻して顔を赤らめるお隣さん。
歳もそう離れてなさそうだから、本当にどちらでも構わない。
「うん、まぁ、うん……」
口元を隠しつつ、ちらりと上目でこっちを窺ってくる。
「……ちょっと待ってて」
俺と同じような判断に至ったのか、結局抜けた礼儀はそのままで、言うだけ言ってまた部屋の中に戻っていった。
「お礼はいらないって、言うタイミングなかったな」
待っていると、また勢いよく扉が開く。
清楚な見た目と違って、アクションは派手だった。
「これ、あとで挨拶しようと思ってたんだけど、よかったら」
「……引っ越し蕎麦?」
「うん」
渡された蕎麦と書かれた箱と、お隣さんの顔を交互に見る。
急いだからかやや紅潮した顔の彼女を見て、うーんとちょっと悩む。
挨拶って、引っ越しの挨拶って意味だよな。
俺の部屋は単身者用。同じアパート、それもお隣で間取りが違うということもないだろう。
初対面でこういう小言めいた指摘はどうなんだろう?
悩むけど、顔を合わせて話す機会なんて早々ないのだから、お隣さんの心配要素は少しでもなくしておくべきか。
「えーっと、お蕎麦はありがとうなんですけど、あんまり引っ越しの挨拶とかしない方がいいですよ?」
「え」
固まるお隣さんに申し訳ないと思いつつも、言っておく。
「相手がどんな人かわからないですし、1人暮らしの若い女性というのが周囲に知らせるような真似は避けるべきかと」
「で、でも、引っ越ししたら挨拶……しないの?」
「最近はしないのが普通かなと」
「……そう、なんだ」
ガーンっとショックを受けてしまった。
俺も引っ越し事情に詳しいわけじゃないけど、調べた限り率先してやるという人は減っているそうだ。特に1人暮らしの女性は。
咲き誇っていた笑顔の花は萎れ、すっかりお隣さんがしょぼくれてしまった。
善意というか、気遣いのつもりだけど、落ち込ませたままというのは後味が悪い。
「隣の里波です。お蕎麦、ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
花屋のアルバイトのときのように、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げる。
ゆっくりと顔を上げてもしばらくの間、彼女は固まったままだったけど、すぐにふにゃりと頬を緩めて笑ってくれた。
「隣に引っ越してきて雨下です。困っているところを助けてくれて、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って、お隣さんも頭を下げる。
同じように顔を上げたあと、彼女は肩にかかった髪を軽く払う。
「初めての1人暮らしで不安だったけど、君のように優しい人が隣でよかった」
そう言って、口元を綻ばせる。
親しみを感じさせる微笑みに俺も笑みを深めて、うん、と頷く。
「雨下さん、1人暮らし向いてないよ」
「なんでっ!?」
勘違い男製造機じゃん。
初対面なのに、すっごく心配になる。
早くなった動悸を悟られないよう、「また」と手を上げて颯爽と立ち去る。
蕎麦を持ったままコンビニに来てしまったと気づいたのは、お会計のときに店員さんに指摘されてからだった。
これが俺と雨下の最初の出会い。
春休みの始まり。桜が咲く前の、フライングのような邂逅だった。
その出会いを正すかのような2度目の出会いも、ちょっと普通とはズレていたように思う。
「里波さん……?」
「雨下さん?」
入学して間もない図書委員の顔合わせ。
新しく入ってきた新入生の中に、驚いてぽかんっと口を開ける、同じ高校の制服を着たお隣さんの姿があった。
 






