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あれから、どれほどの時間が経っただろうか。
深度を増すごとに、空気は冷たく、重く、密になっていく。いくつもの通路を抜け、罠を見抜き、魔物を退け――
そして今、俺はその前に立っていた。
最下層、ボス部屋の扉。
「……ここが最後の、セーフティエリアか」
わずかに開けたこの空間は、最初に訪れた十畳の休憩所よりもやや狭い。けれど不思議と、そこには静かな威圧感があった。
ダンジョンが終わりを告げようとしている。その確かな気配が、ひしひしと肌に伝わってくる。
わずか数時間。たったそれだけの時間だった。けれど、この短い探索の中で、俺は多くの“経験”を手に入れた。
罠を踏みかけたときの冷や汗、素材整理の手間、魔物との戦闘、偶然拾った黒曜石のペンダント――すべてが、俺の糧となっている。
普段は必ず、講師が後ろにいた。どんな危機も、いざとなれば“誰か”がどうにかしてくれた。だが今回は違う。
俺は一人だ。
目の前にいるのは、俺の背中を守ってくれる誰かじゃない。
――俺自身だけだ。
この先にいるボスがどんな敵かは知らない。勝てる保証もない。けれどそれでも、俺は今、ここに立っている。
恐怖。緊張。孤独。
だがそれらが、まるで冷えた刃のように、俺の神経を鋭く研ぎ澄ませていく。
「……行こうか」
ポーチの留め具を確かめ、呼吸を一つ整える。
胸の奥に広がるのは、怯えではない。燃えるような緊張感――いや、昂りだ。
この一戦が、俺という存在を証明する一歩になる。
そう、確信していた。
俺は、事前情報を一切入れていない。
ネットを漁れば、この過疎ダンジョンの攻略情報くらい簡単に見つかるだろう。ボスの種類、攻撃パターン、安全な戦い方――いくらでも載っている。けれどそれをなぞるだけの戦いに、意味はない。
それは探索じゃない。ただの模倣だ。
俺が求めているのは、もっと根源的なもの。
知らないという緊張感。
予測できないという恐怖。
それらを、あえて背負って戦う。この張り詰めた空気を、自分の力で切り開いていく。それこそが俺にとっての“ダンジョン探索”だ。
「……よし、行こう」
重く錆びついた金属の扉に手をかける。ぎいいい――という軋む音が、深く静かな空間に響く。その音だけで空気が震えた。
視界の先、奥まった部屋の中央に――奴はいた。
「……ホブゴブリン、か」
ゴブリンによく似た姿。だが、明らかに違う。身長は俺より頭一つ分高く、全身を覆う筋肉は、まるで岩のように無骨だった。赤黒い皮膚が不気味に光り、握りしめた棍棒が床を叩いている。
ドン、ドン……
ゆったりと、だが確実に近づいてくる。
あれは間違いなく、“このダンジョンの主”だ。
武器は棍棒。力任せに振り下ろす攻撃が主体だろう。突き、横薙ぎ、もしくは地面を砕くような一撃もあるかもしれない。
けれど、それでもゴブリンの延長に過ぎない。攻撃のバリエーションは少なく、単純――ただし、威力は別だ。
一発でももらえば、即座に戦闘不能。いや、最悪の場合――死ぬ。
だからこそ、油断は絶対にしてはいけない。
“これはテストでも訓練でもない”
誰も助けには来ない。俺の命を守れるのは、俺だけだ。
「……確実に、殺す」
握りしめた拳に力を込める。刻観眼を発動。視界が、ほんのわずかに色を変え、一秒先の未来が静かに現れる。
視える。避ける。そして、刺し込む。
――やるしかない。
俺は、全身の力を指先まで伝えながら、最初の一歩を踏み出した。
俺が一歩を踏み出すと、同時にホブゴブリンも動いた。
ズドン!
地を打つような足音とともに、巨体が跳ねた。
棍棒が上段に構えられ――風を裂くように振り下ろされる。
視えた。刻観眼が告げる未来。
――真上からの一撃。わずかに左にずれろ。
俺は地面を蹴り、紙一重でその一撃を回避する。
ドガァッ!!
棍棒が床を砕いた。石が飛び散り、土煙が舞う。
(重い……!)
床にできたヒビが、あの攻撃の威力を物語っていた。あれを一発でも喰らえば、確実に終わる。
「ッ……!」
ホブゴブリンが吠える。
唾液を撒き散らしながら、再び棍棒を横に薙いだ!
未来視――回避不能。間に合わない!
即座に俺はしゃがみ込み、転がるように前転。
ギリギリで攻撃を回避しつつ、間合いを詰める。
(一撃、入れる!)
足元へ滑り込む形で左の腿へ膝蹴り。
**ドンッ!**という鈍い感触が返ってきた。だが――効いてない!
「グルアァ!!」
ホブゴブリンが、棍棒を手放し、両腕で俺の身体を抱え込む。
(ヤバい!)
未来視に映る――地面に叩きつけられる未来!
刹那、俺は肘を振るい、脇腹に拳をねじ込む!
呻いたホブゴブリンがわずかに力を緩めた、その瞬間――
「ハァァッ!」
両足を踏ん張り、身体を捻る。
ホブゴブリンの腕から脱出し、背後に回り込む!
(今だ……!)
腰に仕込んだ短剣を抜く。
刻観眼、最短ルートを照らせ。
「――ッ、そこだ!!」
狙うは首筋と肩の間。筋肉の走行から導かれる急所。
短剣を突き立てる!
ズブリ――
鈍く重い感触。ホブゴブリンが呻き声を漏らす。
それでも倒れない。獣のような咆哮を上げ、最後の抵抗に出る!
(来る! 真正面からの突進――未来視、回避ルート右斜め後ろ!)
俺は床を蹴り、すり抜けるように横へ回避。
ホブゴブリンの身体がそのまま前の柱へ激突した。
ガオンッ!!
石柱が砕け散り、土煙の中にホブゴブリンの姿が埋もれる。
しばらくの静寂。
その後、ゆっくりと、ホブゴブリンが前のめりに倒れ――動かなくなった。
「――ッ、はぁ……っ、はぁ……!」
汗が滝のように流れていた。息も乱れている。
けれど、俺は立っている。俺は、勝った。
攻撃系の魔眼に頼ることなく、己の身体と観察眼だけで乗り切った。
「……これが、俺の戦い方だ」
そうつぶやいて、俺は静かに短剣を収めた。