第7話 疑惑の刃
森の入口に、魔導士ラバーの家がひっそりと佇んでいた。
木造の外壁は、長年の風雪にさらされて深い褐色に変わり果てている。屋根には苔が緑の絨毯のように広がり、湿り気を帯びた空気が辺りを包んでいた。家全体が森に守られるように佇み、その存在すら森の呼吸に溶け込むかのように静かだった。
室内の中央。床に刻まれた魔法陣の中心に、一振りの黒い剣が静かに横たわっている。
刃は光を吸い込み、床に落ちるはずの影さえ映さない。そこだけが、世界から切り離され、闇に沈んでいるようだった。
ラバーは剣をじっと見つめ、口元に微かな笑みを浮かべる。
「……なるほどね」
低く響いた声が木の壁に反射し、微かに軋む音とともに部屋に広がる。壁に取り付けられた燭台の炎がゆらりと揺れ、魔法陣の紋様に波打つ影を落とした。
ラバーは炎の光を指先で掬い、宙に淡い金色の文字を描き出す。
《やっぱり、アンタが関わってたか》
その瞬間――
天井の梁がぎしりと軋む。
続いて、隙間風が吹き込み、木の香りに混じって紙と古いインクの匂いが漂ってきた。
視線を上げると、天井の暗がりから一枚の紙が音もなく舞い落ちる。
床に触れる直前、ラバーが素早くそれを掴んだ。
指先に残るざらついた感触に、古い呪文書の記憶がよみがえる。
紙には黒いインクでこう記されていた。
『気づいていたのなら話は早い。その剣を彼に』
ラバーの眉がわずかに動く。
唇を引き結ぶと、再び光の文字を宙に描いた。
《この剣の持ち主がアンタの計画に関わっているのか?》
描かれた光の文字が数秒揺らめいた後、ふっとかき消える。
同時に、指先の紙がひび割れるように崩れ、霧となって消えた。
次の瞬間――
穏やかな女性の声が頭の奥に響く。
『その質問に答える必要はない。それは、時が来れば自ずと分かるから』
木の壁がかすかに震え、床板が不気味にきしむ。
魔法陣の中心にある剣がカタリと音を立て、刃に淡い赤黒い光が走った。
「……ったく、相変わらずだね」
ラバーがそう呟いたとき、ふと足元にもう一枚の紙が落ちていることに気づく。
拾い上げると、羊皮紙の表面にざらりとした感触が残る。
文字は短く、はっきりと書かれていた。
『森にいる冒険者を助けてあげて』
ラバーは紙を見つめながら、息をつく。
「冒険者?……多分エミリーね」
そして、扉へと視線を向け、ぽつりと呟く。
「久々なんだから、顔くらい見せなさいよ」
扉の向こうで、床が静かにきしむ音が返ってきた。
まるで返事の代わりのように。
ラバーはわずかに苦笑し、懐から小さな魔晶石を取り出す。透き通る石の奥に、淡い光がゆらめいた。通信の魔術が込められたものだ。
「リブロ、ヘッタ、クロミャ……誰でもいいから、ちょっと来て」
魔晶石に向けて呼びかけると、その光がわずかに揺らめいた。まるで応えるように瞬くそれを見つめながら、ラバーは小さく息を吐く。手の中の紙をもう一度見つめ、眉をひそめた。
「……ったく、面倒なことになりそうね」
呟いた瞬間、静寂を裂くように扉が軋み、ゆっくりと開く音が響いた。
同じ頃、村の治療院には、重い霧のような不穏な空気が漂っていた。
微かに漂う薬草の香りすら、その場を覆う緊張感を和らげることはできない。
呼びに来たシスターのアリアに案内され、ユーラとソードが扉をくぐると、室内の視線が一斉に彼らへと注がれた。
戸口の軋む音が、沈黙をさらに際立たせる。
壁際に立つ医師エルフィーの目には苦渋の色が滲み、ベッドで横たわる少女ノノの体に巻かれた包帯には、鮮やかな血の赤が滲んでいた。
窓辺には村長のレニウムが腕を組み、険しい表情のまま、冷えた声で口を開いた。
「来たか、ユーラ。……昨日、森に入ったときのことを話してくれないか?」
言葉が空気を刺し、部屋がさらに冷えた気がした。
「……父さん、なんでそんなことを聞くの?」
ユーラの声がわずかに震える。
レニウムの瞳が、氷のように光った。
「理由は彼女の証言だ。ノノは魔物を操る黒い剣を持った剣士に襲われたと言っている。……まさしく、ソード君のようなな」
「……!? 俺が?」
ソードの瞳が大きく見開かれる。
「違う! ソードがそんなことをするわけない! 記憶を失ってる彼が、どうやって人を襲えるの!?」
ユーラがソードの前に立ち、声を張り上げる。
レニウムの視線が、鋭く彼女を射抜いた。
「記憶を失ったのが“襲った後”だとしたらどうだ? それに、本当に記憶喪失かどうかも疑わしい。医師としてどう見ている? エルフィー君」
エルフィーの指が白衣の袖を無意識に握りしめる。視線を床に落とし、唇を噛んでから、低い声で答えた。
「医学的に言えば……記憶喪失は珍しくない。ただ、ソード君には外傷も魔力の干渉も見られない。それが不自然なんだ……。通常、健忘は強い衝撃や魔術的干渉が原因になるけど、どちらの兆候もない。考えられるのは……高位の呪いか、あるいは記憶喪失が偽装されている場合……」
「嘘じゃない!」
ユーラが叫ぶ。しかし、疑念の種は確かに部屋の空気に根を張っていた。
エルフィーは続ける。
「……ノノは剣士の声を聞いたそうだね? ソード君の声と似ていたのかな?」
ベッドのノノがわずかに身じろぎし、痛みに顔を歪めながらソードを見つめた。
幼い瞳に宿るのは恐怖ではなく、疑惑と警戒。
「……似てるような……違うような……。でも、声の質は、確かに近かった気がする」
「曖昧な証言で、ソードを疑うなんてひどい!」
ユーラが声を張り上げる。
ノノが唇を噛む。
「だって……あの時は恐怖で必死だったのよ! 記憶の断片しか残ってない!」
その声に、ソードは胸の奥を締め付けられる感覚を覚えた。自分が犯人ではないと信じたい。しかし、記憶がない以上、疑われても反論できない。
(俺が……彼女を斬った……?)
昨日、脳裏をよぎった光景が再び蘇る。
朽ちた木々。冷たい風。闇の中、じっとこちらを見つめる、あの影──。
何だった?あれは本当に自分の記憶なのか?
「……俺が……犯人かもしれないのか?」
思わず漏れたその声に、ユーラが即座に振り向いた。
「違う! 絶対に違う! 記憶はないかもしれないけど、ソードが人を傷つける人じゃないって、私はわかる!」
その叫びに、レニウムが低くため息をついた。
「感情で判断するな、ユーラ。……だからこそ、昨日の出来事が重要なんだ。話せ」
張り詰めた沈黙が、部屋の空気を支配した。
ユーラは唇をかみ、震える拳を握りしめる。やがて、小さく息をついた。
「……わかった。話す」
外では厚い雲が朝陽を覆い隠し、治療院の室内に淡い影を落としていた。
それは、疑念の色を帯びて静かに滲んでいくようだった。