第6話 黒き魔との接触
「黒い……剣士ですか? ノノさんは斬られたのですか?」
アリアは息を呑み、目の前のノノを見つめた。彼女の肩はわずかに震え、頬にはうっすらと汗が滲んでいる。
「そうよ! 早く村長を呼んで!」
ノノの声は焦りに満ちていた。その上半身には包帯が巻かれており、血が滲んでいるのが見える。素人目でも相当な深手だ。ただの魔物にやられたとは思えない――。
「わかりました」
アリアはすぐさま部屋の隅に置かれた小さなベルを手に取り、カラン、と澄んだ音を響かせた。その音に応じるように、扉が開き、一人の青年が顔を覗かせる。
「はい、何でしょうか?」
ヘッタだった。彼はまだ若く、少し頼りなげなところがあるが、教会の治安維持組織の一員だった。
「屋敷に行って村長を呼んできて! それと、宿にいるエルフィーも!」
アリアは短く指示を出す。
「り、了解しました!」
ヘッタは戸惑いながらも、すぐに駆け出していった。その足音が遠ざかっていくのを確認すると、アリアはノノの隣に腰を下ろし、静かに問いかける。
「……村長が来るまでの間に、昨日の森で何があったのか、詳しく聞かせてください」
ノノは一度目を閉じ、大きく息を吸った。そして、ゆっくりと語り始める。
彼女が語るのは、昨日の昼のことだった――。
エルフの村の北部には、広大な精霊の大森林が広がっている。その西にある遺跡エリアには、かつて古代エルフが築いた崩れかけた神殿が、ひっそりと佇んでいた。
長い年月を経たその神殿は、苔むした石碑が無数に並び、静寂の中で過去の記憶を宿しているかのようだった。
この遺跡には、古の魔術の残滓が漂っており、普通の村人は決して近づこうとしない。
しかし、数日前から魔物の気配が増しているという報告が相次ぎ、冒険者ギルドの命を受けたノノが警備に派遣されていた。
「……妙に静かね……」
遺跡の外周を巡回していたノノは、ふと足を止めた。
――鳥のさえずりも、虫の羽音も、魔物の鳴き声すら、一切聞こえない……。
木々の間をすり抜ける風の音すら、不自然なほどに薄い。
まるで森全体が、何かに息を潜めているかのようだった。
ノノは周囲を注意深く見渡し、慎重に足音を殺して歩き出す。
嫌な予感がする。
――ガサッ
突如、背後の茂みが揺れた。
ノノは瞬時に身を低くし、反射的に腰の剣に手をかける。
緊張で指先がじんわりと汗ばむ。
「……誰?」
風すらないのに、空気が張り詰める。
ノノが慎重に振り返ると、草むらから小さな兎が飛び出した。
兎はノノに気づくと、一瞬立ち止まり、何かに怯えるように茂みへと逃げていった。
「……なんだ、ウサギか」
安堵の息が漏れる。が、その刹那――
「……大丈夫?」
不意に、遠くから少女の声が聞こえた。
ノノの背筋が凍る。
(……この声……どこかで? それに、誰かと話してる?)
「あなた、記憶が……ないの?」
また聞こえた。明らかに子ども――いや、若い少女の声……方角は東か。
しかし、この森にそんな者がいるはずがない。
ノノは素早く魔晶石を取り出し、東側の警備に連絡を取ろうとした。だが、その手が止まる。
「……しまった!」
青ざめる顔に、冷たい汗が伝う。
「今日はエミリーがいないんだった……!」
エミリー――本来、森の入り口の見張りを担当していたはずの同僚。
だが、今日は彼女が二日酔いで寝込んでいたことを思い出す。
(じゃあ、今このタイミングで声が聞こえたってことは……まさかユーラ!?)
焦燥感が胸を締めつける。
もし、村長の娘であるユーラが無警戒に森へ入ってしまっていたとしたら――
その考えに至った瞬間――
カツン……カツン……
遺跡の奥から、硬い靴音が響いた。
ノノの思考が、警戒モードへと切り替わる。
「……遺跡の中に誰かいる? いや、音が近づいている……!」
剣を構え直し、気配を探る。
暗闇の奥からゆっくりと姿を現したのは――
漆黒のフードを深く被った人物。
その体躯は、男とも女ともつかない。
ローブに包まれた姿からは、性別どころか年齢すら推測できなかった。
フードの奥に覗く瞳は、闇そのもののように深く、冷たく光る。
手に握られた黒い剣は、異様な魔力を纏い、じわりと揺らいでいるように見えた。
ノノは剣を握る手に力を込める。
ただの盗掘者ではない。これは、何か異質な存在だ。
「冒険者か……」
低い中性的な声が、静かに響いた。
「まだいるな……周囲には1人……いや2人か……」
ノノの全身が一瞬にして緊張に包まれる。
「2人」――?
(やはり、あの声の主が……)
だが、考える暇もなく――
「作戦の邪魔か……ならば、排除する。」
その人物が静かに手を掲げる。
――ゴォッ!!
黒い霧のような影が揺らぎ、その中から無数の黒い狼が姿を現した。
赤く光る眼、鋭く剥き出された牙、闇に溶け込む黒い毛並み――
ノノはその異様な光景に息を呑む。
「……赤い目に黒い獣……」
最近噂になっていた未知のモンスター。
「近頃の未知の魔物は……お前が原因か!!」
ノノは鋭く叫ぶと、迷いなく剣を抜き放った。冷たい汗が背筋を伝う。だが、一瞬の躊躇が命取りになると理解していた。
(この狼たちが術の産物なら、こいつを倒せば……!)
踏み込む。
研ぎ澄まされた刃が、空を裂く。狙いは黒い剣士の胴。
だが――
「……遅いな」
冷たい声が響いた刹那。
ズバッ――!!
視界がぐるりと揺らぎ、全身が氷のように冷たくなる。
「―――え?」
何が起こったのか、理解できなかった。
喉の奥が焼けるように熱く、次の瞬間には、胸の奥から血が噴き出していた。
(……斬られた……?)
気づくと、剣を振り下ろしたはずの自分の腕が、空を切っていた。むしろ、逆に自分が切られている。
(見えなかった……!?)
ノノの意識がぐらりと揺らぐ。
黒い剣士は、一歩、ゆっくりと前に出た。
木々の隙間から差し込む陽光が、その漆黒の装束に影を刻む。
彼の手に握られた黒い刃は、不気味なほど穢れを知らぬまま。
まるで―― 空間そのものを裂いたかのように。
「冒険者といっても……B級程度か」
淡々とした声が、静寂の中に落ちる。
吹き抜ける風が草葉を揺らす音さえ、異様に遠く感じられた。
ノノは、膝をついた。
日差しが肌を焼く。額から汗が滴り、視界がかすむ。
肺はひどく苦しく、指先が痺れて力が入らない。
黒い剣士が静かに刃を振り上げる。
その動きに連動するように、陽光が刃に反射し、一瞬だけ鈍く光った。
「――とどめを刺してやろう」
冷たい言葉が、陽炎の立つ昼の空気を裂く。
辺りの空気が、張り詰めた殺気に支配される。
―――ああ、ここで終わるんだ。
ぼんやりと思った。
胸の奥に、冷たい諦めが広がっていく。
(……エミリーに、恩返し、できなかったな……)
彼女には、何度も助けられた。
いつも無茶ばかりする自分を呆れながらも、見捨てることなく――。
(飲んだくれ、なんて言われてるけど……あの時も……)
「冒険者なんて適当でいいの! 自分の命の方が大事!!」
どこか懐かしい声が、記憶の中で弾ける。
いつかの昼、酒場のテラスで、陽の光を浴びながら酔いどれた彼女の顔が浮かんだ。
(……ごめん、エミリー……)
瞼が重くなり、意識が白昼の中で薄れていく――。
その瞬間――
ザッ――ッ!
突然、大地を踏みしめる音が響いた。
次の瞬間、空気が爆ぜるような鋭い音が走る。ノノの目には見えない何かが、戦場を切り裂いた。
「……何者だ! どこから現れた!」
黒い剣士の声が、初めてわずかに色を帯びた。警戒――そして驚愕。
次の瞬間、黒衣の影がすっと後退する。
「―――くっ……魔導士か……撤退する」
砂埃が舞う中、黒い剣士の気配が遠ざかっていく。
陽の光が再び地面を照らし、静寂が戻る。
意識が沈む中、遠くで誰かの声がした。優しく、穏やかな――女性の声。
(……誰……?)
だが、その疑問すら形を成さぬまま、ノノの意識は闇へと溶けていった。
そして、次に目を開けたとき、そこは――静かな治療院だった。
「――ここまでが、私の見たことよ」
ノノは、淡々とそう締めくくった。
だが、語り終えた今になって、胸の奥に小さな違和感が残る。
あの時、最後に聞こえたあの声は――本当にただの記憶だったのか?
「黒の剣士と謎の魔導士、そして謎の少女の声……ですか」
アリアは、指先で静かに髪を梳きながら、考え込むように目を伏せた。
どこか引っかかる。ノノの話に出てきた『謎の魔導士』――その力に、聞き覚えがある気がする。
「……まさかね」
彼女は微かに首を振るが、その表情からは考えが読み取れなかった。
コツ、コツ……
病室の扉が硬質な音を立ててノックされた。
「入るぞ」
低く響く声とともに、扉が開く。
入ってきたのは、エルフの村長レニウム。
栗毛色の短髪を持つ彼は、いつもの穏やかな雰囲気をかなぐり捨て、厳しい表情を浮かべていた。
細められた目の奥に鋭い光を宿し、静かながらも威圧感のある佇まいでノノを見つめる。
その後ろから、エルフィーが無言で足を踏み入れた。
彼は、白衣の袖を軽くまくり上げながら、ノノの顔を一瞥する。
「……無事に目が覚めたみたいだね。昨日はひどい状態だったんだよ?」
エルフィーは手慣れた動作でノノの包帯を確認し、新しい包帯と薬を用意する。
昨日、彼がどれほど尽力したのかが、彼の目の下の薄い隈からも見て取れた。
ノノは少し申し訳なさそうに笑いながら、ぼそりと呟く。
「……悪かったわね」
包帯を巻き直しながら、エルフィーはノノに笑顔を向ける。
「これが僕の仕事だからね。意識が戻って本当によかったよ」
そんなやり取りを聞きながら、レニウムが静かに口を開く。
「ノノ、シスターアリアから概要は聞いた。……"黒い剣士"のことだ」
その一言で、病室の空気が一気に引き締まる。
レニウムは、ノノへと視線を向けると、低く続けた。
「君が斬られた時刻は昨日の昼頃だった。間違いないね?」
普段の穏やかさは完全に消え去り、そこには村を守るための冷静で的確な指揮を取る者の姿があった。
エルフィーも、包帯を巻き終えると腕を組み、静かに口を開いた。
「ノノの傷を見る限り、その黒い剣士はただの戦士じゃないよ。魔力を帯びた武器……そう、彼の持っていたような」
「……やはり、呼ぶしかないか……」
レニウムは目を細め、考え込むと、諦めたかのように溜息をついた。
「シスター、すぐにユーラと、あの青年……ソード君を連れて来てくれ。昨日の昼に森にいた人間だ」
「……わかりました」
――エルフの村が、本格的に動き出す。
その静かな決断の裏には、決して揺るがぬ覚悟があった。