第5話 黒き魔の胎動
微かな薬草の香りが漂う白い空間に、朝の光が静かに差し込んでいた。窓はわずかに開けられ、そこから流れ込む風がカーテンを優しく揺らしている。部屋の空気は清潔で、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「……ここは?」
ノノはゆっくりと瞬きを繰り返しながら、ぼんやりとした視界を巡らせた。白い天井、揺れるカーテン、そして薬草やポーションの仄かな香り。全てが静かで、穏やかだった。しかし、自分がなぜここにいるのかが分からない——その疑問が意識の奥から浮かび上がる。
ふと、部屋の片隅に視線を向けると、薬品棚の前で在庫を数えていた金髪の修道女がこちらを振り向いた。修道服の端をそっと整えながら、彼女は優しく微笑み、柔らかな声で語りかける。
「目を覚まされたんですね、ノノさん」
彼女の穏やかな声が、静寂に包まれた部屋に響いた。その声に安堵を感じながら、ノノはゆっくりと息を吸い込む。しかし、次の瞬間——包帯が巻かれた上半身に鋭い痛みが走り、思わず顔を歪めた。
「アリアさん……? 私、どうしてここに?」
アリアはそっとノノの手を握る。その手は驚くほど温かく、指先から安心感が伝わってくるようだった。
「昨日、森の周囲を巡回していた教会の者が、倒れているあなたを発見しました。意識を失っていたようですが……何か覚えていますか? 無理のない範囲で、お話しいただけると助かります」
「昨日……?」
ノノは記憶を手繰り寄せるように眉をひそめた。頭の中に、断片的な映像が蘇る。
「……たしか、二日酔いで倒れてたエミリーの代わりに森へ行って……」
そこまで言った瞬間、脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。黒い影、圧倒的な存在感、全身を貫くような冷たい視線——。
「そうだ! 黒い魔物! 噂の未知の魔物が本当にいたんだ! 村長に知らせないと——!」
ノノは反射的に体を起こそうとした。しかし、次の瞬間、鋭い痛みが走り、息が詰まる。
「っ……!」
ベッドの上に崩れるように倒れ込むと、アリアが慌てて肩を押さえた。その表情には、明らかな心配の色が浮かんでいる。
「まだ無理をしてはいけません。相当な深手だったと、エルフィーから聞いています」
「それに、安心してください」
アリアは穏やかに続けた。
「すでに教会から聖騎士に調査及び討伐の要請を出しています。近いうちに、一掃されるでしょう」
「……違うんです」
ノノはかすれた声で、絞り出すように言った。
「脅威は、それだけじゃない……!」
エルフの村の北部に広がる精霊の大森林。その東端に位置する神秘のエリア――「賢者の森」で、エミリーは黒い魔物たちに包囲されていた。
薄暗い木々の間で、無数の赤い瞳がぎらつく。低く唸る獣の声が四方から響き、冷たい空気が肌を刺すようだった。鋭い爪が地面を引っかく音が耳を打ち、腐葉土の匂いに混じって、血と鉄の気配が漂う。
エミリーは短剣を構え、じりじりと後退した。喉が渇き、心臓の鼓動が痛いほど速まる。
「もう朝か……くそっ! 数が多すぎる……!」
焦燥の滲む声が静寂を破った。肩で息をしながら、エミリーは周囲を見渡した。
「この黒い狼が噂の正体か……? 前の調査の時はいなかっただろうお前ら……! 一体、どこから湧いて出た!?」
不吉な悪寒が背筋を走る。
「まさか……精霊樹 が目的か!?」
漆黒の狼たちは、ぴたりと獲物を見定めたまま、じわじわと間合いを詰める。
背中を冷たい汗が伝う。
――ガサッ。
一瞬の動き。
影が跳ねた次の瞬間、狼の一体が弾丸のようにエミリーへと飛び掛かる。
彼女は瞬時に反応し、短剣を横薙ぎに振る。
ザクリ――!
鋭い刃が獣の喉を裂き、血飛沫が舞った。
しかし、息をつく暇もない。
すぐさま 別の狼が地を蹴り、鋭い牙を剥き出しにして迫る。
次から次へと湧き出る敵の気配に、エミリーは 奥歯を噛みしめた。
「……妙だな?」
息を整えながら、短剣を握る手に力を込める。
「確かにキリがない……けど、ノノがやられるほどの相手じゃない!」
そう呟いた瞬間――
背後の 闇が、わずかに揺れた。
同じころ、エルフの村の中央にあるティックの宿。
朝の陽ざしの下、医師エルフィーは静かにカルテをめくっていた。
ページをめくる音だけが、部屋の静寂に溶ける。
彼はふと手を止め、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、ノノの怪我は魔物じゃなくて……刀剣によるものだよね……」
机の上に広げられた記録には、傷の特徴が克明に記されている。
鋭く抉られた切創――まるで冷たく研がれた刃が、確実に肉を裂いたような跡。
魔物の牙や爪ではない。
これは明らかに 人の手による斬撃 だった。
エルフィーの眉が、わずかに曇る。
「誰が……何のために?」
エルフィーの小さな呟きは、奇しくも治療院のノノと同タイミングで発せられていた。
「脅威は、それだけじゃない……!」
ノノの掠れた声が、静寂を裂くように響く。
「黒い剣の剣士……そいつが、私を襲った犯人で、未知の魔物を操る村の脅威だ!!」
黒き魔の胎動は、まだ始まったばかりだった――。