第4話 冒険者と森の噂
エルフの村の北端、木々の影が周囲を深く覆い、巨大な森の入り口がひっそりと広がっている。夜の帳が落ちるとともに、森の静寂は一層深まる。そこに、一人のエルフの女性が立っていた。月明かりの中で、金色の髪が薄明るく浮かび上がり、軽鎧を身にまとった彼女の長い耳が風に揺れながら、鋭い眼差しで森の奥深くを見据えている。その瞳の奥には、冷徹な決意と、抑えきれない怒りが滲んでいた。彼女の名前はエミリー。怪我をしたノノと同様、クラウの町の冒険者ギルドから村の警備を任され、派遣された冒険者だ。
エミリーは手にしていた酒の瓶をぎゅっと握りしめ、目の前の暗い森を睨みつけながら、低く呟いた。「……不味い!」 その言葉が、まるで自分を奮い立たせるように響くと、エミリーは瓶を地面に叩きつけた。ガラスが破裂し、鋭く散った破片が月光に反射して一瞬だけ輝く。残りの酒が無情にも地面に広がり、土を染めていく様子に彼女の目が鋭く光った。
「仲間を傷つけられて……うまい酒が台無しだ!!」
彼女の怒声が森に響き渡る。その声には、冷静さなど微塵も残っていなかった。むしろ、抑えようとしても溢れ出る激情が、怒りのままに言葉を紡がせていた。
「噂だと夜の森に赤く光る目が現れるんだろ? 上等だよ!」
エミリーの手が腰の短剣に触れ、柄を強く握る。
「森の噂がどうだろうと関係ない! 怒らせた冒険者の質の悪さを舐めるなよ? 絶対に後悔させてやる!!」
その言葉が森の中に吸い込まれると同時に、エミリーは踏み込んだ。足音は静かで、けれどその一歩一歩には凄まじい決意が込められていた。月明かりを背に、暗闇へと向かっていくその姿は、まるで闇そのものに挑むかのようだった。森の奥からは不気味な気配が漂っているが、それを気にも留めず、エミリーはただ進み続けた。
彼女の心を支配しているのは、仲間を守るという使命感。そして、理不尽な暴力への復讐の念——。その炎は燃え上がるばかりで、冷める気配はなかった。
そして彼女は気づかなかった。
その背中を、じっと見つめる何者かの視線があったことに――。
その頃、村の中心にある宿屋では、記憶を失った青年ソードに対するエルフィーの問診が続いていた。ティックが戻っていないため、部屋を借りることができず、酒場の喧騒が近くから聞こえてきていた。時折、笑い声や乾杯の音が遠くから響き、エルフィーの集中をほんの少しだけ乱す。彼はソードの目をじっと見つめ、眉をひそめながら考え込んだ。
「うん、新しく記憶したことは覚えているみたいだね。魔法や呪いが無関係なら、逆行性健忘症ってことかもしれないけど……でも、外傷もないし……」
そう呟きながら、エルフィーは腕を組んだ。その細い指が無意識に白衣の袖をつまむ。
「呪いなら……あの噂とも関係があるのかもしれないけど、どうなんだろう……」
エルフィーが小さくため息をつくと、ソードは無表情でその様子を見つめ返した。しばらく沈黙が続いた後、彼が口を開いた。
「ティックさんって人も言っていたけど、その“噂”って一体何なんだ?」
ソードは冷静に尋ねたが、その声にはかすかな不安がにじんでいた。まるで、記憶の中にぽっかりと空いた穴を埋める手がかりを探すかのように、彼の鋭い瞳はエルフィーをじっと見つめる。その視線は、まるで真実を引き出そうとするかのように真剣だった。
「あ、それ私も気になっていた。治療院でアリアさんも言っていたよね?」
ユーラは興味津々といった様子でソードの隣に座り込み、前のめりになる。明るい緑の髪がさらりと揺れ、好奇心に満ちた瞳がエルフィーを見据えた。しかし、その奥にはわずかな躊躇いが見え隠れしている。まるで、知ることに対する期待と、それによる変化への不安が混ざり合っているかのようだった。
エルフィーはその視線を受け、わずかに眉をひそめる。そして、少し困惑したように首を傾げた。
「いや、ユーラ……記憶喪失のソード君が知らないのは分かるけど、村に住んでる君が何で知らないのさ」
「え? そんなに有名な話なの? 私、全然知らないよ?」
ユーラは目を丸くし、きょとんとした表情を浮かべる。まるで、自分だけが知らない秘密を暴かれたかのような驚きがその顔に滲んでいた。エルフィーは深く息を吐き、腕を組みながら考え込む。
「……まあ、割と最近の噂だからね。それに、ユーラは単独で森へ行くのを制限されていたから、知らなくても無理はないか」
「……皆が知っている噂を私だけが知らなかったってこと?」
ユーラの声には、わずかな不満が滲んでいた。まるで、自分だけが蚊帳の外に置かれたことに気づいた子どものように、口をわずかに尖らせる。その様子を見たエルフィーは、肩をすくめながら軽く笑った。
「まあ、敢えて隠されていたんだろうね。君は無鉄砲すぎるから、村長も心配していたんだよ。朝も勝手に森へ入ったって、ティックから聞いてるよ?」
「……ところでエルフィーはティックさんを母さんって呼びたくないの? 最近、名前で呼んでるよね?」
ユーラの何気ない指摘に、エルフィーの瞳が鋭く光った。その視線は冷たく、まるで鋭利な刃物のようにユーラを射抜く。
「ユーラ? 話を逸らそうとしても無駄だよ?」
鋭い一言に、ユーラは思わず肩をすくめる。しかし、拗ねたように頬を膨らませ、視線をそらした。
「だって皆、森が危険だって言うけど、ウルファンとかホワイトウルフしかいないじゃん?」
確かに、ウルファンは俊敏で群れる習性を持つが、それでも村の狩人たちが長年対処してきた獣だ。その上位種であるホワイトウルフも、狡猾な狩人ではあるが、倒せない相手ではない。大人たちが口を酸っぱくして「森に近づくな」と言うほどの脅威には思えなかった。
しかし、エルフィーは静かに首を振る。
「……まあ、普通はそう思うよね。村は結界で覆われているし。でも、実際に被害が出ているんだ。噂の“未知の魔物”によって」
エルフィーの言葉に、場の空気が一瞬凍りつく。
うるさかった酒場の笑い声は次第に遠のき、暖炉の薪が「パチッ」と弾ける音だけが、静寂の中に響く。ユーラはごくりと唾を飲み込み、眉をひそめた。
「未知の魔物って……どんな?」
「それが分かれば苦労しないさ。目撃者は皆、遠くから見ただけみたいだし……エミリーやラバーさんが調査に行っても、結局姿を現さなかったらしいよ」
ユーラは息をのむ。
「……師匠が最近調べていたのはこれだったんだ。」
「まあ、おそらく直接接触したノノの回復を待って話を聞けば、詳しく分かるかもしれないね。」
「未知の魔物か……俺はそいつと関係があるのか?」
ソードはぽつりと呟く。彼の拳が、無意識のうちにぎゅっと握りしめられた。
── 記憶の断片が、頭の奥でかすかに疼く。
森の奥、朽ちた木々、冷たい風。そして、闇の中からこちらを見つめる、何かの影──。
だが、それ以上の記憶は、どうしても掴めなかった。まるで霧の向こうに手を伸ばしているような感覚だった。
「……それは、まだ分からない。」
エルフィーは慎重に言葉を選んだ。しかし、その表情にはわずかな疑念が滲んでいる。
ソード自身も、自分の記憶が曖昧なことに苛立ちを覚えながら、自らの手をじっと見つめた。その掌には、何か馴染みがあるような、それでいて決して思い出せない違和感がこびりついている。
「もし俺が……そいつと関係しているなら……」
彼の呟きに、ユーラははっとしたように顔を上げる。
「何を言ってるの? ソードが魔物なわけないじゃん!」
彼女の声音には、強い否定と、わずかな動揺が滲んでいた。
「別に僕は君を加害者とは思っていないよ?」
エルフィーは淡々と言うが、その目は鋭くソードを観察していた。
「むしろ未知の魔物の被害者なんじゃないかな? 外傷がないのに記憶を失うのは、ストレスか魔法や呪術ぐらいだからね」
暖炉の火がもう一度、パチッと音を立てた。
ソードは拳を握ったまま、黙っていた。火の明かりが彼の横顔を照らし、揺らめく影が彼の目元に深い影を落とす。
夜の闇は深まっていく。しかし、それ以上に、彼の心を覆う霧は晴れることなく、ますます濃くなっていくようだった。