第2話 夜の宿屋にて
ソードたちの会話が一段落した頃、宿の扉が静かに開き、外の冷たい夜風とともにエルフィーが姿を現した。宿屋は酒場としても営業しており、笑い声や杯を交わす音が響き渡っている。その賑やかな喧騒の中でも、エルフィーの銀髪は薄明かりの中で一際目を引いた。
顔には微かな疲れが滲み、肩にかかった髪を指先で払う仕草に、静かな安らぎを求める様子が表れている。夜露を帯びたマントが床を掠め、彼の到着を知らせるように微かな湿った音を立てた。
「ごめん、ユーラ。遅くなった。」
男性にしては高めの声が、喧騒を掻き分けるようにして耳に届いた。その声には、どこか安堵と緊張が同居していた。
ユーラは椅子から立ち上がり、足早にエルフィーの元へ向かった。騒がしい空間の中でも、彼女の心配と安堵が入り混じった視線はエルフィーをしっかり捉えている。
「大丈夫? さっき運ばれた人は無事だったの?」
エルフィーは一瞬だけ目を閉じ、深呼吸をした。その表情には慎重さが漂い、まるで言葉を選び抜くような仕草だった。
「誰が処置をしたのかはわからないけれど、応急処置が適切だったから、命に別状はないよ。でも、深手だった。しばらく安静が必要だね。」
彼の言葉に、ユーラは胸をなでおろし、安心したように柔らかな笑顔を浮かべた。けれどその瞳には、まだ僅かに不安の影が揺れている。
「そっか……良かった。森の警備を担当してた人って話だけど、一体誰だったの?」
エルフィーは微かに口元を引き締めた。その目には、沈痛な思いが滲んでいる。
「ああ、怪我をしたのはノノだよ。彼女も決して弱くはないのに、あの傷は……あ、いや、ちょっと言い過ぎたね。」
その声には躊躇が含まれており、彼は気まずそうに視線を逸らした。
視線を転じた先には、静かに話を聞いていたソードの姿がある。エルフィーは少し顔を引き締め直し、話題を切り替えた。
「それより、診察が中断された彼を診てあげよう。ところで母さ、いや、ティックは?彼の診察の為に部屋を借りたいんだけど?」
ユーラは周囲の賑わいを気にするように少し声を落としながら答えた。
「えっと……ティックさんなら、父さんに頼まれて師匠のところにソードの剣を持って行ってるよ。父さんもさっき出て行ったから、今頃は師匠の家で落ち合ってると思う。」
エルフィーはその言葉に一瞬眉を寄せた。驚きとも落胆ともつかない表情が浮かび、薄い吐息が漏れた。
「師匠?ああ、ラバーさんね。そうか……あの剣、もう持って行かれちゃったんだ。」
彼は小さなため息をつきながら、視線を下げ、考え込むように続けた。
「記憶喪失のヒントになるかもしれないと思ってたんだけど……まぁ、もしあれが呪いの類だったなら、ラバーさんの方が安全なんだけどね。」
その声には未練が滲んでいたが、エルフィーはすぐに表情を整え、再びソードに向き直った。
「じゃあ、ティックが戻ってくるまで、簡単な問診を進めておこう。君も疲れているだろうけど、協力してくれるかな?」
エルフィーがそう言い終わると、ソードは一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐに頷いた。その目には僅かな不安が滲んでいるものの、エルフィーの真摯な態度に引き込まれるようにして答える。
「もちろん。記憶が戻るのに役立つなら、何だってやるよ。」
その言葉に、エルフィーの表情は少しだけ和らいだ。彼は安堵の笑みを浮かべると、さらに質問を続けた。
「ありがとう。じゃあ、まず君の名前について聞かせてほしい。何か思い出せることはある?」
ソードは少し俯きながら、まるで言葉を慎重に噛みしめるように答えた。
「いや、覚えていない。でも、ユーラがくれたソードという名前で今は名乗っている。」
その言葉を聞いたエルフィーは、少し首を傾げながらも柔らかい微笑みを浮かべた。
「ソードか。分かった。次からはそう呼ぶよ。」
彼は少し間を置いてから、視線をユーラに向けた。その瞳には、探るような色が宿っている。
「ユーラ、この名前は剣から取ったのかい?」
ユーラは少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら、それでもはっきりと頷いた。
「うん。ソードの黒い剣がとても特徴的だったから……最初に見た時からずっと気になってたの。」
エルフィーはその答えを聞くと、目を細めて少しだけ悩むような表情を見せた。
「あの剣は魔法剣の一種だと思う。でも、術式が複雑で性能までは分からなかった。」
その言葉には、剣への関心と、自分の調査不足への悔しさが滲んでいる。エルフィーの声が低くなると、ユーラも同じように視線を落とした。
「今頃、師匠が調べていると思うけど……詳しくわかるといいな……。」
ユーラの声は少し沈んでいたが、その中にはどこか希望が込められていた。
宿屋の喧騒が遠くに感じられるほど、三人の間に一瞬の静寂が訪れた。ソードは自分の胸元に目をやり、黒い剣がいかに自分の記憶の鍵になり得るかを思案しているようだった。
エルフィーはその様子をじっと見つめ、穏やかな声で締めくくった。
「安心してソード君。ラバーさんならきっと何か見つけてくれるさ。それまでに君自身のことも見ておこう。剣と同じくらい大事だからね。」
ソードはその言葉に肩の力を抜き、穏やかな表情を浮かべた。そして、宿の一角で続く彼の問診は、静かに進んでいった。