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リイの声が、はっきりと耳に届いた。シイェは手にしたグラスをそのままに、妻の元へ歩み寄る。
「愛されたかった」
全ては、ツァオの命令だった。元は自身の顔でもある。
シイェに選ぶ余地はなかった。
いくら顔をジンに寄せても、彼の魅力は中から滲み出る性格や言動にある。顔が似ているだけに、余計に彼との差が目立ち、リイに距離を置かせたのではないか。
もし、フオのように全く違った顔を選べたら、彼自身として愛されただろうか。
「もう、済んだことだ」
何もかも、手遅れだった。初めてツァオに仕えた時から、道は定まっていたのかもしれない。
シイェは手にしたグラスをリイへ近付けた。妻の目が大きく見開かれ、一瞬、結婚した頃の輝きを取り戻したように見えた。
「さあ、これをお飲み」
妻の目が焦点を失った。乾いた唇が力なく開く。シイェは唇を湿らそうと、グラスの端を付けた。
「ユア」
聞き取れた単語の欠片が、彼の手に力を込めさせた。グラスの中身が、彼女の口の中へ流れ込んでいった。
一番の原因は何かと言えば、ファンが裏切ったことに尽きた。
如何にヨオンが疑義を挟もうと、侍医である彼が、検死報告を誤魔化せば済むことだった。
ついでにファンは、ユアンの死体まで掘り起こして、彼もまた毒殺されたことを証明したのである。
尤も彼としては、裏切ったつもりはないのだろう。
「使用痕跡が明白なため、愚者の毒、とも呼ばれます。仮にドゥオ国の命令で暗殺するならば、もっとマシな薬を使ったでしょうな」
ファンは、証言台で陰鬱に語ったものである。シイェはこれを聞いて、なるほど、と納得したのだった。
ツァオは、シイェ一人に罪を被せるため、敢えてわかりやすい毒をフオに用意させたのだ。
もしかすると、ヨオンの疑義も、更にはユアンの毒殺さえも、彼に仕組まれたものかもしれなかった。
ツァオあるいはサパのシナリオは、シイェが領主の地位を得るため、ユアンを殺害してリイと結婚し、ユアン殺しを悟られたため、リイも殺した、というものだ。粗だらけの筋書きである。
しかし、大衆が気に入った。たちまち吟遊詩人が各々のアレンジで歌い出し、旅回りの一座が劇を披露すると、押すな押すなの人気となった。
貴族が足を運ぶ劇場でも、登場人物の設定を変えて脚本を大急ぎで仕立てており、近々上演の運びとの噂だ。
シイェの裁判は、ハルワの都で行われた。本家本元であるこちらへも、見物人は殺到した。
彼はドゥオ国の貴族であり、領主の夫でもあった。司法の場に、平民は立ち会えない。締め出された扉の向こうに息付く、好奇に駆られた大衆の存在を感じながらの裁判となった。
「判決。被告人を、ハルワ国より永久追放とする」
ハルワの裁判官は、大衆よりも現実的であった。ユアンの死因がリイと同じであることを認めつつも、当時の状況からシイェが彼の死に関与することは難しい、と判断し、リイの死についてのみ有罪としたのである。
単に、ドゥオ国の貴族を処刑する問題を避けるために、引き算をしただけかもしれない。領主を二人も殺害したとあっては、どこの貴族であろうと厳罰に処さねば、国の体面に関わる。
本来ならば、殺した相手が一人でも、処刑に値する罪である。
追放で済んだのは、ドゥオ国との外交問題に加え、息子のリュウが告発者であったことも関係する。
リュウはリイの子でもあるが、シイェの子でもあるのだ。そして、次のサパ領主として期待される身でもあった。
シイェは己が死刑とならなかったことよりも、リュウの潔白が信じられたことの方に、安堵を覚えた。
真実、息子は知らなかったのである。
母の急死によって、リュウはサパ領主に就任した。その騒ぎも落ち着かないうちに、父の殺人容疑が持ち上がったのだ。心労は並大抵のことではない。
隠蔽する道もあった。リュウは告発を選んだ。ドゥオ国の思惑を知った今では、息子の選択に感謝の念すら覚えた。
彼が隠蔽を選んだら、ツァオは別のシナリオを採用したであろう。そのシナリオには、リュウが退場する未来が描かれていた筈である。
シイェは、無骨な鉄棒の隙間から、窓の外を眺めた。護送用の馬車には、窓に鉄格子が嵌っていた。
町を抜けると、畑や牧草地が姿を現す。今の季節は、ちょうど草木が色を変える時だった。
あの温かみのある緑色を最後に見る事ができないのは、残念だった。しかし、シイェは枯れ草が黄金色に見えるこの景色も好きだった。
「長い間、ご苦労だった」
ドゥオ国へ戻されたシイェは、ツァオの別邸へ案内された。
てっきり牢へ入れられるものと思っていた彼は、肩透かしを食らった気分だった。
故国は変わらず殺風景だった。白、黒、灰色で構成された世界。まだ雪の少ない時分で、枯れた枝が折れかかってぶらぶらと揺れるのを目にすると、己の人生の先行きを暗示されたように感じた。
それだけに、豪壮な建物の、バネの効いたソファへ座らされたシイェの戸惑いは、大きかった。
ツァオは別邸にも、本邸と変わらない調度を整えていた。
「周到にお膳立ていただきましたのに、しくじりまして申し訳ありません」
シイェは謝罪した。
「何。しくじりと言うほどのことはない。サパに、わが国の血を引く後継者を送り込み、将来に禍根を残さないための仕事も遂行した。正直なところ、お前にここまでの事が成せるとは、予想外だった」
ツァオは、酒瓶とグラスを出してきた。久々に対面する彼は、寄る年波にも負けず、年齢なりの美しさを保っていた。
「今後、ハルワ国への入国は叶いません。他国ではありますが、有罪判決を受けたことで、国内でも公的な活動は難しいでしょう。私に、次の仕事はあるのでしょうか?」
グラスに酒が注がれる。透明な酒だった。ドゥオ国では一般的な、強い酒である。たちまち香りが辺りにたち込めた。
懐かしい。サパでは好まれず、シイェもしばらく遠ざかっていた。
「まずは、休むと良い。先のことは、それから考える」
ツァオがグラスを掲げる。シイェも倣った。習慣に従って、一気に飲み干す。
「ぐぼっ、がっ、あっ」
焼けるような痛みに、グラスを取り落とした。分厚い絨毯に転がったグラスは、ことりとも音を立てない。
シイェもまた、その側へ膝をついた。すぐに姿勢が保てなくなり、床へ横たわった。
「苦しそうだな。話と違うではないか。せっかく私が手ずから引導を渡してやったというに」
ツァオの声が聞こえた。シイェは吐くことしかできない。しかし、背後から人の近付く気配は感じられた。
「死ぬ時には、誰しも通る道です」
聞き覚えのある声だった。フオ、ではない。ジンでもない。
「ツェ、ごぼっ」
血の塊が、絨毯を汚した。まずいな、と反射的に考え、その考えに心のうちで苦笑する。苦痛は続いているが、己とは別のもののような、どうでも良いような気持ちがあった。
「うむ。正解だ。お前は、最期まで楽しませてくれる。シイェ、よくやったぞ」
ツァオの声が、厚いカーテンを隔てたようにぼんやりと聞こえた。誰かがしゃがみ込むのを感じた。
「俺は、ずっと側にいながら、リイを抱くのを我慢していたんだ。お前は、あいつとの間に子供まで作りやがって。俺の顔を使って、十分楽しんだだろ。あいつは、俺に惚れていたんだ。お前じゃない」
ツェンの声が降ってきた。フオは整形して、再び昔の名前に戻ったのだ。ヨオンに怪しまれ、手を引いたのだろうか。
リュウが、彼の、否、ツァオの毒牙にかからねば良いが。もう、シイェには時間がない。それよりも。
「ユア」
リイが心底愛したのは、最初の夫ユアンであって、ジンではない、とツェンに教えてやりたかった。彼女が最期に呼びかけたのは、間違いなく彼の名前だった。
ツェンの悔しがる顔を見て死にたい。だが、彼が真実を知らないまま生きていくのも、面白いかもしれない。
シイェは背後から、その間抜けな姿を見て笑いながら漂うのだ。
ワ教で死後の魂がどのように扱われるか、シイェは忘れてしまった。どのみち、心からの帰依ではなかったのである。イル教を率いたリイと会うこともあるまい。
唯一絶対神は、彼の魂には触れないであろう。
終わり