表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/87

 リイの声が、はっきりと耳に届いた。シイェは手にしたグラスをそのままに、妻の元へ歩み寄る。


 「愛されたかった」


 全ては、ツァオの命令だった。元は自身の顔でもある。

 シイェに選ぶ余地はなかった。

 いくら顔をジンに寄せても、彼の魅力は中から(にじ)み出る性格や言動にある。顔が似ているだけに、余計に彼との差が目立ち、リイに距離を置かせたのではないか。


 もし、フオのように全く違った顔を選べたら、彼自身として愛されただろうか。


 「もう、済んだことだ」


 何もかも、手遅れだった。初めてツァオに仕えた時から、道は定まっていたのかもしれない。

 シイェは手にしたグラスをリイへ近付けた。妻の目が大きく見開かれ、一瞬、結婚した頃の輝きを取り戻したように見えた。


 「さあ、これをお飲み」


 妻の目が焦点を失った。乾いた唇が力なく開く。シイェは唇を湿らそうと、グラスの端を付けた。


 「ユア」


 聞き取れた単語の欠片(かけら)が、彼の手に力を込めさせた。グラスの中身が、彼女の口の中へ流れ込んでいった。



 一番の原因は何かと言えば、ファンが裏切ったことに尽きた。

 如何にヨオンが疑義を挟もうと、侍医である彼が、検死報告を誤魔化せば済むことだった。


 ついでにファンは、ユアンの死体まで掘り起こして、彼もまた毒殺されたことを証明したのである。

 (もっと)も彼としては、裏切ったつもりはないのだろう。


 「使用痕跡が明白なため、愚者の毒、とも呼ばれます。仮にドゥオ国の命令で暗殺するならば、もっと()()な薬を使ったでしょうな」


 ファンは、証言台で陰鬱(いんうつ)に語ったものである。シイェはこれを聞いて、なるほど、と納得したのだった。

 ツァオは、シイェ一人に罪を被せるため、敢えてわかりやすい毒をフオに用意させたのだ。

 もしかすると、ヨオンの疑義も、更にはユアンの毒殺さえも、彼に仕組まれたものかもしれなかった。


 ツァオあるいはサパのシナリオは、シイェが領主の地位を得るため、ユアンを殺害してリイと結婚し、ユアン殺しを悟られたため、リイも殺した、というものだ。粗だらけの筋書きである。


 しかし、大衆が気に入った。たちまち吟遊詩人が各々のアレンジで歌い出し、旅回りの一座が劇を披露すると、押すな押すなの人気となった。

 貴族が足を運ぶ劇場でも、登場人物の設定を変えて脚本を大急ぎで仕立てており、近々上演の運びとの噂だ。


 シイェの裁判は、ハルワの都で行われた。本家本元であるこちらへも、見物人は殺到した。

 彼はドゥオ国の貴族であり、領主の夫でもあった。司法の場に、平民は立ち会えない。締め出された扉の向こうに息付く、好奇に駆られた大衆の存在を感じながらの裁判となった。


 「判決。被告人を、ハルワ国より永久追放とする」


 ハルワの裁判官は、大衆よりも現実的であった。ユアンの死因がリイと同じであることを認めつつも、当時の状況からシイェが彼の死に関与することは難しい、と判断し、リイの死についてのみ有罪としたのである。


 単に、ドゥオ国の貴族を処刑する問題を避けるために、引き算をしただけかもしれない。領主を二人も殺害したとあっては、どこの貴族であろうと厳罰に処さねば、国の体面に関わる。

 本来ならば、殺した相手が一人でも、処刑に値する罪である。


 追放で済んだのは、ドゥオ国との外交問題に加え、息子のリュウが告発者であったことも関係する。

 リュウはリイの子でもあるが、シイェの子でもあるのだ。そして、次のサパ領主として期待される身でもあった。


 シイェは己が死刑とならなかったことよりも、リュウの潔白が信じられたことの方に、安堵を覚えた。

 真実、息子は知らなかったのである。


 母の急死によって、リュウはサパ領主に就任した。その騒ぎも落ち着かないうちに、父の殺人容疑が持ち上がったのだ。心労は並大抵のことではない。


 隠蔽する道もあった。リュウは告発を選んだ。ドゥオ国の思惑を知った今では、息子の選択に感謝の念すら覚えた。

 彼が隠蔽を選んだら、ツァオは別のシナリオを採用したであろう。そのシナリオには、リュウが退場する未来が描かれていた筈である。


 シイェは、無骨な鉄棒の隙間から、窓の外を眺めた。護送用の馬車には、窓に鉄格子が(はま)っていた。

 町を抜けると、畑や牧草地が姿を現す。今の季節は、ちょうど草木が色を変える時だった。

 あの温かみのある緑色を最後に見る事ができないのは、残念だった。しかし、シイェは枯れ草が黄金色に見えるこの景色も好きだった。



 「長い間、ご苦労だった」


 ドゥオ国へ戻されたシイェは、ツァオの別邸へ案内された。

 てっきり牢へ入れられるものと思っていた彼は、肩透かしを食らった気分だった。


 故国は変わらず殺風景だった。白、黒、灰色で構成された世界。まだ雪の少ない時分で、枯れた枝が折れかかってぶらぶらと揺れるのを目にすると、己の人生の先行きを暗示されたように感じた。

 それだけに、豪壮な建物の、バネの効いたソファへ座らされたシイェの戸惑いは、大きかった。

 ツァオは別邸にも、本邸と変わらない調度を整えていた。


 「周到にお膳立ていただきましたのに、しくじりまして申し訳ありません」


 シイェは謝罪した。


 「何。しくじりと言うほどのことはない。サパに、わが国の血を引く後継者を送り込み、将来に禍根を残さないための仕事も遂行した。正直なところ、お前にここまでの事が成せるとは、予想外だった」


 ツァオは、酒瓶とグラスを出してきた。久々に対面する彼は、寄る年波にも負けず、年齢なりの美しさを保っていた。


 「今後、ハルワ国への入国は叶いません。他国ではありますが、有罪判決を受けたことで、国内でも公的な活動は難しいでしょう。私に、次の仕事はあるのでしょうか?」


 グラスに酒が注がれる。透明な酒だった。ドゥオ国では一般的な、強い酒である。たちまち香りが辺りにたち込めた。

 懐かしい。サパでは好まれず、シイェもしばらく遠ざかっていた。


 「まずは、休むと良い。先のことは、それから考える」


  ツァオがグラスを掲げる。シイェも(なら)った。習慣に従って、一気に飲み干す。


 「ぐぼっ、がっ、あっ」


 焼けるような痛みに、グラスを取り落とした。分厚い絨毯に転がったグラスは、ことりとも音を立てない。

 シイェもまた、その側へ膝をついた。すぐに姿勢が保てなくなり、床へ横たわった。


 「苦しそうだな。話と違うではないか。せっかく私が手ずから引導を渡してやったというに」


 ツァオの声が聞こえた。シイェは吐くことしかできない。しかし、背後から人の近付く気配は感じられた。


 「死ぬ時には、誰しも通る道です」


 聞き覚えのある声だった。フオ、ではない。ジンでもない。


 「ツェ、ごぼっ」


 血の塊が、絨毯を汚した。まずいな、と反射的に考え、その考えに心のうちで苦笑する。苦痛は続いているが、己とは別のもののような、どうでも良いような気持ちがあった。


 「うむ。正解だ。お前は、最期まで楽しませてくれる。シイェ、よくやったぞ」


 ツァオの声が、厚いカーテンを隔てたようにぼんやりと聞こえた。誰かがしゃがみ込むのを感じた。


 「俺は、ずっと側にいながら、リイを抱くのを我慢していたんだ。お前は、あいつとの間に子供まで作りやがって。俺の顔を使って、十分楽しんだだろ。あいつは、俺に惚れていたんだ。お前じゃない」


 ツェンの声が降ってきた。フオは整形して、再び昔の名前に戻ったのだ。ヨオンに怪しまれ、手を引いたのだろうか。

 リュウが、彼の、否、ツァオの毒牙にかからねば良いが。もう、シイェには時間がない。それよりも。


 「ユア」


 リイが心底愛したのは、最初の夫ユアンであって、ジンではない、とツェンに教えてやりたかった。彼女が最期に呼びかけたのは、間違いなく彼の名前だった。


 ツェンの悔しがる顔を見て死にたい。だが、彼が真実を知らないまま生きていくのも、面白いかもしれない。

 シイェは背後から、その間抜けな姿を見て笑いながら(ただよ)うのだ。


 ワ教で死後の魂がどのように扱われるか、シイェは忘れてしまった。どのみち、心からの帰依ではなかったのである。イル教を率いたリイと会うこともあるまい。

 唯一絶対神は、彼の魂には触れないであろう。


終わり

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ