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 我が子とは、これほど可愛いものなのか。

 リアンとの接触で子供が苦手と自覚していたシイェは、我ながら驚くほど息子に愛情を感じた。

 彼はリュウと名付けられた。


 また、彼はほとんど人見知りをせずに育った。子供には、誰しもそのような時期があると学んだのに、早速例外に当たったのだ。シイェには、嬉しい例外だった。


 対照的に、リアンはますますシイェから遠ざかった。彼が義理の父であることは、理解している。嫌われてはいない。嫌われるほどの接触がないのだ。


 元々慎み深い性格で、部屋へ引きこもりがちだった。幼い頃には行き来した貴族の子弟とも、長じて交流が途絶えつつある。


 未だ婚約者を決めずにいるのは、彼女が次期領主となる可能性があるからだ。

 リュウが健やかに育つにつれ、シイェはリイの考えが気になってきた。


 順当に行けば、リアンが次の領主である。ただ、彼女はリイの実子ではない。リアンが産んだ子が更に次の領主となれば、リュウの出る幕がなくなる。


 一番良いのは、リュウとリアンが結婚することだ。だが、公的に二人は同じ母から生まれた姉弟となる。結婚は許されない間柄であった。


 「リアンは、修道女の方が向いているかもしれない」

 

 ある時、ふとリイが漏らした言葉に、シイェは安心したものであった。

 リアンもまた、リイの言葉に従うように、ワ教の経典などを好んで読んでいた。

 そしてリュウは、領主としての教育を受けるようになった。



 「シイェ様。こちらは、フオと申しまして、商人ですが、なかなか使える男です」


 貴族のパーティで紹介を受けた時、二人共に初対面のふりをした。

 まともに顔を合わせたのは、久々のことであり、容易なことだった。


 フオはすっかり商人となりきっていた。それも、声を聞かれない場に来るまでのことだった。


 「近いうちに訪ねる。寝る時は、窓の鍵とカーテンを少し開けておけ」


 その顔に、ツェンとジンの面影が読み取れた。シイェは不安を覚えた。


 「何を‥‥?」


 「ご心配には、及びません。私どもは、正直な商売をしておりまして。人との繋がりが、一番の財産ですよ。これはこれはヨオン様。奥方のペン様には毎度ご贔屓(ひいき)いただきまして、ありがとう存じます。シオン様も今日はご一緒でしょうか?」


 急に商人の顔に戻ったフオは、シイェの背後へ笑いかけた。音もなく忍び寄ったのは、重臣のヨオンであった。


 「いいや。今日は息子はいない。フオ殿には、妻が世話になっている。いささか、なり過ぎる気もしないでもない」


 ヨオンは愛想笑いを浮かべていたが、その奥にある苦さを消しきれなかった。フオは、一段と笑みを濃くした。


 「きちんとお代は、いただいておりますよ。私どもも、商売でございますからね」


 お代は金ではないのだ。ヨオンは不貞を疑っているのかもしれない。シイェは、フオが重臣の妻に取り入り、体の関係はさておき、彼女から情報を得ていることを確信した。


 サパへ婿入りして以来、ドゥオ国との非公式な接触はほとんどなかった。兄や友人と称する人物と手紙のやり取りで、さりげなく情報を流したり、指示を受けたりする程度である。


 シイェは様々な集まりへ顔を出し、それぞれの内情にも精通するほどになったが、そもそもサパにはツァオが欲しがるような材料が転がっていなかった。

 ドゥオ国と比べると、ハルワの辺境サパは平和であった。


 彼に与えられた最大の任務は、リイとの間に子をなすことであった。

 それはシイェ自身も望むところで、喜んで任務を果たしたのだ。


 ハルワ国とドゥオ国の関係は良好である。国境を接するサパとの交流も、自然な形で行われている。

 シイェは、こうした平和工作のために、一身を犠牲にして婿入りしたのだと考えていた。


 フオは、宗派の分裂や襲撃といった、表沙汰に出来ない工作をこれまで担ってきた。その彼が、シイェと密かな面会を求めてきたのだ。

 まともな話である筈がない。


 「おお、ヨオン様。こちらにいらっしゃいましたか。おや、シイェ様も。お二方がこんな隅にいらしては、他の者が居所に困りますよ」


 主催者が目ざとく近寄ってきて、フオと二人を引き離した。シイェは、ほっと息をついた。



 カーテンが風にはためいたかと思うと、フオが窓の内側に立っていた。

 シイェはあれから、眠りが浅くなっていた。風の音でも眼を覚ます。


 部屋の明かりは消してある。カーテンの隙間から射す星の光だけが、室内を照らす。フオは闇に溶け込んでいた。


 「久しぶりだね」


 囁くシイェの声が、意思に反して震える。友好的な雰囲気の演出に、出だしから(つまず)いてしまった。

 ふふっ、とフオの笑う声がした。


 「そう、(おび)えなくたって良いじゃないか。俺は昔から変わらないよ。それとも、君僕で呼び合う間柄だったかな? もう、忘れてしまった」


 闇に慣れてきた目に、近付くフオの姿が映った。彼はシイェの寝台まで来て、そこへ腰掛けた。


 「ジアの件では、世話になったな。あれには少々手こずらされていたんだ」


 リイの出産に紛れ込み、危うく母子共に殺害しかけた犯人である。女装の巧みな、と言うよりも、男の体を持った女であった。


 ジンを愛していたと思われる彼女の心は、壊れていた。だから、取り調べでリイがイルだとか言い始めても、誰も真剣に取り上げなかった。


 調書を読んだシイェは、リイが政務に復帰する前に、こっそりその部分を処分した。

 ジアはシイェをジンと信じたまま、処刑された。


 「リイは、息災だな。遠くから見る分には、ちっとも変わらない」


 「昔話をしに来たのでは、ないのだろう?」


 シイェは、用件を促した。妻を呼び捨てるフオに、二人の距離の近さを感じた。面白くなかった。

 フオは、懐から袋を取り出し、シイェの前へ置いた。

 目顔で開けてみろ、と言われて中身を見た。


 「これは?」


 ガラスの小瓶だった。中に雪の結晶のような塊が入っていた。銀色の小匙(こさじ)も付いている。


 「一日ひと匙一回。水か油に溶かしてリイに飲ませろ。無理なら毎日でなくとも良い。直に触れないよう注意しろ」


 シイェの心臓が早鐘(はやがね)を打ち始めた。


 「何故?」


 聞くだけ無駄なことはわかっていた。命令の根拠を説明するかどうかは、ツァオ次第であり、フオが理由を知るとは限らない。


 「もう、随分前から催促されていた」


 フオの口から出た言葉の意味を、シイェはすぐには掴みかねた。


 「息子も、そろそろ政務を扱えるようになったな。あまり育ち過ぎて、ユアンのようになられても困る。これ以上は、引き延ばせない」


 「ツァオ。君は」


 シイェは、半ば背を向けた彼に手を伸ばした。


 「俺はフオだ」


 顔を向けたフオの目が、涙で光っているように見えた。


 「お前がやらなければ、他のやり方を取る。これが一番穏当なんだ。場合によっては、息子も巻き添えになりかねん」


 「もしかして、リアンが修道院へ入る前、事故に遭わせようとしていた?」


 彼女が幼い頃、頻繁に落石に遭っていた。リイは城の修理が行き届かないせいにしていたが、リアンの遭遇率は突出して高かった。


 シイェの突飛な問いにも、フオは意を汲んで正確に応じた。


 「事故なら、いつ誰が遭ってもおかしくない」


 シイェは瓶を袋へしまった。


 「そうだな。だが、事故に備えることはできる」


 「その通り」


 フオは立ち上がった。シイェの覚悟を読み取ったようだった。

 彼は来た時と同様、音もなく去った。



 シイェは毒に詳しくない。このような仕事をするのは、初めてのことである。

 よって、加減が分からなかった。

 フオは、その後も薬の切れるタイミングで訪れては、投与量を指示していった。


 慣れるにつれ、シイェの心から、後ろめたさや良心の(とが)めという責めが薄れてきた。毎日の日課として、リイの飲食物へ結晶を混ぜ込むことは、単なる作業となった。


 また、リイがフオの見込み以上に体を持ち堪えさせたことも、シイェの慣れに加担した。

 リイがとうとう倒れた時、シイェは我ながら真摯(しんし)に驚き、慌てふためいたのだった。


 息子のリュウに後の仕事を任せ、侍医を呼び、リイを寝室へ運び込ませ、人払いをし、自らは部屋に付き添うまで、夢中で行った。

 侍医がリイを診察にかかったのを確認し、ふと腰を下ろして我に返った次第である。


 侍医のファンは、かつてシイェにジンの面影を宿らせた張本人であった。つまり彼は、ドゥオ国と繋がりがある。

 それでいて、シイェが見るところ、彼はドゥオ国のためにばかり働いている、という訳でもなさそうだった。


 侍医でありながら、今でも市井の医師と同様に街へ往診を認められ、貴族と庶民の区別もなく診療する。

 医師としてのずば抜けた技量もさることながら、広い人脈によって、己の自由を担保するようにも思われた。なかなか食えない人物である。


 その彼に、リイを診察させるのは、こうなって以来初めてのことだ、とシイェは遅まきながら気付いた。リイも不調に気付いていたであろうに、受診した様子もなかった。

 急いで床へ駆けつけた時には、ファンは診察を終えて帰り支度をするところだった。


 「ファン先生、妻は大丈夫でしょうか」


 「そうですね」


 ファンは、つらつらともっともらしい理由と対処法を並べ立てたが、その言葉は上滑りしていた。

 彼の目は、シイェを冷静に観察し、彼に対しても無言の診断を下した。

 シイェは思わず目を伏せた。


 良心の咎めよりも、暴露や取引を持ちかけられる恐れから、彼はファンを部屋の外まで見送った。


 「先生」


 「ほぼ、手遅れかと存じます」


 それ以上、何の(ほの)めかしもなく、侍医は去った。シイェはほっとして、リイの側へ戻った。

 改めて見ると、妻は随分と衰えていた。こんな風になるまで、一人で苦労してきたのだと思うと、愛しさが込み上げる。


 「やっと、リュウが一人前になってきたというのに」


 シイェは、リイをそっと抱きしめた。腕の中のリイは、抱きしめ返す力も出ないようだった。その弱々しさが、初めて彼女を見た時のときめきと結びつく。あの時の彼女は、凛として強く見えたのに、不思議なことだった。

 美しい思い出が心の底をかき乱すようで、シイェは落ち着かない。


 「水を持って来てあげよう」


 いつもの手順で水を用意し、出来上がったグラスを手にするまでの間、シイェは何も考えずに動いていた。

 つい、習慣のまま、()()を入れ込んでしまった。今からでも、水を換えた方が良いのではないか。


 「何故、その顔を選んだの?」

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