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ヨオン夫妻とは、すぐに立ち別れた。
「そう来たか。果たして隠し仰るものかな」
ツァオは、ヨオン夫妻の姿が人々の背に紛れて見えなくなるまで、見送っていた。
彼の言葉から、シイェはリイの身に何かが起きたことを悟った。
正確には、ツァオが異端宣告を受けたリイに、何かをしたのだ。
リイが処刑された、という話は聞かない。
平民なら、異端の認定を受けて即座に処刑されることも普通のことで、逐一周知しない。扱いは、ハルワ国でもドゥオ国でも同じである。
ワ教はハルワ国で絶大な権威を持つ。とはいえ、異端とされた領主の娘をすぐさま殺すほど絶対の権力は持たない。リイは今や、領主の妻でもある。もし処刑したならば、人の口に戸は立てられないだろう。
しかし、領主の娘であろうと妻であろうと、法王から異端とされてお咎めなしのままではいられまい。
恐らく、牢屋代わりの部屋へ蟄居の形をとっているに違いない。ヨオンは現に、そのように示唆した。
異端の告発自体も、ツァオが仕組んだかも知れない。だが彼の呟きは、それ以外の何かを匂わせていた。
気になる。非常に気になる。
もちろん、ツァオには聞けない。
そのうち、ツァオはアン領主との面会に呼ばれて行ってしまった。その場に同席するのは、彼の側近である。シイェは、そこまでの立場ではない。
「楽しんでおけ」
ツァオに言われたら、何かせずにはいられない。シイェは、あてもなく会場を歩き始めた。
あの色気のある踊り子が、歩いていた。踊っていない彼女は、少年のような体つきである。本当に、少年なのではあるまいか。
目を凝らしたシイェに、ジンの姿が飛び込んだ。
「ジ」
危うく呼び止めるのを堪えたシイェを、彼が一瞥する。その目が笑いを含んでいるように、見えた。
言うまでもなく、彼は仕事中なのだ。ツァオから特に指示がなかった以上、接触は避けるべきである。
そんなシイェの気遣いは、次の瞬間に吹き飛んだ。
ジンと踊り子から少し遅れ、彼らの雇い主を気取る紳士が付いてきていた。彼の顔は、リイを思わせた。
否。彼はまさしくリイであった。
どういうことだ? シイェは混乱する。
リイはサパ領主の妻である。しかるに目の前の彼女は、男の格好である。顔も、ジンのように整形まではしていないが、別人に作り込んでいた。
パッと見には、ヨオンでも見分けがつくまい。
リイは、ワ教法王から異端と断ぜられた身である。当然、このような華やかな公の場に、出席する資格はない。
それも、シイェには大した問題ではなかった。
一番の困惑は、リイがジンと行動を共にしていることであった。ジンの顔は、シイェのそれである。彼は、リイに対して、どのような態度で接しているのだろう。
二人の関係は何なのか。
シイェは何もかも忘れて、駆け寄ろうとした。
「シン様」
近付くシイェの気配よりも先に、密やかな声がリイの注意を引いた。呼びかけたのは、アン領主の召使いである。
彼女は男装するだけでなく、男として別名を名乗っていた。
シイェの足が止まった。別人を装う彼女に、ジンと同じ顔を持つ己が、どのように声をかけたものか、思いつかなかった。
「ここにいたか」
声に目を向けると、ツァオが戻っていた。彼の目は、去り行くリイの背中を追っていた。
「どうだ。楽しめたか?」
「はい」
シイェは問いを呑み込んだ。
ツァオは、リイがジンと行動を共にしていることを知っている。彼に説明をしないならば、知る必要のないことなのだ。
それからシイェは再び、屋内の仕事へ戻った。扱う書類は格段に増えた。
実家はとうに代替わりした。兄の代になってから、縁談も来ない。
シイェは特段気にならなかった。仕事で十分に忙しく、この上妻の機嫌を取らねば、と考えただけで足が震えた。まして、子供となると、どのように相手をしたものか、想像もつかない。
全て、共に働く同僚や先輩から聞いた話に基づいている。
彼にとって、結婚は重荷でしかなかった。
ここのところシイェが気になるのは、ハルワ国を中心に広がりを見せる、ワ教の亜流であった。彼らはイル派と名乗るが、法王はワ教と認めず、イル教と区別して呼ぶ。
だが、そのイル教対策として、わざわざ司教クラスを各地へ派遣しているのである。イル教とワ教の関連を自ら認めたようなものだ。
実際、イル教を信奉する者は、自らをワ教信者と認める者も多いと言う。
シイェから見ても、イル教とワ教の違いは不分明であった。
ツァオの扱う書類に、何故イル教の動向が含まれるのか。
ドゥオ国には、国教がない。
各自で何を信仰しようと、自由である。体制を揺るがさない限りは。
すると結果的に、神を崇める宗教そのものを、抑え込むことになるのである。
何故なら、神は常に体制よりも上に位置する存在であるから。
信仰を深めれば深めるほど、そのように考えざるを得ない。
シイェ自身は、ドゥオ国貴族らしく、何らの神も信じていなかった。
彼の見る限り、ツァオにも特定の宗教への帰依は感じられない。その彼が、イル教に関する資料を集めることに、まず興味が行った。
次に、イル教の中心人物が、イルと言う名であるらしいこと、恐らくジンが関与しているらしいことが引っかかった。
いつか、アンで見かけたジンと男装のリイを思い出す。イルとリイの名が似ていると感じるのは、こじつけ過ぎであろうか。
「くっ、ユアンめ。やりおった」
シイェの取り次いだ書類を読んで、ツァオが押し殺した声を出した。その目が怒りに燃えるのを見て、彼は身震いした。
「驚かせたな。ジンを呼ぶ手配をしろ。次の手を打たねばならぬ」
ツァオは、シイェの顔を見て落ち着きを取り戻した。近頃では、シイェの顔が鎮静剤代わりの役目を果たすように思えることも、あった。
本人としては、複雑な気持ちである。
差し出した書類に書かれていたのは、サパ領主ユアンに、リイとの娘として女児が誕生したと発表された、と言う一文である。
リイは異端を宣告されてから、表舞台に出て来ない。時には、いつか見かけたように、お忍びで他出することもあろうが、ユアンの妻であることに変わりはない。
夫婦の間に子が生まれることもあろう。蟄居にあっても、夫の訪問まで禁じはすまい。
宗教に疎いシイェは、異端で謹慎中のリイを、入院中の患者のように捉えていた。
ここで再びシイェは、リイとジンが一緒にいたことを思い出した。
サパ領主の妻が、ツァオの部下と何故共にいる?
同じ場にいた臣下のヨオン夫妻は、そのことを知らない様子だった。
お忍びにしても、臣下でなくドゥオ国の者が側につくのは、おかしなことであった。
シイェは、ツァオの言葉を思い出した。
ヨオンは何を隠しているのか。




