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 山を一つ越えるだけで、こんなにも景色が違うのか。

 シイェは、馬車の窓に顔を押し付けるようにして、サパの風景を眺めた。


 生まれ育ったドゥオ国の外へ出るのは、初めてであった。

 サパは、ハルワ国の辺境にあり、ドゥオ国と境を接している。両国を分つのは、(けわ)しい山脈であった。


 ドゥオ国は広い領土を持ちながら、標高の高い山や荒野の割合が多く、農業生産が振るわない。

 穀物が育つには、気候が寒すぎるのである。


 涼しい風が吹くこともある過ごしやすい夏は短く、一年で最も長いのは冬の季節であった。雪が積もる地域は、まだ恵まれている。春になれば、雪が溶けて豊富な水と共に、目覚めた大地を差し出してくれるからである。


 ただひたすら寒く、凍りついた大地は、気温が上がると泥濘(でいねい)と化すだけで、人の食べる植物を育てる力を持たないのであった。


 サパの緑は、柔らかい色だった。黄色味が多いのだ。太陽の色である。

 その柔らかな緑の中を、牛や馬、羊がのんびりと歩き回り、座り、草を食む。

 働く人々もまた、柔らかい表情を浮かべているように思われた。


 「気に入ったか?」


 対角に座る男から、声がかかった。シイェは、窓から顔を離した。


 「はい。暮らしやすそうな土地に見えます」


 「そうだな。だが、我が国から少々距離がある。川を掘削(くっさく)するか、山に穴を開けるか」


 「山に穴など開けたら、冷気がこの土地に吹き込みませんか?」


 「ははっ。面白い事を言う」


 男は上機嫌に笑った。隣に座る側近が、渋い顔でシイェを見る。言い過ぎたようであった。シイェの隣に座る青年は、我関せずの様子である。


 シイェに話しかけた男は、ツァオと言う。一族の当主である。

 一族はドゥオ国で有数の貴族であった。土地も金も権力も持っている。おこぼれに預かろうと群がる者は多く、当主の座に就くには同族間で激しい闘争を勝ち抜く必要があった。


 その競争を制したツァオは、そのまま国の政治においても大きな力を振るうことができた。現在の一族の繁栄の要である。


 シイェの家は、両親の婚姻により彼と縁が繋がっただけの、新参者である。血筋もツァオとは遠く隔たっている。わざわざ確認せずとも、ツァオとシイェがほぼ他人であることは、誰もが一見して理解できる。


 ツァオは見目も麗しかった。国の中枢を担う権力者だけでなく、その妻からの支持も彼の権力の一端を担っていた。

 対するシイェのそれは、凡庸であった。髪や目の色、顔形、どれをとっても人並みとしか評しようもない。


 不細工とまでは言えない。自身、ツァオを間近に見るまでは、貴族らしい顔とすら思っていたのだ。それは、家族や近い親族の他に、平民の使用人としか顔を付き合わせてこなかったからに過ぎなかった。


 いっそのこと、唇の厚さや、鼻の高さといった一部分で、美の基準から大幅に外れていれば、却ってそこを魅力に見せることもできたであろう。


 シイェには、そこまでの特徴もなかった。その上、隣に座る青年のように、美しいと人に感じさせる何かも持ち合わせなかった。


 彼もツァオの遠縁ということだった。名をツェンと言う。彼は、ツァオのような華やかさには欠けるが、美しく整った顔と肢体の持ち主だった。


 「サパがこの景色を維持できたのは、長年我が国が目の前の利益ばかり追い求めて、足元を見なかったおこぼれに預かったに過ぎない」


 ツァオが言った。


 「随分と、辛辣(しんらつ)ですね。これから、奴らの目を覚まさせに行くのですか?」


 ツェンが、シイェの思ったことを口に出したので、どきりとした。(もっと)も彼は、サパ領主に宣戦布告しに行くなどとは、微塵(みじん)も思い付かなかった。

 側近の眉間の(しわ)が、これまでになく深く刻まれた。


 「ツェンよ。私は、お前の頭脳を高く買っている」


 ツァオは、身を乗り出した。こうして並べて見比べると、ツェンも小綺麗なただの青年なのだ、とシイェにも理解できた。


 「だが、それほどの才能も、高慢によって容易く地上から消え去ることを、忘れるな。そこのシイェを見習え。私の言葉が理解できぬ程度の才ならば、いつでも(ただ)のポンに戻してやっても良いのだぞ」


 青ざめたツェンを前に、ツァオは笑顔のまま言葉を継ぐ。


 「誰かに夢を見させておくのも、誰をいつ起こすのかも、私が決める」


 「承知しました、ツァオ様」


 馬車の中は、それきり静かになった。ツァオは、口元に微笑を残したまま、窓の外を見るともなしに眺め出した。


 ツァオがツェンに見習うよう命じたからと言って、シイェのツェンに対する印象も、己の評価も変わらなかった。

 美しい外見に加え、ツァオも認める優れた能力を持つ彼と、外見も中身も凡庸な己が、何故一緒に国境を越える仕事に就いたのか、ますます疑問が膨らんだ。


 シイェは、ツァオがそのうち説明してくれないものか、と期待したが、叶わぬうちに馬車が止まった。



 サパ領主のライは、シイェからすると、あまり貴族らしくない気さくな雰囲気を持っていた。

 ドゥオ国で貴族と言えば、まず威厳が求められる。美しさには、威厳を高める役割もあった。ライはどちらかと言えば、シイェの家の領地の管理人に近い印象である。


 車窓から見た景色が支配層に影響したものか、とも考えたが、同席したクィアンとかソオンとかいう貴族からは、ドゥオ国貴族と張り合える厳しさを感じた。

 どうやら、その柔らかな雰囲気は、ライ個人の性質らしい。


 シイェはそこで、サパの美しい宝を見つけた。


 リイは、領主ライの一人娘で、次の領主と決まっていた。

 ドゥオ国では、ありえない。貴族の当主は、男と決まっている。シイェは、まずそのことに驚いた。


 「非常に興味深いですね。貴国の国教とも言うべき、ワ教の教えと矛盾しませんか?」


 ツァオが遠回しに、シイェと同じ疑問を提示した。先んじて何か言いたげであったツェンは、この度は頷きで賛意を示した。彼は馬車でツァオに厳しくたしなめられて以来、口数をめっきり減らしている。


 「そのようなことは、ありませんよ」


 ライが、穏やかに反論した。彼は続けて、娘のリイがサパ領主となっても問題がないことを、異国の貴族にもわかるよう、説明した。

 シイェは領主が説明する間、リイを視界に収めていた。


 彼女の顔つきは幼さを残していた。それでも、立ち居振る舞いといい、受け答えといい、一人前として扱われるだけの賢さが表れていた。

 そして彼女は凛々しく、とても美しかった。


 シイェは、リイから視線を送られる度に、緊張で上手く微笑むことができなかった。彼は彼女と言葉を交わすよりも、その横顔を眺める方が好きだった。

 リイがシイェと目を合わせる回数は、徐々に少なくなったが、それも彼には心遣いと感じられた。


 彼は、ツェンもまた、リイを熱心に観察していることに気付いた。ツェンは発言こそ少ないものの、シイェと異なり、時折投げかけられる彼女の視線を確実に捉えて微笑み返す。その度に、シイェはグラスに黒いインクを垂らされる思いがした。


 しかしながら、滞在中、リイが最も目を向けた先はツァオであった。主賓の彼が、そのような扱いを受けるのは当然であった。

 頭で理解しているが、ツァオの華やかな美貌がリイを引き寄せているような気がして、これにもシイェは胸の内が暗くなる思いをした。



 「やられた」


 手紙を読み終えたツァオが呟いた。

 シイェは書類を捌く手を止めて、彼を見た。

 あれ以来、彼はツァオの秘書のような仕事をすることになった。秘書は大勢いる。シイェは、中でも下っ端に過ぎない。


 意外にも、ツェンはツァオの側から消えた。只のポン、に戻ったのであろうか。察するに、彼は見目と才能を見込まれ、貴族の家へ養子に迎えられたのだろう。


 ツェンほどの才気の持ち主さえ切られるならば、シイェがいつ父の家へ戻されても不思議はない。むしろ、今までツァオの側に仕えていることの方が、よほど不思議であった。


 一族の長でもあるツァオを訪ねる者は、家格の上下や血縁の遠近を問わず、切れ目なく続いた。貴族に限らず、わずかな縁故に(すが)り、利を得ようと近付く者もあった。


 ツァオは、彼ら訪問者の中から、必要な人材を選び出すのである。

 どうやら、シイェも彼のお眼鏡に適ったようだが、やはり理由は掴めなかった。


 読み終えた手紙が、側近へ回されると、そこから次々と人手に渡った。


 「ひとまず、サパ方面は様子見だ。当面の間、ハルワ国に関しては、アン地方への対策が主となるだろう。それは奴らに任せておけば良い。我々は、ジュウ国方面を潰しにかかる」


 「承知しました」


 奴ら、というのは、ツァオを煙たく思っている国内勢力のことで、家の歴史だけは負けず劣らず長いものの、領地経営力のなさから、没落傾向にある貴族が多かった。


 シイェの手元へ、手紙が回ってきた。


 「内容を確認した後、分類した綴りへ入れておけ」


 「かしこまりました」


 読み始めたシイェの中に、薄れつつあったサパの思い出が、鮮やかに浮かび上がる。明るい緑の続く風景。その中に立ち微笑むリイ。

 実際の記憶と異なることは承知している。そのイメージは、シイェにとってサパそのものであった。


 だがその思い出は、次第に色を失っていった。

 手紙には、サパ領主ライの娘であるリイが、ハルワ国の都在住の大貴族、カアンの息子と結婚する運びとなったことが記されていた。

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