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サイ 追放と解放

 真実、恐怖が(こも)っていた。ぎょっとした彼女は胸ぐらを掴まれ、手荒く壁に押し付けられた。


 「おのれ。イル様を、どこへやった」


 鬼気迫る顔から、しゅうしゅうと息が漏れる。サイはほとんど首を絞められた。行き場を失った血潮が、出口を求めてこめかみを叩く。


 「知、り、ま、せん」


 喉の隙間から声を出してどうにか返事をすると、気が遠くなってきた。

 だからジアは外出を禁じたのか、と考えるともなく考えていると、不意に首周りが楽になった。彼女は壁をずり落ちた。


 「しかもお前、女か。一体、何という」


 ヤオは五指を動かしながら、掌を穴の空くほど見つめた。それから再びサイに顔を向けた。恐怖も怒りも消え、茫漠(ぼうばく)とした表情であった。


 「いくら何でも、違い過ぎる。ジアさんが騙される筈はない。すると、この人は本当にイル様なのか。もしや、私の思いに応えて、唯一絶対神がこのような奇跡を示されたのか」


 サイが息を整える間中、彼は独りで話を進めた。彼は密かにイルを慕っていたようである。本物も女性と知ったら、喜ぶかもしれない。


 「否。神はそのような形で御力をお示しになりはしない。以前のお姿のままであればこそ、私とあの方とは至上の愛で結ばれ得るのだ」


 彼に真実は知らせまい、とサイは決めた。悠長(ゆうちょう)に彼の心情を汲んでいる場合ではなかった。彼は、三たび彼女を見た。

 この度は冷静であった。本来の知性を取り戻した彼は、手強そうであった。


 「やはり、お前はイル様ではない。スイ殿もご存知なのか? 否。彼のようなお人好しが、これほど重大な秘密を抱えて皆を欺き通せるとは思えない。すると、お前があの方を人質にジアさんを脅したか。お前は女だてらにイル様に成り代わろうなどと、全体何を企んでいるのだ?」


 これは、彼がイルを慕うあまりに起こした単独行動と見てよい。好機である。どう話せば彼を味方につけられるか。

 サイは考える時間を稼ごうと、(おもむろ)に口を開いた。


 「確かに、私はイルではありません」


 当然だ、といわんばかりにヤオが頷く。


 「ここにいるのは私の意思ではありません。もし、私が脅す側にいるならば、ここに大人しく閉じ込められる筈がないでしょう」


 現に鍵を開けて入ってきたヤオは、はたと腰の鍵を見下ろした。


 「そうかもしれない」


 顔を上げると、困惑した表情になっていた。彼は狭い部屋を見回した。


 「彼女が皆に、お前をイル様と思わせていることは事実だ。不本意にしろ、自発的にしろ、お前は大人しく一室に籠っている。これも事実だ。この二つの事実は」


 荒々しく扉が開けられた。ジアであった。髪も息も乱れている。


 「ヤオ殿。ここで何をなさっているのですか。イル様は、ご承知のとおりの状態で、しかもお体の調子も優れないのですよ」


 ヤオは面を伏せた。


 「失礼しました。どうしてもご尊顔を拝したく、もしや、思い出話などを差し上げれば、ご容態に良い影響を与えるのではないかと、勝手に押し掛けてしまいました。ジアさんの言うとおり、焦りは禁物のようです。お邪魔しました」


 彼は鍵を彼女に渡すと、大人しく立ち去った。イルならぬサイについては、全く言及しなかった。まるでイルが偽物であることなど気付かなかったような振る舞いであった。

 ジアは明らかに安堵の様子を見せた。


 「どうやら大丈夫だったみたいね。あんまり痩せてないけど。よかったわ。ああ。食事を運ぶのを忘れた」


 彼女は、ばたばたと部屋を後にした。サイはヤオとのやりとりを思い起こした。

 ジアは、相変わらずイルの行方不明を仲間にも伏せていた。今更、間違えたとも言えまい。


 しかし、イルのためとはいえ、一人の胸にしまっておける問題であろうか。何よりイルを思えばこそ、多くの手を借りて行方を探すべきであろう。なれば、イルのためにサイを身代わりに仕立てた、というジアの話は嘘である。


 他方、イルが教祖であることには間違いない。新興宗教にとって、教祖は神に等しい存在である。少なくともジアには、信仰心とは無関係に、この組織を維持しなければならない理由がある。

 そこまではサイも考えついたものの、肝心の理由については、全く見当がつかなかった。



 数日後、またしても食事の時刻より前に、扉が開かれた。この度の訪問者はジアであった。彼女は、扉を開け放したまま、サイに詰め寄った。


 「あんた、裏切ったわね。くそ女。売女。殺してやるっ」

 「なんの話で」


 サイはたちまち押し倒された。ジアはなおも罵声を浴びせながら、喉元に手を伸ばした。見た目は華奢(きゃしゃ)なのに、のしかかられた体は重く、腕の力も強い。ヤオとさして変わらぬように感じられた。


 サイは精一杯抵抗したが、甲斐なく首に手をかけられた。ジアの両手が喉を絞めつける。がんがんと耳鳴りが始まった。罵声が聞き取れなくなる。


 ふっと息が軽くなった。思いもかけぬ方向から腕が差し延べられ、彼女は起き上がらされた。


 「この人は何もしていない。ジア。裏切り者はお前だ」


 初めて聞く声の方を見ると、両脇を修道士に抱えられたジアに向き合って、司祭服を纏った年嵩の男性が見えた。サイはもう、修道士にも司祭にも驚かなかった。


 「イル様がお姿を隠されたことは、まことに遺憾であるが、これを唯一絶対神が課した試練と解釈することは可能であり、正当に思われる。ジア。お前は神聖なる試練を不当に貶めた。その罪は重く、万死に値する」


 ジアは黙っていた。口を半開きにしたまま、目を見開いている。彼女が嘘をつくきっかけを作ったスイもいた。今日も修道院長の服を纏っていた。恐らく常の装いであろう。


 「とはいうものの、お前はこれまでイル様を通じて我々に多大な貢献を行った。今回の罪も、結論は間違っていたものの、イル様を思うあまりの過ちと考えられなくもない。それゆえ、お前たちには追放を課すのみで赦してやろう。以後、我々に関わる事を禁ずる。わかっておろうが、軽々しく他言すれば、自らの身を滅ぼすばかりだ。お前たちが一時的にせよ、我々の仲間であったことは否定できないからな」


 「まったく女って奴は」


 誰か若い声が呟いた。声の調子では独り言のつもりらしかったが、ちょうど宣告が終わった直後のことで、思いのほか大きく響いた。ジアが鋭く反応した。


 「男も女も関係ないって言ったじゃないの。何がイル教よ。あんたたちなんか、くそワ教と一緒だわ」


 彼女はもがいたが、二人の修道士たちはびくともしなかった。司祭が手を振って何かを合図した。


 「命を助けるのだ。ありがたいと思え」


 サイは目隠しをされ、後ろ手に縛られた。ジアは猿轡を噛まされたらしく、途中から罵声が不明瞭になった。

 それから、縛られたままで歩かされた。足音と風の具合で建物の外へ出たと思ったら、急に抱え上げられて、座らされた。馬の息づかいと金具の音で、馬車へ乗せられたと知れた。

 両脇に人が座り、向かいの席には荷が載せられた。馬車は出発した。暫く誰も言葉を発しなかった。


 「こいつ、確かにイル様に似ているな」


 左隣の人物が言った。聞き覚えのない声であった。


 「お前、本当にイル様の行方を知らないのか?」


 右隣の人物が尋ねた。彼にもまた聞き覚えがなかった。サイは頷きながら、ジアの居場所を訝った。てっきり左右どちらかに座っているものと思い込んでいた。ところが、両脇の二人とも男性であった。

 馬車は揺れもしないのに、向かいの荷ががたがたと音を立てた。左隣の人物が腰を浮かした。


 「うるさい。静かにしろ! 窓から放り投げられたいか」


 一喝されて、荷は静かになった。どうやら荷の正体が、彼女であるらしかった。それからは誰も喋らなかった。馬車は順調に歩みを進めた。場所を特定できるような音は何も聞こえなかった。サイは空腹が過ぎて頭がぼんやりしてきた。


 はっと気付いた時には、馬車は止まっていた。気を失っていたらしい。大胆にも、眠っていたかもしれない。僅かながら、妙な爽快感があった。


 「着いたぞ。降りろ」


 右隣の人物に引きずられるようにして、サイは馬車を降りた。後からジアも降ろされた。背中に尖った物を突きつけられた。


 「このままお前たちを置き去りにすれば、確実に死ぬ。これからお前の目隠しを解いてやろう。ただし、目を閉じたままでいろ。馬車が動き出してからゆっくり百を数え終えるまで、目を開けるな。もし言う通りにしなければ、この矢がお前たちを貫く。的を外しても、戻って命を取ることになる。わかったか」


 「はい」


 目蓋(まぶた)を覆う圧迫感が消えた。サイは言われた通り、馬車が動き始めてから百まで数え、それから目を開いた。



 日に照らされる岩があった。振り向くまでもなく、見渡す限り荒れ地が広がっているのがわかった。馬車はとうに姿を消していた。

 水入れと思しき瓢箪(ひょうたん)が二つ、岩にもたせかけてあった。離れた位置に、目隠しと猿轡をされ、手足をぐるぐる巻きにされたジアがもがいていた。サイは歩み寄った。


 「これから口で目隠しを取ります。動かないで下さい」


 彼女は大人しくなった。耳までは塞がれていなかった。サイは苦労して目隠しを外し、猿轡も外してやった。


 「あんたも馬鹿正直ね。待つことないのに。畜生あいつら。覚えてやがれ」


 口が利けるようになった途端、ジアが吼えた。唾を飛ばす罵詈雑言の嵐が止まないので、サイは理屈をつけて先に手の縛めを解いてもらい、その間彼女の口を塞ぐことに成功した。ひと仕事の後、顎が疲れたのか彼女の口数は激減した。


 二人とも体が自由になると、サイは早速瓢箪の中身を飲もうとした。


 「毒かもしれないわよ」


 ジアの一言で、彼女は飲むのを止めた。


 「ここは、どの辺りなのでしょうか」

 「さあね。あの山はドゥオ国とハルワ国の境だと思うけど」


 遠く見える山並みを指した。サイは瓢箪を置き、山を目がけて歩き出した。ジアが小走りについてきた。


 「ちょっとあんた。あてもないのに、どこへ行くつもりなのさ」


 「私はサパへ帰りたいのです。あれがドゥオ国との境の山とすると、太陽との位置関係から、ここはチン地区ではないかと思います。ですからもう少し山に近付いて、方向をしっかり定めてから進めば、いつかはサパへ辿り着く筈です」


 「あたしはハルワ方面へ行きたいのよ」

 「では、あちらへ向かって進めばよいでしょう」


 サイの指した方角を、彼女は疑わしそうに眺めた。両手には、所謂毒入り瓢箪を提げている。


 「一緒に行くわ。あんた、見かけほど馬鹿じゃなさそうだもの。無事サパに着けたら、そこからハルワ行きの馬車を捕まえるわ」

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