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ユアン 変容

 聞いていたとおり、リイは死産の悲しみからは立ち直ったようであった。


 長い年月が過ぎ去っても、盗賊に(さら)われて放浪していたのでは到底悲しみを(いや)す機会はなかったであろうに、あるいは打ち続く困難が却って古傷の痛みを薄れさせたのかもしれない。


 救出されたばかりの頃の彼女は、見る影もなくやつれて別人のようであったが、今は昔日の面影を取り戻しつつあった。


 「(ようや)くお目にかかれて嬉しいわ。折角城へ戻れたというのに、まるで来てくださらないのですもの」


 リイは首から提げた鎖を指で弄びながら、若い娘のようにすねてみせた。

 ユアンは戸惑った。以前の彼女にはなかった姿態である。


 かつてのリイは、次期領主の誇りに満ちた、高貴で知的な立ち居振る舞いが独特の美しさを形作っていた。

 彼は彼女のそのような部分に惹き付けられたものであった。


 娘を死産した挙げ句、異端審問に晒された後さえも、彼女の態度は変わらなかった。それが、帰還後の彼女は、知性の大部分を置き忘れてきたようであった。


 さてこそ、期待したチン地区の盗賊に関する情報も、ろくに得られず終わったのである。長い行方不明の間、彼女は生き残るために何かを捨てねばならなかったのであろうか。


 正気ではある。痴愚に堕したのでもない。しかし、断じて元の彼女ではない。

 お気に入りらしい首飾りも、まるで服に合っていなかった。彼は内心哀れに思いながらも、誠実に応じようと努めた。


 「何かと忙しくて、つい足が遠のいてしまった。立場上のこともあるけれども、寂しい思いをさせたね」

 「いいえ。こうして来て下さっただけで嬉しいの。ありがとう」


 彼女に手を握られ、ユアンはますます用件を切り出しにくくなった。目が首飾りの鎖に落ちる。

 変哲もない単純な鎖は、銀製らしく黒ずんでおり、先は服に遮られて見えなかった。


 「その首飾り」


 言いかけて、続きに詰まった。嘘を承知で話の接ぎ穂に褒めるべきか、正直に不似合いだから外すよう忠告すべきか、今のリイの状態では事によると機嫌を損ねて話ができなくなるのではないか、と恐れた。

 彼女は小首を傾げて彼の言葉を待つ様子である。彼は進退(きわ)まった。


 「見せてもらえないか」


 ユアンの手を握るリイに力が入った。表情もやや硬くなった。恐れていたように、間違った選択をしたらしかった。彼は打ち消そうとしたが、彼女の方が早かった。


 「いいわよ」


 彼から手を離すと首の後ろに回し、器用に鎖を外した。服の端から持ち上がった首飾りの先端に、彼は目が釘付けになった。


 「どうぞ」


 リイの肌で温められたそれが、掌に載せられた。中を改めるまでもない。サイが持っていた形見の首飾りであった。彼は半ば無意識に蓋を開いた。紛うことなきカアンの紋章が刻まれていた。二色の髪の毛までそのまま残っていた。やはり、サイはあの根城にいた。これをリイが持っていることは、何を意味するか。


 「それは、牢に落ちていたの。お義父上の紋章があったから、唯一絶対神がお守りとしてくださったのだと思って、大事にしていたの。お陰で盗賊からも助けてもらえて、城に戻れたわ。良い機会だから、あなたにお返しするわね」


 リイが喋っている間、ユアンは開いた蓋を見つめ続けていた。彼は、サイが死んだという確信に襲われ、とても平静を保っていられなかった。リイは彼の状態を怪しむ風も見せず、一人で話し続けた。


 「あなた、わたくしのために再審問や特赦の申請もしてくださっているのですってね。本当にありがたいわ。攫われたとはいえ、あまりに長い間消息を知らせることができなかったから、ほとんど諦めていたの。このようなわたくしさえも、唯一絶対神はお見捨てにならなかったのねえ。今こそ、神の偉大さが少しは感じ取れると思うわ。もし特赦が下りたら、母上のお墓参りをしたいわ」


 「今日は、改まった話があって来た」


 ユアンは(おもむろ)に蓋を閉じ、首飾りを懐へしまい込んだ。彼を我に返らせたのは、娘の存在であった。

 リイは、お喋りを中断されても気にする様子を見せなかった。曖昧な微笑を浮かべ彼の言葉を待った。


 「あなたがいない間に、子どもができた」


 彼女の微笑がくっきりと際立った。


 「知っているわ。男の子? 女の子? 名前は何と言うの? 幾つになる? あなたに似ている?」


 「領民には、あなたが攫われたことを公開していなかったから、あなたの子と思われているようだけれど、訂正した方がよいだろうか」


 予期せぬ明るい反応にやや安堵しつつ、ユアンは彼女の問いを封じるようにして、話を押し進めた。


 「嬉しいわ。子どもまでできているなんて。これも唯一絶対神のお導きね。ですから、そのままそう思わせておけばよいのではないかしら。早速会いたいわ。会わせてくださるのでしょう?」


 「寛大な心に感謝する。もちろん、いずれ母親として手本を見せてもらいたいけれども、今は、少なくとも再審問と特赦の結果が出るまでは会わないでいて欲しい。あなたが大人しく謹慎していないと判断されて、審査が不利になってもいけないし、念には念を入れたい。時期が来たら、詳しいことを話そう」


 段々表情が暗くなるリイに、ユアンは言葉を慎重に選んで言った。異端の母親と接したリアンの将来が不利とならないようにしたい、とはさすがに言えなかった。


 「そう。残念だけれど、仕方がないわね」


 彼女は沈んだ顔つきをしながらも、納得した様子で頷いた。言葉にできなかった分も理解したらしかった。彼はほっとして席を立った。


 暇乞いをして背を向けると、彼女も見送りについてきた。静かな部屋の中、衣擦れの音だけが大きく響く。彼女は足音一つ立てなかった。彼が最後に振り向くと、彼女の笑顔が前にあった。


 「その子の母親は誰なの?」


 釣られて微笑みかけた頬が引きつるところであった。彼女は無邪気な笑みを崩さない。彼は顔から笑みを消した。


 「死んだ。私もあなたも、二度と彼女に会うことはないだろう」


 咄嗟(とっさ)に口をついて出た言葉が、ユアン自身を貫いた。

 その通り、彼は二度とサイに会えないのだ。


 ユアンは、妻に子の真の母親を告げることができなかった。彼は逃げるようにその場を立ち去った。



 「ご無沙汰ですな」


 祈祷を終えたクインは、ユアンに冗談めかして笑いかけた。礼拝者は彼一人である。

 サイが還俗してから、リアンが城に来てから、と段階を経て彼の礼拝堂通いは最盛期から徐々に減りつつあったが、リイが救出されて以来、これまでになく足が遠のいていた。

 ユアンは苦笑で応えた。


 「雨漏りの染みか」


 目についた汚れを指すと、クインが頷いた。


 「内壁の補修ができれば、大分見栄えも違うのですが」


 城の礼拝堂はヨオンの発案による改築から年月が経ち、そろそろ補修を必要とする傷みが目立ち始めていた。

 司祭のクインを始めとした修道士たちのこまめな手入れがなければ、とうに荒廃していたであろう。


 日常の手入れにも限界があり、専門家の手が必要な時期に達していることは、ユアンにもわかっている。

 ただ、先立つものがない。


 襲撃を受けたホン地区にも注ぎ込んでいたし、カアンの捜索や救出、養生という思わぬ出費もあった。

 元々サパはさして余裕のない領地であったのに、やむを得ぬとはいえ、ユアンが来てから大きな出費を伴う出来事が幾つも起きて、ますます財政が厳しくなった。


 領主交替論が出るのも当然である。

 トウの後に赴任したクインも、サパ暮らしが長くなった。ハルワ仕込みの洗練さは未だ失われずといえども、大分垢がついた。

 窮状を訴える絶好の機会に遠慮がちなのは、内情に通じたためか。


 「リイは、異端の考えを捨てたのか?」


 近頃彼女は、信仰に熱心な態度を示していた。幽閉の身であるから、礼拝に出ることは叶わない。代わりに聖職者を派遣するにも、相手は身分の高い異端者である。自然、司祭のクイン自ら赴かざるを得ない。


 城外の礼拝者が少なく、領主の足も遠のいている折り故、度重なる要請にも応じられたのである。

 先般ユアンと面談した際に、彼女は再審問にしても特赦にしても歓迎する意向を示していた。


 生まれ育った城に戻っても、今の境遇が窮屈であることには変わりない。自由を求める気持ちは理解できるが、誤った信念を改めることが大前提であった。


 「そのようです」


 クインは続けようとして、(しば)躊躇(ためら)った。告解の内容は、原則として他言を禁じられる。

 彼は面談と告解の境界線と影響を見定めているのであろう。


 「ユアン様は、リイ様が特赦を受けた場合、あの方に譲位なさいますか?」


 「当然一度は(はか)らねばならぬ問題であろう。本人が望むならば、私は後押しするつもりだ。ただ、クィアン殿やソオン殿に期待する声もある。実現は難しいと思う」


 はぐらかされた話を追わず、ユアンは問いに答えた。

 クインは時間稼ぎでもしているのか、相槌を打つ顔が上の空に見えた。


 「リイ様を攫った組織は、イル教に関わりがあるかもしれません」


 彼は司祭の顔を注視した。クインは相変わらず内心で考え事をする風であった。


 「あの方は、イル教を全く知りませんでした。私が説明申し上げると、考え方の類似に驚いておられました。そう言えば、盗賊どもはあの方に対して手荒な真似をほとんどせず、修道院風の場所に連れて行かれたこともあったということです。つまり、イル教がリイ様の存在を知り、象徴として担ぎ出すために攫ったのではないかという推測も成り立つのです」


 「彼らがイル教徒であるとして、ホン地区の襲撃はどうなるのか」


 ユアンは内心で、犯人をチンの盗賊と断じていた。すなわちドゥオ国の手先である。

 盗賊が単なる宗教集団であれば、ホンを襲う理由がない。


 「あれは偶発事件として、片がついたのではありませんか」


 クインは無関心に言った。ハルワティアンから情報を得て薄々感付いているとしても、彼は表向き、ホンの開発に携わっていない、という立場を崩さなかった。


 彼の推測が正しければ、リイは犠牲者である。しかも彼女のお陰でイル教に、己の利益のためには不法をも厭わない犯罪集団、と公に烙印を押すことができる。


 ワ教としては、単なる異端の改宗という手ぬるい方法のみによらず、司法的にも彼らを追いつめることが可能になる。この点を突けば、国王の不興にもかかわらず、彼女は特赦になるかもしれない。


 ウェン王も熱心なワ教信者なのである。クインは彼の仕事に専念したい、と暗に示していた。


 特赦はサパにとっても望むところである。ユアンは大人しく退却した。

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