サイとリイ 入替
嵐が去った後、サイは牢へ戻される間も、その後も、魂が抜けたようにぐったりとしたままでいた。
興奮した牢番たちが縛めを解き忘れたので、両手は未だに綯い合わされたままであった。
縄目の擦り傷からは、血が滲む。しかし彼女には、誰かに訴える気力がない。
痛いと言えば、心も含めて、どこもかしこも痛い。
これも神の試練であろうか。それとも御心を誤ったために受けた罰であろうか。
ともすると湧き起こる嵐の記憶から逃れようと、彼女の心は彷徨った。
イル教の長に持ち去られた母の形見に思いを馳せる。あの首飾りは、母の想いが籠ったお守りであった。
あれを手放した途端、カアンに連れ出され、牢に閉じ込められ、男たちに乱暴された。
またも嫌な記憶の責めを受け、サイは別の問題に注意を向ける。
イル教の彼は、最後の質問に答えなかった。形勢不利とみて話を打ち切ったのだ。
最後の問いは重要であった。
彼は何故イル教を興したのか。洗礼前の赤子に名前を付ける異端は、実は珍しくない。
リイほどの地位にある者が弾劾されたのは衝撃的ではあったが、彼女を象徴とするならリイ教と名付ければ済む。
表向き、彼女は幽閉されている。重ねて異端の罪を負わせる恐れはない。リ教でもよい。イルなどは、まるでリイという名を連想させながら、リイではない、と主張するような呼称ではないか。
やはり彼はリイかもしれない。しかし、証拠はない。
彼は結局名乗らなかった。別人であったとしても、彼がリイと似た体験を持つことは間違いない。異端と指弾されはしなかったものの、嬰児を洗礼前に亡くし、その扱いに不満を持ったのであろう。
新たに宗教を興し、一定の人びとに支持されるほどの人物が、サイの首飾りに目を奪われたのは意外であった。
あれが高価で稀な品であることも、今の彼女は正確に理解していた。
しかも彼も見たように、あの内側にはカアンの紋章が刻まれている。
身を飾り立てるには、そぐわない。独り眺めて楽しむつもりであろうか。
清廉と感じた初めの印象は、完全に崩れた。彼の本性が祭り上げられるほどのものではないことは、部下の振る舞いにも表れている。
嫌な記憶に触れ、彼女は別のことに考えを向けた。
イル教は、ワ教に似た別の宗教ですらない。ただの無法集団である。
確かに法王は、イル教撲滅に力を注いだ。それは武力を用いてではなく、人海戦術はとったが、あくまでも平和的手段に訴えたのである。
真の信仰であれば、迫害にもよく耐える。アン地方がよい例である。
王自らワ教を奉じるハルワの一地方にあって、不利を承知の上、未だ領主にワ教信者を頂こうとしない。現在の領主はヨ教を信仰する。
アン地方では、ヨ教信者どころか、水神教なる信仰も盛んであるが、いずれもワ教と共存している。
引き比べてイル教は、人気のない場所に牢獄を作り、攫った人間を閉じ込めておくなど、その行為は盗賊まがいである。教義の解釈以前に、組織自体が悪に堕している。
彼は、先にワ教の組織を批判した。ワ教の教会組織に問題が些かもないとは言わないが、イル教の方がよほど悪質である。
さんざんイル教をけなした後で、サイは彼に投げかけられた言葉を思い出した。彼女が男性であったならば、そのまま聖職者としての道を歩ませてもらえたろう、との推測は、彼女に関しては誤っている。
祖父のクィアンは、男子の後継者を喉から手が出るほど欲しがっていた。サイが男性であればなおさら、還俗させて妻を迎えさせたに違いない。彼女を引き取ったのは恐らく、ユアンの子を産む期待があったからであろう。
そうでなければ、却って聖職者に留まるよう計らったかもしれない。と言っても法王が還俗させたがったのであれば、彼には逆らえなかったろう。むしろ問題はここにある。
イル教の長は、知らずサイの蟠りを指摘した。彼には言わなかったが、特別司教となった彼女がこのまま立身出世することを望まない者が、ワ教聖職者の中に大勢いる。
そのことが彼女の身元を洗い出すきっかけとなったのではないか、と彼女は考えたことがある。
唯一絶対神は信仰から日常生活に至るまで身分や性別による様々な区別を設けておられるが、どの教典を紐解いても、女性が法王になってはいけない、という明文は見つからなかった。
当然、禁止規定がなかったから特別司教にもなることができた訳である。改めて考えてみると、サイより優れた修道女は大勢いるのに、彼女が史上初の司教であるというのは、全聖職者の男女比を思えば奇妙な事実であった。
教義とは別に、選考基準があるということになる。すると法王から修道士に至るまでの間、解釈に多様性が生まれる、というイル教の彼の意見が正しいことになる。彼女は呻いた。
論駁したつもりが、返り討ちにされた気分であった。
「酷く怪我をしているみたいですが、手当をした方がよいのではありませんか」
人の声が聞こえて、サイは現実に戻った。触発されたように、体の痛みが一斉に主張を始めた。目を動かした彼女は、こちらを覗き込む男たちを認めた。
うち二人から受けた仕打ちが稲妻のように脳裡をよぎり、彼女は身を硬くした。叫ぼうにも口の中は血まみれで、力も出なかった。
「大したことねえよ。放っておけば治るって」
牢番たちはずかずかと中へ入ってくると、抵抗する間もなくサイを外へ引きずり出した。
外にいた男性は、困惑した顔つきで倒れ伏したままの彼女を見下ろした。見覚えのない彼は、何故か懐かしい雰囲気を身に纏っていた。
「これは背負うしかなさそうですね。手首の縛めを解いてもらえませんか」
「縛っておいた方が身のためだと思うがな」
一人が言うと、いま一人が手を打った。
「じゃあ、こうしよう」
二人の牢番は手早くサイの綱を解くと、後ろ手にまとめていた腕を前に回し、再び新しい綱で縛った。それから二人掛かりで甲冑を着せるようにして、彼女を残る一人に背負わせた。
「これでよし」
満足そうな二人に見送られて、彼は歩き始めた。サイは、彼らから一歩離れる毎に安堵の念が強まるのを感じた。
それに彼は、信頼できるような気がした。
尤も、イル教の長にも同じような感想を持った彼女のことである。その勘は全く当てにならない。我ながら苦笑せずにはいられなかった。
道は上り坂であった。ところどころ整然と石を積み上げた箇所もあるが、大部分は剥き出しの岩で、洞窟の中を進んでいるような印象を受けた。彼は何度か左に右にと針路を変えたが、サイにはどこも同じように見え、どこを歩いているのかはもちろんのこと、牢屋からどのくらい離れたのかもわからなかった。
やがて彼はある扉の前で足を止めた。妙に頑丈そうな、無骨な入口であった。
「手荒く扱われたものだな」
扉が開いて顔を出したのは、例の教祖であった。
リイはサイを用意の椅子に縛り付けさせてから、修道士を下がらせた。
彼女の顔は殴られて腫れ上がっていたし、破られた服の隙間から咬み痕が覗いてもいた。
何があったか一目瞭然であった。
尋常でない彼女の顔は人並みの表情を作れなくなっていたが、空虚な瞳が補って余りあるほどの心情を伝えていた。
二人きりになっても、彼女はじっとして動かず、一言も発しようとしなかった。
リイもまた無言のまま、サイの顔を手当てし始めた。彼女は時折呻くほか、されるがままになっていた。リイが手当てを終えて次の段階に差し掛かっても、じっとしていた。まだ暴行の衝撃から覚めていないのかもしれなかった。
彼女は抵抗がないのをよいことに、作業を進めた。サイは髪に手をかけられた時さえ、無抵抗であった。
「さあ、できた。我ながら会心の出来だ」
リイはそう言うと、手鏡をサイに突きつけた。初めは何の反応もなかった。やがて目の焦点が徐々に鏡像へ結ばれる。自らの顔を鏡で見た彼女は、ひっと息を呑みかけて、激しく咳き込んだ。彼女が落ち着くまでの間、リイは辛抱強く手鏡を前に据えていた。漸く咳が治まった彼女は改めて鏡を覗き、もの問いたげにリイを見上げた。
「これが終わりではない。服を脱いでもらう」
ここで初めてサイが反応した。体を強張らせ、縛めから抜けだそうともがく。リイは仕方なく彼女を縛ったまま服を切り剥ぐはめになった。元々破れていた服は、とても貴族が着る代物ではなくなった。
リイが服を脱ぎ始めると、彼女の呼吸が荒くなった。彼女はサイの反応に構わず、下着姿になると、ぼろ切れ同然となった服を身に纏った。
彼女には少し大きかったのを、あちこち結び合わせて無理矢理着ると、別の服のように仕上がった。次いで彼女は髪を結い、女性らしい形にした。
リイの顔には一切手を加えていなかったが、サイの目は驚きに見開かれた。
「あなたがこの服を着れば、完成だ」
リイは縛めを解いたり縛り直したりしながら、先ほどまで彼女自身が着ていた服をサイに着せた。椅子に縛られたサイとイルは消え失せ、代わりに縛られたイルと彼に似た女性が出現した。
「ほらご覧。男女の違いなど、微々たるものだろう」
イルに変身させられたサイに向かって、リイは言った。サイは戸惑いの表情を返すばかりである。
「あなたが言ったように、男性は子を産むことはできない。女性は子を産める。それが何だというのだ。男性は子を育てることができるし、女性にしても年中子を産んでばかりという訳ではあるまい。わたくしが言いたいのは、性別が異なるという理由だけで、最初から能力に上下を定めるべきではないということだ。男性にも無能な者はいるし、女性にも有能な者がいる。最も有能な女性が最も無能な男よりも下だと、誰が断言できるというのだ。唯一絶対神は、そのように人間の能力を定めはしない」
リイは勢いで断言した。サイは何も言わなかった。女性に変身した、実際は女性に戻ったリイを、しげしげと眺めている。
誰かをイルに仕立てようという発想は、以前から持っていた。
サイには大差ないと豪語したものの、リイ自身、死ぬまで男性のイルを演じ続ける気はなかった。
どこかの時点で適当な男性を見繕い、自分はジンのように裏で糸を引くことを目論んでいた。彼女の変装係であるジアは、リイの考えを知らない。
リイがジンの位置につくということは、イル派と彼の関係が薄れることを意味する。ジンを愛するジアの反対は目に見えていた。有り体に言えば、リイはジアを含めたジンの一派と手を切ろうとしていた。
これ以上、彼らに利用されたくなかった。こちらが動くより前に、厄介事に巻き込まれてしまいはしたが、彼女はまだ諦めていなかった。